2023年3月24日金曜日

人類機嫌

  近頃、怒りっぽくなってきたのである。

 仔細は述べないが、実際のところこの半年の間に私は多くのものを失い、加えて無職であるのにも関わらず貯えのほぼ全てを使い切ってしまった。端的に言って余裕がなくなってきたのである。

 私もただ徒に無職というモラトリアムの惰眠を貪っていたわけではないのだが、それでも私の精神が安定していたのはそのモラトリアムのなせていた業であって、その終わりが地平線の上に見えてきたとなれば焦りもするし怒りもするし、心から余裕というものがなくなっていくのも無理のない話だと思う。

 今の私はもう毎日が大変だ。朝起きて目覚ましが鳴るよりも早く起きてしまったことを呪い、一丁前に腹が減ることを恨めしく思い、何か予定が入っていれば(というより目覚ましをかけている時点で確実に何か予定が入っているのだが)その時間まで尻が落ち着かず胃が痛くなり、いざ一日が終わってみればこの手に何も残っていないことに絶望している。感情は常に生活に振り回されっぱなしで、ジェットコースターという形容ではもはや生易しい。これがジェットコースターであれば、既に死人が出ていても何らおかしくない設計だ。入園者と退園者の数が合わない恐怖のテーマパークへようこそ。

 びんぼうソフトが開発したゲームのようなテーマパークはさておき、インターネットでは「自分の機嫌は自分でとる」というお題目が金科玉条のように振りかざされるようになって久しい。久しいのだが、未だにインターネットは何かに怒っているのが常である。誰も自分の機嫌を自分でとったりなどしていない。

 そもそも、こういったマインドフルネス的な手合いが信用ならないのは、自律の文脈で他責をやりやがるところである。「自分の機嫌は自分で」と言えば聞こえはよいが、実際にやっていることは「自分の機嫌も自分でとれないなんて!」と他人を非難することだけだと言っても過言ではない。少なくとも私の肌感覚ではそうである。

 往々にしてマインドフルネスというものは、その性質上、それぞれの自尊心をブクブクと飼い太らすことに遠慮というものがない。そして自尊心を手っ取り早くムチムチパンパンのワガママ腸詰ボディちゃんにするためには、他者を見下すことが一番なのである。

 実際にはそれ以外の方法もあるだろうし、そちらのほうがより推奨されているのだろうが、見えている近道を無視してあえて険しく長い道を進むというのは、どうやら人間には難しい行いのようだ。頑なに近道をしないのは、この世でアリンコくらいのものだろう。よく仕事にうつつを抜かす様をして「俺なんて働きアリだよ」などと宣う輩がいるが、隙さえあれば体よくサボろうとする我々人間がアリンコを僭称するとはなんとも不遜な話である。我々はそのあたりの誠実さにおいてはアリンコ以下であることを強く胸に刻んでおいてもらいたい。

 やっている側が大方そんな姿勢である上、一聴には聞こえのよいマインドフルネス的思想を正面切って批判する勇気のある者は多くないがために、これらの人類見下し健康法はあまりにも無邪気に人口に膾炙しているのである。 そのため彼ら彼女らの元々厚い面の皮は更に厚くなっており、叩いて伸ばせばその面積はテニスコート3面分にも及ぶとされる。

 人間が他人の心の在り方を自由にしようなんておこがましいとは思わんかね……と本間先生がギリギリ言っていそうで言っていないセリフを引用しそうになるが、自分の心を守るために他人を見下すことは、無論それだけでは犯罪ではない。それで守れるものがあるなら、別に悪いことでもないとすら思う。しかしながら、それを美辞麗句で粉飾し、あたかも善行のようにして推奨・強制するのは人道に反するだろう。一見して素晴らしい行動指針も、よく考えてみれば特定の集団を排斥する目的が隠れていたりすることはよくある話である。分かったかいマックス。

 他人の不機嫌を外力によって矯正する社会の果てに、住みよい世界が広がっているとは私には到底思えない。かつてキレる若者達と呼ばれた人々が歳を重ねた結果キレる中年達になっている今、他者の感情を矯正しようとするのは不可能であり、不可能でなければならないことを今一度認識しなおしたいところである。

 以上、キレる無職の雑文であった。