2022年11月20日日曜日

11月20日

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 11月20日である。

 この日が何の日かというと、そうイタリア王妃マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァの誕生日である。ちなみに本邦では、その名を冠した料理であるところのピッツァ・マルゲリータと関連付けてピザの日とされている。

 以上は年に一度あるかないかのこよみ雑学であって、今日はこのページを開設してから2周年の節目である。

 いつの間にやら2周年である。休止期間もあったし、内容や方向性も未だ定まっているとは言いがたい当ページであるが、基本的に私には歳を取った以外の変化がないので驚く。

 驚いてばかりもいられないが、実際のところそうなのだから仕方あるまい。当初は純然たる日記としてスタートしたこのページは、運営者たる私が勝手にコンテンツの存在価値に悩み、記事の完成度というハードルを上げたせいで見事に機能不全に陥った。

 何しろ無職の生活は本当に変化というものがない。感情の些末な機微は勿論あるが、無視できるレベルの大きさでしかあり得ない。なので、そんな人間が日記を書いたところで「くそしてねた」以上のものにはなり得ないのである。当たり前の話だ。

 そして以前書いたように、私は特に何も考えることなく日々を生きている。何も考えていないのだから何も書くことがない。これまた当たり前の話である。ない袖は振れぬ。心は今もノースリーブである。

 私は殊勝にもそれではだめだと考えたのだから、インターネットの末席を汚す者としての、その気高さにも似たストーリーテラー的自己認識に一片も疑いの余地がないことは、諸兄らにもお分かりいただけると思う。

 私という店子は、大家たるインターネットにコンテンツを提供することで住所を保てるのである。その代わり、インターネットは店子のことには知らぬ存ぜぬを突き通して極力触れぬし、私とて時には大家の悪口を吹聴する。そこに賃貸契約以外のいかなる関係もない。それが理にかなった陣地確保の仕方である。英国王室とロンドン市民の関係のようなものだ。

 すなわちインターネットにコンテンツを提供出来なければ、我々に与えられる陣地は極小となる。ラッシュアワーの電車よりも酷い。この契約を履行する限り、少々のデメリットがあるのも致し方ないことである。何も大家は、ご近所さん達と仲良く付き合えと強制しているわけではないのだ。気が付けばそこら中の押し入れや床下から知らぬ顔が次々と我が物顔で這い出してくる、『椿三十郎』のワンシーンのような事態になりかねない。

 さて話を元に戻すと、私の高邁な理想を現実のものとする上での問題は、いざひとかどのコンテンツたり得ようとしてみると、あまりに割かねばならないリソースが多かったことである。

 諸兄らも存じているだろうが、一度はギターいじりをコンテンツ化しようとしたことがある。

 言うまでもないことだが、ギターをいじるためには元手がいる。パーツだって買えば高い。ネジが10本で1000円ほどもする狂気の世界である。まあ、ネジくらいならそこらのホームセンターを根気よく探せば同等品が(1/10ほどの値段で)買えてしまうが、ブリッジやピックアップなどのハードウェアではそうはいかない。

 それに、きちんと記事にするためには作業の前後や経過などの写真が不可欠である。このブログサービスにもデータの上限というものが存在する以上、あまりバカ丁寧に写真を添えることも出来ない。いちいち見苦しいものや諸般の事情でお見せできないものを画角から外して撮影することも手間である。そんなセッティングをしている時間があるなら、さっさと作業を終えてしまいたいのが人情というものだ。

 分かりやすい写真やキャプションのことを考えるあまり、手元がおろそかになり作業途中にギターに傷をつけたので、私はこれをコンテンツ化することを見限った。だいたい、本職のリペアマンでもない人物(一応専門教育は受けているが)が行ったギターの改造記録など、誰が読むというのだろう?私以外にそんな奇特な人物がいるとは到底思えない。

 次に私が考えたのは、映画評をコンテンツ化することだった。幸いにして、私の好む映画というのは限局されており、かつニッチである。名作と呼ばれる映画を網羅的に観ていなくても、ニッチなジャンルばかりを挙げ連ねておけば、あとは量を書きさえすればコンテンツたり得るだろうと思ったのだ。

 しかしながら、いざ映画評を書いてみると、これがなかなか難しいのである。簡易的に映画のあらすじとツッコミどころを併記した文章では、ほどよく軽妙に書けても字数が稼げない。映画の時系列に沿って丹念にツッコミどころや解説を書くと、これはもう完全にネタバレであるし、第一冗長である。

 字数が多ければいいとか、ネタバレにはあくまで配慮すべきとか、そういうことは私自身は全く考えたことはないのだが、このふたつはインターネット上のコンテンツにおいて試金石のような扱いを受けているファクターであるので、一応考慮に入れざるを得ない。マスに受けたければマスと同じ感性を持て、とはかの藤子・F・不二雄御大の言である。

 実際のところ私自身は、映画評というのは短かろうと長かろうと、ネタバレを含もうと含まざると、本当ならば読んでいて面白いのが一番いいというスタンスであるが、インターネットに渡すショバ代としてのコンテンツたり得るためには、そう表立ってマスのことを蔑ろには出来ないものだ。私の一存で、読んでいて面白いのが一番、といったある種の売り上げ至上主義に走ってしまうのも、映画そのものに誠実ではない気がしてきた――というか、インターネットにそう突っ込まれても何ら反論できないな、と思った――のもある。

 また、映画評を書いてそれなりに話題性を持たせるためには、新作映画の批評なども行う必要がある。私は過去一度だけそれをやったが、これはかなり散々な経験となった。

 何しろ、きょうび映画館というのはどこにでもかしこにでもあるものではない。封切り館となれば尚更である。本邦の一般的な諸都市においては、都心部のミニシアターか、かなり郊外に位置するシネコン以外に選択肢がないというのもザラだろう。私の住む町も例外ではなく、私はバスと電車とまたバスを乗り継いでこの近辺では1軒だけになったシネコンに向かい、満額料金で映画を1本観る羽目になったのである。

 その結果、私は帰りの運賃を除けば素寒貧、全くのオケラと化し、飲み物やスナックすら買うことが出来ず、映画評を書くための手がかりになるパンフレットも買えないために、上映時間中瞬きすら惜しむようにして映画の1分1秒を記憶することに努める羽目になった。

 今思えば鑑賞中にメモくらい取れば良かったのかも知れないが、いくらスクリーンの光があるとはいえ暗い中で取ったメモが後から読めるとは限らず、携帯などを開くのは無論マナー違反になるため、こうするより他になかったのである。

 これはかなりつらい経験だった。言ってしまえば貶すためだけに観ている映画のために私は数千円を失い、書いた映画評は8400字以上の冗長記事になって、そしてそれほどの話題性はなかった(尤も、このページのコンテンツの中では有意にアクセス数が多い記事ではある)。

 私はこの映画評を書いた後で自問した。映画館に払う金というのは、その殆どが「映画館で映画を観る」という体験に対する対価ではないのか。2時間の上映中、飲み物もなく、帰ってからどんな風に感想をまとめるかだけを必死に考えながら、帰りのバスの時間に尻を焦がされながら観ている映画は、体験としてはあまりに貧しいものではなかったか。

 そもそもの話、私はあまり封切り映画に興味はない。私が好むタイプの映画というのは近年公開数が減ってきており、ビデオスルーになることのほうが多いのが実情だ。それに封切り映画の批評を書いてもそれほど話題性がないなら、尚更興味を持つ意味が薄いのである。近年の邦画には観るべきものは全くなく、私の住む田舎の町で上映されるような洋画も、ガキ好みのケレンをCGでベタベタに塗り固めただけの同工異曲に過ぎない。

 封切り映画に払う数千円があれば、近所のレンタルビデオ店で旧作を数十本借りられるのである。得るべき体験をスポイルしながら封切り映画を観るよりも、かつての話題作や映画史に残る名作、ビデオ直行便になったへなちょこ映画を好きなだけ繰り返し観られるほうがよっぽど有意義だと思うのは、私の心根が賤しいからばかりではあるまい。

 こうして限られた資金を有意義に使うべく、私の映画評は旧作に偏ることになったわけだが、今度は再びコンテンツとしての存在意義に疑問符がつくことになった。

 映画評は、それが新作だから意味をなす側面が少なからずある。批評や感想を数本読んでから、その映画を観るかどうか決める、という人も決して少なくはないはずだ。ましてや1本観るごとに数千円が飛ぶのなら尚更である。私だって出来ればそうしたい。

 対して、旧作の映画を借りる前に批評を読む、という人は殆どいないだろう。たかだかほんの数百円で借りられるのだから、映画評を読んで意志決定をするより先にいっそ観てしまったほうがよい。旧作映画を観る前に批評を読むような人は、おそらくその映画をあえて観たりはしない。

 つまるところ、旧作の映画評には「同じ映画を観た人が何を思ったかを知りたい」という下世話な野次馬根性的需要しかないのであって、その分インターネット事故のリスクが大きいのである。

 人は理不尽にも、自分と違う感想や解釈を目の当たりにすると、得てして腹が立つものだ。自分から探して読んでおいて「それは違う」と吹っ掛けてくるとは随分と虫のいい話もあったもんだが、実際のところ我々はインターネットにショバ代を払っているという意味で同類であるので、その辺りに拡張した自意識の履き違いがあるのも、致し方ないことである。

 先に書いたように、映画評を1本書くのもなかなかどうして難しい。ともすれば電子の海の彼方から、履き違えた自意識という浮遊機雷や誘導魚雷が流れ着かないとも限らない。かといって「どうせこれを読むのはこの映画を観た奴だろうから……」という姿勢を見せることは、私としては少し抵抗がある。事実上内輪ノリで回っているこのページに、別種とはいえ更なる内輪ノリを追加して内輪ノリの濃度を上げるのは心苦しいのだ。インターネットが明るく清潔なものへと変貌しようとしている今、内輪ノリは石持て追われる存在である。望むと望まざるとに関わらず、教条主義の潔癖症は世界を席巻しつつあるのだ。

 ギターいじりも駄目、映画評も駄目、そこで私が思いついたのは、かつてのインターネットにいた雑文書き達をリスペクトし、時に拡張した自意識として自虐を入れながら、愚にもつかない雑文を書き連ねることであった。どのみち話題性が確保出来ないなら、私の生活の上で発生する些細な感情の機微を多少針小棒大に書いても誰も困りはしまい。この過程は最初の雑文に書いたので、今更長々と語ることはしない。

 実はこのような更新形態に着地したのは今年の4月のことなので、本当の意味ではまだ1周年すら迎えていないのだが、はてなのダッシュボードを開いて開設年月日が目に入ってしまったのが運の尽き。私は何か書こうと思い立ってしまった。そのためにこよみ雑学も仕入れてしまったのだ。よって、今日の私は冒頭のこよみ雑学を披露した時点でかなり満足してしまっている。

 本来であれば、日付に執着せずとも人間は生きていける。少なくとも私はそうだ。日々更新される生活のタスクの前では日付など無意味である。ましてや根拠の薄弱な占星術や六曜を意識することなど不要なのだ。生活は続くのである。逃げても逃げても、朝はこの窓にやってくるのである。親兄弟の誕生日すら覚えていないのも、そういう理由だということにしておこう。実を言えば自分の誕生日すら危うい。

 しかしながら、日付に執着するのがマスの行いというものである。繰り返すが、インターネットにショバ代を納める以上、マスの行いを通り一遍はなぞっておくべきだ。いくら社会不適合者とはいえ、別に好き好んで社会から落伍しているわけではない。勿論マスに受けたいと思っているのではないが、マスから排斥されたくもないのである。そうでなければ長々と5000字以上もぶち上げた意味がない。

 そんなわけで、3年目はこの殆どが蛇足で構成された冗長記事で幕を開けることになる。願わくば、3周年も無益に浪費したいものであるな。

2022年11月15日火曜日

石橋を渡る冒険主義

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 基本に立ち返る。いい言葉である。

 我々はついつい基本をおろそかにして、痛い目に遭うのである。いわんや、私や諸兄らという荒涼たる砂漠の上に何かしらを立てようと思うのであれば、真っ先にやるべきことは基礎固めだ。エジプトはギザの大ピラミッドもサハラ砂漠の砂の上に鎮座しているわけではなく、元々あった岩盤をある程度整地し、その上に切り出した岩のブロックを積み上げて建築されていることが分かっている。

 つまり何が言いたいかというと、基礎をしっかりと固めた面積と、その上に積み上げられる事物の高さとは、概ね正比例するのである。高みを目指すなら、まずやるべきはしっかりと基礎を固めることなのだ。諸兄らもマインクラフトで無益に山をひとつ切り崩し、だだっ広い平地を作ったりしているだろう。同じことである。

 尤も、イマジネーションとクリエイティビティに難がある私や諸兄らのことであるので、平地に立ち並ぶのは極めて無個性なお豆腐建築ばかりであり、地方都市のベッドタウンのような有様になるのが関の山だ。そのうち、住処の山を追われたひつじさんやぶたさんやおおかみさんが化けてプレイヤーに復讐を仕掛けるであろう。

 令和中立mob合戦の様相を呈するゲームの話はさておき、我々は基礎・基本の大切さを勿論頭では理解しているというのに、それでも失敗するのだから始末に負えない。人生というクソゲーが所謂オワタ式になって久しい昨今、誰しもが失敗することに対しピリピリしているのにも関わらずである。

 さて、私は先日、かなり久しぶりに、車で自分ひとりのためだけに用事を足しに行ったのだった。具体的には古道具屋巡りである。古道具屋で自分の趣味やニーズに合致するものを探し当てた時の喜びはなかなか他では得がたい体験であり、往々にして節約にもなるので、私は時折このように古道具屋を巡らねばどうしようもなくなる程度には、古道具屋を覗くことを好む。

 古道具屋や中古楽器店をはしごしながら私が住んでいる町の反対側までやって来たところで、時計は午後1時を打っていた。そろそろ昼食を摂っておかないと、その後の予定に差し支える。というわけで私はラーメン屋に入ったのであった。

 それは近頃私の住む町にも勢力を拡大しつつある、所謂横浜家系と呼ばれる類いのラーメン屋だった。私が仙台で学生をやっていた頃、学校の近所に(やや特殊ではあったが)家系の系列に連なる類いのラーメン屋があり、そこに足繁く通っていたため勝手が分かっているというのも選択の決め手であった。私ほど堂に入った社会不適合者は、食券制の店でなければ安心して好きなものを注文することも出来ないのである。

 なお、例え食券制の店であっても、私が短いインターバルでやって来ては判で押したように毎度同じものを注文するために顔を覚えられてしまい、食券を出すより先に店員さんに「あっ、いつものやつですね」などと言われてしまったことがある。その際、私は恥ずかしさのあまりその店に3ヶ月もの間近付けなくなってしまった。これは提言なのだが、飲食店の運営に関わる人はあまり客の顔を覚えない方がいい。覚えていても、それを態度に表さずにいるべきである。さもなくば、太客をみすみす逃すことになるのだ。

 さて、私は食券を買い、席についてそれを店員さんに渡した。お味は?醤油で。濃さは?普通で。麺は?硬めで。うむ、ここまでは完璧な流れである。別段不自然ではない。通い慣れているように見えるとまではいかなくとも、最低限セオリーを知っているように見えるはずだ。しかしながら、私のささやかな「人間に擬態出来ている」という安心は、店員さんの次の一言でぶち壊されてしまった。

 大盛り無料ですが。

 お、お、お、大盛り?見れば壁には「ランチタイム大盛り無料」の文字が。しまった。見逃していた。

 アッ、エット、アノ、ジャア、ソノ、オオモリデオネガイシマス……。

 私は傍目にも哀れなほど動転していたと思う。いつものようにヘリウムガスを飲んだバルタン星人のような声になりながらやっとの思いで答え、私は深々と椅子に沈み込んだ。

 全く、私という輩はどうしてこうも想定外に弱いのだろう。何かあればすぐに鍍金が剥げてしまう。安ギターのパーツくらいすぐ鍍金が剥げる。どうしてラーメンの大盛りくらいスパッと頼めないのだろうか。ああ、井之頭五郎になりたい。出先で見つけた店に何の躊躇もなくガラリと入店し、好きなものを好きなように食べ、時にはぼやきながら、またある時には店主にアームロックをかけながら、昼間から銀座で寿司を食える生活を、そしてそれを是と出来る強さを持ちたい。

 私が私の生まれ出づる悩みについて煩悶していると、果たしてラーメンがやって来た。家系らしくこってりとしたスープに、太い麺が浮いている……否、それは浮いているのではなかった。麺はそのあまりの量にスープに沈みきれず、表層でとぐろを巻いていたのである。その異常な量こそが、この店の「大盛り」であった。

 昼時もやや過ぎ、腹はそれなりに減っていたとはいえ、これは今日の昼食に割り振られたキャパシティより明らかに多い。私は私の穀潰し度合いに関してはそれなりに自信を持っているが、うっかりサイドメニューのミニチャーシュー丼も注文してしまっていた。そして今私の目の前にあるのが、大量の麺と米というわけである。

 私は仕方なく、胃の容量を気にしながら、あるいは食べきれなかった場合どうなるかを想像して震えながら、その大量の麺と米を消費した。結論から言えばなんとか完食出来たのだが、スープにはほぼ手をつけられなかったし、食べ放題の米をもらうことなど出来るはずがなかった。私は頭が少しでも下を向いてしまえば吐きそうになるのをこらえながら店を後にした。完全に食べ過ぎである。

 初めて入る店だったのだから、冒険は禁物であった。注文時に流されず、「並盛りで」と言っておけば、勿論食べ過ぎることはなかったのである。しかしながら、私は別に冒険主義にかぶれたのではない。パニックになったのだ。パニックになって、愚かにも自ら墓穴をせっせと掘ったのである。

 私は失敗した。「初めて入る店では冒険しない」という基本中の基本をおろそかにしたためである。しかしながら、気が動転した状態で正しい選択を行える人が、一体この世にどれほどいるというのだろう。そこには確率論以上のものは横たわっていないのではないだろうか。確かに、二択問題を外すのは却って難しかろう。世の中の大抵の決断といのは、二択ではないから難しいのだ。だからといって、二択を当てるのが簡単だということにはなるまい。確率で言えば五分と五分であるのだ。

 ……かように「普通の人間はラーメン屋の注文ひとつでパニックになったりはしない」という大前提を無視したままごちゃごちゃと屁理屈をこねる私は、今後も洒落にならない失敗を犯し続けるのだろう。全くおかしくなっちゃいそうであるな。

 今後もし私のインターネット上のアクティビティが急に途絶えるようなことがあった時は、諸兄らは「ああ、フェータルな失敗を犯して東京湾にでも沈められたんだな」と理解していただければ概ね実態と相違ないものと思う。その際は私こと、哀れで愚かな鍍金細工のバルタン星人のことを思い出して、ちょっと涙してくれてもバチは当たらないのではないか。

2022年11月2日水曜日

汝深淵を覗く者は

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 この度、私は生まれて初めて「金縛り」というものを経験したのである。

 金縛りというと、アレである。あの、眠っている内に気付けば体が動かなくなっていて、大抵足元から何かがやって来て足首を掴んだり、大胆にも胸に乗っかったりしてくるアレである。

 私はホラー小説を耽溺しクズホラー映画を愛憎し怪談を蒐集していたりするくせに、基本的には合理主義かつ懐疑主義であるので、そのようなファンタジックな体験談は話半分で聞いている。体が動かせなくなるのは眠りに落ちる時に生じる睡眠麻痺と呼ばれる一過性の生理現象であるし、何かしらがやって来るように思うのは入眠時幻覚と呼ばれる非常にリアルな夢である。科学である程度確かめられている現象として解釈出来ることを、わざわざウルトラCの理屈をこね回し、先祖だの水子だの地縛霊だのなんだのを引き合いに出して原因を探る意味などないのだ。

 と、ここまでは私の乏しくもゼロではない理性の上での話である。

 よく言われるように、理性と感情は別物であり、しかしながら矛盾もすれば両立もする。その線引きはファジーでまだらであり、何もかもきっぱりと白黒つけられる人間など存在し得ない。私も合理主義を標榜しておきながら、実際のところ、金縛りにかかっている内に覚えた感情として最も適切な表現は「恐怖」であった。

 その日、私は夜半を待たずに寝落ちしたのである。部屋の明かりは煌々と点いたままだったし、窓にカーテンすら引いていなかった。やっと尿意を覚えて起き上がったのが朝5時前だったと記憶している。

 当日は通院の予定があったとはいえ、いくらなんでも5時起きは早すぎる。ゆっくりと風呂に浸かってもまだ時間が余る。だいたい、ゆっくり入浴した後で病院に向かいたい人などいるだろうか。いやおるまい。そうなってしまえば、快適な気温の部屋で足を投げ出してのんびりしたいのが人間のサガである。ついでにアイスクリームなども欲しいところだ。いよいよ通院どころの騒ぎではない。

 トイレに行って部屋に戻ってきた私が選んだのは、無論二度寝であった。目覚まし時計は最初から余裕を見た時刻にセットしてある。

 そもそも私は目覚ましをセットした時刻の1時間ほど前には必ず目が覚めてしまう損な性分なのだが、そこで目覚まし時計を切り二度寝すると絶対に予定の時刻には起きられないので因果な話である。短い社会人生活を送っていた頃から、呆れるほどの正確さを以て、私の睡眠時間は1時間ずつ削られ続けてきたのだ。この場合もおそらくそうなるだろう、と思った私は、目覚ましを1時間遅くした。どうせ予約診療ではないのだ。1時間くらい遅れても何ら問題ない。

 カーテンを引き、布団に潜り込んで明かりを消す。こういう時ほど、遮光カーテンのありがたみを痛感することはない。さっと引くだけで擬似的な夜を作り出せる。私のような無職が、惰眠を貪るのが趣味になるのも無理もない話だろう。

 布団はまだ熱を帯びており、もう朝晩はかなり冷え込むトイレや廊下から戻ってきた私には少し温かすぎた。その中でしばらく右に左に寝返りを打っていたのだが、いよいよ耐えきれなくなって、左半身を下にした状態で左足を曲げ、足の裏を布団から出したその瞬間だった。

 何か甲高い金属音のような音が聞こえたかと思うと、私の体は一切の自由を失った。布団から飛び出した左足の裏だけが涼しい。恥ずかしながら、私が最初に疑ったのは脳梗塞など、そういう類いの疾患である。どうせ日頃の不養生が祟ったのだ。ああ、なんて呆気ない――。

 私はそう遠からぬうちに降りてくるはずの死の帳を待ったが、一向にそれはやってこなかった。代わりに意識だけが鋭敏になっていくのが分かる。体勢上、目を開いたとして見えるものはベッドの左隣に隣接する壁だけであるはずなのだが、果たして私の意識は、ベッドの下からぬぅっと首を伸ばし、布団から突き出た私の左足を凝視する、真っ黒でつるりとした頭の存在を知覚した。

 私はそれを、黒く塗られたプラスチックスプーンのようだ、と思った。諸兄らも、模型趣味の人が塗料の試し塗りとして、プラスチックスプーンの背に塗装しているのを見たことはないだろうか?ああやって黒く塗られたスプーンのようにのっぺらぼうの頭が、ベッドの下から伸びているのである。それが、私の左足のすぐ隣にあるのだ。

 私は左足を引っ込めようと躍起になったが、体はちっとも言うことを聞かない。この段に至って初めて、私はこれが所謂「金縛り」という現象であることに思い至った。

 ほぉー、これがあの金縛りというやつか。本当に体が動かせなくなるんだな。私の眠りに落ちかけていた理性が「金縛り」という単語に反応してモソモソと動き出し、寝ぼけ眼でそんなのんきなことを抜かしている一方で、感情は理性の肩をガクガク揺さぶりながら出川哲朗ばりに「ヤバいよヤバいよ」と繰り返していた。何がヤバいのかといえば、勿論私の左足の裏を凝視する黒い存在である。見ていないのに存在が分かる。悪意を左足の裏で感じる。早く足を布団の中に引き戻さなくてはならないのだ。

 感情は矢継ぎ早にそれらのことを口にする。起き抜けの理性は頭をグワングワン揺らされて若干気持ち悪くなっているので、それらに合理的な反論をする余地がない。下手に口を開けば舌を噛みそうなのだ。その間にも感情はヒートアップしていく。

 いよいよ黒い存在はその頭を垂れて、私の足の裏を舐め回さん勢いである。感情は恐怖のあまり卒倒した。すると、肩を掴んだ腕から解放された理性が、やっとものを言えるようになったのである。理性は一通り、私が上述したようなことを述べた。

 私の体は動き出した。頭は鮮明な夢を見た直後の、実記憶と夢の記憶が渾然となっている状態に近い。左足を布団に引っ込め、寝返りを打って足元を見たが、黒いスプーンは勿論その存在の痕跡すらもない。

 感情も落ち着かせることに成功した私は再び布団を肩まで被り、眠りを貪った。私の理性も感情も、この度は静かに眠りに落ちていった。それを叩き壊したのは、目覚まし時計のベルである。私は布団の中から腕を伸ばしてそれを止め、1時間後にセットし直し、三たび寝た。

 私は都合2時間長く寝たことになるが、そのことに気付くのは再び目覚まし時計に叩き起こされ、時刻を確認したときであった。病院は午前の診療時間ギリギリに滑り込みになってしまい、焦りのあまり保険証を提出し忘れ、明細書を受け取らずに帰ろうとし、処方薬の代金を払わずに薬局を出そうになるなど、その日は細かいポカを山ほど積み上げることになってしまった。

 何もかもが、あの黒スプーン野郎のせいである。あのスプーンの他に誰が責められようか。必死に考えても自分の顔しか出てこないので、スプーンのせいにしなければやっていられない。感情がそう訴えている。理性の方は勿論スプーンのせいではないと知っているが、事実を指摘すれば私自身を責めることになるので感情と一緒になってそう訴えている。こうして金縛りは、先祖だの水子だの地縛霊だのスプーンだのといった、大方体験者の幻覚の中にしか存在していない、ある意味で都合の良い存在に罪科を押し付けて人口に膾炙していくのである。

 私は諸兄らに言いたい。そうやって都合よく濡れ衣を着させ続けていると、そのうち本当に呪われてしまいますよと。本邦は言霊の国である。言葉の力は恐ろしいのである。いわんや私や諸兄らが太刀打ち出来るものではない。「存在しないもの」の上にむやみやたらに積み上げられた罪科は、いずれ崩れて我々の上に降り注いでくることだろう。

 人を呪わば穴二つ。その内訳は勿論、私が入る穴と、諸兄らが落ちる穴である。穴の底で、待ってます――。