2024年4月11日木曜日

『ハロウィン』(2007年)・『ウィッカーマン』(1973年)評

『ハロウィン』(2007年-MGM/ディメンション・フィルムズ)

得点…45/100

 

(画像の出典:『Halloween (2007) - IMDb』

 まずお断りしておきたいのだが、オリジナル版『ハロウィン』(1978年-コンパス・インターナショナル・ピクチャーズ)は、『悪魔のいけにえ』(1974年-ブライアンストン・ピクチャーズ)が先鞭をつけた「奇怪な殺人鬼が暴れまくる大量殺人映画」というジャンルに、「殺人鬼の方から犠牲者を付け狙い追いかけてくる」という発想をプラスして今日的なスラッシャー・ムービーの素地を作った、という点で記念碑的な作品であり、公開から45年以上が経った今なお傑作の呼び声高く、本国ではアメリカ国立フィルム登録簿に記載されるレベルの映画史に残る作品である。

 ジョン・カーペンターの意図的にスプラッタ描写を抑えた堅実な演出、デブラ・ヒルの多くを語らぬ脚本、監督自身の手による印象的な劇伴。そのいずれが欠けても、この完成度には到達しなかったであろう。若き日のショーン・S・カニンガムがこれを観て「俺ならもっと面白い映画が撮れる」と息巻き、のちにスラッシャーの一大フランチャイズとなる『13日の金曜日』(1980年-パラマウント映画)を撮ったのは有名な話である。

 かように、オリジナル版はカーペンター御大にとっても奇跡的な映画だったのだ。そんな作品だからこそ、生半可な心構えではリメイクなど出来るはずもないのだが……何をどうやったのか、マサチューセッツから来たボンクラ、ロブ・ゾンビがメガホンを執ってリメイクが製作されてしまった。

 確かに当時の『ハロウィン』フランチャイズはショック描写のネタも頭打ち、(3を除く)どの映画を観たところでマイケル君が出てきてはうろうろするばかりの低調さで、行き詰まっていた感は正直否めない。カーペンター御大も、自身のキャリアを決定付けたこのフランチャイズの凋落を見るに堪えなかったのかもしれない。しかしいざ出来上がってきたこのリメイクは、オリジナル版が重視した全てをうっちゃった、テケレッツのパァであった。

 

 おでぶの小学生、マイケル・マイヤーズ君はいじめられっ子。家庭も絶賛崩壊中で、継父は無職のロクデナシ、姉ちゃんはクソビッチ。頼みの綱の優しい母ちゃんも、如何せん職業がストリッパーなのでそれが学校でいじめのネタになってしまう。マイケル君の数少ない心の拠り所と言えば、まだ物心もつかない赤ん坊の妹の存在と、小動物を切り刻むことだけだった。

 ある日、いじめに耐えかねてついにプッツン来たマイケル君は、学校帰りのいじめっ子を追いかけて撲殺。ええいままよとばかりに継父と姉ちゃんと、ついでに姉ちゃんのボーイフレンドを手にかける。精神病院に収容されたマイケル君に、精神科医のルーミス医師がカウンセリングを試みるが、マイケル君が発作的に看護師をフォークでめった刺しにして何もかもがおじゃんに。そのことを聞かされて悲観した母ちゃんは赤ん坊の妹を残して拳銃自殺……と、ここまでは実録犯罪物を観ているような、言ってしまえば判で押したストーリーである。ここまでの描写は非常に不愉快で、オリジナルと比べて過剰にグロテスクで、そして何より退屈でつまらない。

 実在の大量殺人者は崩壊家庭に育った者が少なくなく、ちょっと思い出すだけでも「ボストン絞殺魔」ことアルバート・デサルヴォ、「キラー・クラウン」ことジョン・ウェイン・ゲイシー、「サムの息子」ことデヴィット・バーコウィッツ、ホラー映画好きにはお馴染みのエド・ゲインもその内のひとりである。つまり本作は「マイケル君が如何にして殺人を犯すようになったのか」ということを、なんと上映時間の前半全てを使って長々と説明してみせたのだ。

 これははっきり言って改悪以外の何物でもない。オリジナル版のマイケル君は如何にも中流階級らしいご家庭に育った豊頬の美少年で、最初の犠牲者となる姉も、少し奔放ではあるものの年齢相応と言ってよい程度の素行に過ぎない。少なくとも本作のおでぶちんボーイや、穴兄弟が山ほどいそうな尻軽女ではないのだ。当然オリジナル・マイケル君はそれなりに愛情を注がれていたのだろうし、ことの発端まで問題行動らしい問題行動を起こしていた素振りすらない。そういう平和なご家庭がある日突然、理由もはっきりとしないまま崩壊することにまず第一の恐怖があった。

 比べて本作のご家庭の崩壊っぷりといったらどうだろう。確かに、殺人者のバックボーンとしてはリアルである。しかしこれだけくだくだしくやられてしまうと、あまりにも説明臭くはないだろうか。私には「こういう理由があるから人殺しになったって仕方ないんだ」という居直りのように思われた。

 しかし、どんなに自己弁護がましく長広舌を振るわれたところで、少なくとも近代国家において人殺しになっていい理由などある訳がないのだから、実際には言い訳にすらなっていない。オリジナル版が製作された70年代ならともかく、これだけスラッシャー映画が膾炙した今日においては、そんなピントのズレた説明よりも割くべき尺があると思うのだが。

 さて時は流れて17年後のハロウィンにマイケル君は晴れて精神病院を脱走し、つなぎにゴムマスクの"ブギーマン"ルックで手当たり次第に殺しまくる。ここまで来ればもういつもの『ハロウィン』なのだが……その演出も正直褒められる出来ではない。一番の問題は、安定したカメラアングルが殆ど存在せず、画面がほぼいつでもガクガク手ブレしっぱなしであることだ。

 普通の映画人ならそんなシーンは手持ち撮影はしないだろ、と突っ込みたくなるようなシーンも全てガクガク手ブレ。ロングショットもクローズアップもガクガク手ブレ。気を抜くと画面酔いしてしまいそうで、まるで映研映画を観ているようだ。

 加えて緊迫したシーンではそれぞれが数秒にも満たない細切れのカットが多用されており、目まぐるしく移り変わる画面に何が映っているのか追いかけるのが精いっぱいである。いや、時折それすら怪しい。あるシーンなど、ガクガク手ブレとぶつ切りカットの相乗効果によって、登場人物が前進しているのか後退しているのかすら分からなかった。それってよっぽどだぞ。

 脚本に目をやると、これもまた色々と細かい詰めの甘さが目立つ。

 まず、本作のマイケル君はかなり喋るのだ。ペラペラ喋りまくる。自身の凶行に関する記憶が抜け落ちている他は何だって喋る。ルーミス医師ともぼちぼちコミュニケーションが成立している。にも拘わらず、看護師を刺殺して17年の年月が経つと、マイケル君は唸り声を上げる程度で全く喋らない、ジェイソン君のような大男に変貌しているのだ。どうしてそうなったのか、説明らしい説明はない。マイケル君の殺人衝動に理由をこじつける一方で、おでぶちんボーイ・マイケル君がパブリック・イメージ上のマイケル君に変貌する理由の説明はうっちゃられている。その不均衡がどうにも気持ち悪い。多くを語らぬのと、説明不足なのとは違うのだよ。

 また、ルーミス医師はルーミス医師で、にこやかにおでぶちんボーイ・マイケル君とカウンセリングをしていたのにも関わらず、看護師を刺殺して17年経ったほうのマイケル君に対しては悪魔だの災厄だのと悪辣に罵倒する。つまりここではパブリック・イメージ上のルーミス医師のキャラクターに寄せている訳だが、ここの繋がりもあまり丁寧に説明されておらず、前半部分と乖離しているように思えてしまう。

 画作りの方にも触れておこう。

 ロブ・ゾンビ演出の特徴は、とにかく作家性に乏しいことにある。どこかで観たようなカットやアングルや演出のオンパレード。タチが悪いのは、それを狙ってやっている感があるところだ。おそらく監督を横に座らせて本作を観れば、1カットごとに何の映画から引用したかを嬉々として語ってくれるだろう。

 ただ、それが有名フランチャイズの仕切り直した新作に値するかと言えば、答えはNOである。ロブ・ゾンビの映画は、まるで完璧なコピーバンドによって完璧にコピーされた曲を聴いているようなもので、オリジナル曲の新規性は望むべくもない。

 作家性が乏しいことが悪いのではない。オマージュが目的になっていることが悪いのである。どこかで観たようなシーンを寄せ集めて繋ぎ合わせる一方、過剰にグロテスクに仕立てることで逆に無二の作家性を獲得した、ルチオ・フルチのような監督もいるにはいるのだから。

 

 本作にはオリジナル版にあった全てがなくなり、オリジナル版になかった全てが足されている。それ故にサービス精神は旺盛で、オリジナル版ではほぼ出てこないおっぱいがふんだんに出る。しかし、それだけである。こんなものをリメイクですと言われて出されたのではたまったものではない。

 勿論、配給元のMGMはそんなこと理解していたし、『ハロウィン』フランチャイズのファンも理解していた。でも仕切り直しの新作だと宣伝したし、観に行った。その結果、本作は8000万ドル以上もの興行収入を記録してしまったのである。

 賢明なMGMは続編からは手を引いたが、気を良くしたもう一方の配給元、ディメンションは即座に続編の製作を決断。だがジュリアン・モーリーとアレクサンドル・バスティロの両名に監督オファーを蹴られてしまったために、ロブ・ゾンビが続投して『ハロウィンⅡ』(2009年-ディメンション・フィルムズ)が製作され、こちらは見事にこけた。2匹目の泥鰌はいなかったのだ。

 結果、ロブ・ゾンビは馬脚を現してすごすごとマサチューセッツへ帰っていったのである。その後も懲りずにどこかで見たようなタイトルのどこかで観たような映画を数本撮っているが、これらに関してはもう観る気も起きない。


 

『ウィッカーマン』(1973年-ケイブルホーグ)

得点…30/100

 


(画像の出典: 『The Wicker Man (1973) | HMV&BOOKS online : Online Shopping & Information Site - DABA-5147 [English Site]』

 2020年、本邦を熱病のように『ミッドサマー』旋風が襲った頃の話である。私はこの映画がどうしてこんなにウケるのか理解に苦しんでいた。この映画は、21世紀も20年やろうかという今日においては、あまりにも恐怖の題材が古臭いからである。

 これは簡単に言ってしまえば「クライスト的な主人公が、アンチクライスト的なものを恐怖する」という骨子の話であり、描き方如何によっては今日び重大な差別主義的モチーフを含むと批判されても致し方ない作りである。相手がフリーセックスラリパッパ殺人カルトだった(加えて基底にあるのはクライスト的なものだった)からいいようなものの、もしこれに特定の宗教を暗示するような描写がちらりとでも挟まっていればもう一発アウト、アンチクライストは全員人非人と思い込んでいるアメリカ以外ではビデオスルーになったに違いない。少なくとも、本邦では劇場公開はされなかったと思う。

 だからこそ、私はこれが敢えてタブーに踏み込んだ映画なのだと思っていたし、逆説的に「いつの時代も人間は差別を娯楽として消費出来るのだ」と警鐘を鳴らすことに狙いのひとつがあったのだろうなあと考えていた(と、訳知り顔でこんなことを書いてはいるが、私自身が一番この推測を信用していなかったのも事実である)。一応私の感想を述べておくが、出来の悪いブラックコメディを観ているような気分になったと言えば、それ以上の言葉は蛇足というものだろう。

 しかしこの度、この映画を鑑賞して私は知ったのである。なあんだ、パクリでしたあ。ちゃんとネタ元がありましたあ。

 それほどまでに、この2つの映画はプロットが酷似している。何なら主人公格の登場人物が焼き殺されるラストシーンまで同じである。『ミッドサマー』が本作の影響下にあることは疑いようがない。敢えて古臭い題材を選んだのではなく、古い映画をパクったから古臭くなってしまったのである。この事実に気付いた私は、こんな映画を絶賛したアメリカと、本邦のtwitterユーザーというヤツは心底アホだと思った。

 

 さて本作は、スコットランドはハイランド地方の離島に、本土から警官のハウイー巡査部長が颯爽と飛行艇で乗り付けるところから始まる。この私有地の島で、少女が失踪したと署に投書があったのだ。

 閉鎖的な島民達に辟易しながらも調査を進めるハウイーが目にしたのは、島の領主が現代に復活させたケルト的信仰であった。彼らは生まれ変わりを信じ、子供達にはヤコペッティのエセドキュメンタリーにでも出てきそうな性教育偏重の教育が施されている。大人達は夜な夜な墓場で運動会。宿屋の娘はすっぽんぽんでミュージカル、夜通し歌って隣室のハウイーの睡眠を妨害する。

 来る五月祭の準備に追われる島民達は雁首揃えて「少女は最近死んだばかりだ」と言い張り、領主はと言えば勝手に島の歴史を語りだす。曰く、先々代の統治時代に生贄の儀式を復活させてケルトに宗旨替えしたところ、島に豊作がもたらされたという。

 少女が五月祭で生贄として捧げられるのではないかと疑いを抱いたハウイーは一旦本土に帰って応援を呼ぼうとするが、お約束通り飛行艇はオシャカになっており、独力で少女の奪還を目指すことを余儀なくされる。

 宿の主を張っ倒して五月祭の衣装を奪い仮装したハウイーは祭りの行列に加わり、丘の上に立ったウィッカーマン像の下までやって来たところで、生贄として準備されていた少女を首尾よく奪還。少女の先導で逃げに逃げ、気が付けば海辺まで追い詰められていた。実際に儀式で捧げられる生贄はハウイーであり、少女は最初からハウイーを誘い込むための囮だったのである。

 なんやかんやでハウイーはウィッカーマン像の中に押し込められ、火を放たれる。死を悟り聖書の一篇を唱えるハウイーに対し、島民達は来年の豊作を祈って歌い踊り、五月祭はクライマックスを迎えるのだった。

 

 本作の一番大きな問題点は、演出がくだくだしく、脚本もテンポが悪いため、観ていてイライラすることである。上映時間は生意気に100分ほどあるが、その内の4割はそういった冗長なカットや台詞回しで占められている。もし本作をB級映画の帝王ロジャー・コーマン御大が編集したら、上映時間は50分を割り込むのではないだろうか。

 また、アンチクライストの急先鋒として生きている我々平均的な極東のイエローモンキーには、主人公に一切感情移入が出来ないというのも残念な点である。私は「神は発明品である」と言い切って何ら憚ることのないタイプの無神論者であるが、それを差し引いても主人公たるハウイーはクライスト的過ぎるように思われる。清貧や禁欲(ついでに童貞も)を貫こうとするハウイーは現代を生きる我々の目から見れば殆どファンダメンタリスト、所謂狂信者としか映らない。こんな存在がニーチェ以後の世界にあっていいのだろうか。いや、実際に存在しているのだろうな。だからこの世から戦争はなくならないのである。

 なお、本邦の神道は言うまでもなく多神教であり、生殖器信仰が各地に残っていることからも分かるように性に関しては割と大らかかつ開けっ広げなのが特徴である。つまり本作(勿論『ミッドサマー』でも)で怖がられている"アンチクライスト共"と、我々ジャップ共はバックグラウンドがほぼ共通するのだ。娯楽映画の構造に逐一目くじらを立てる趣味はないが、つまるところここで怖がられているのは他でもない我々である。

 その構造が分かった上でこれらの映画を真っ当に怖がれるとも思えないので、本作はともかく『ミッド(以下略)』がヒットしたということは、まだまだ本邦の大多数の人々は自身を名誉白人だとでも思い込んで、脱亜論の甘い夢を貪っているということなのだろう。

 ああ、こんな映画を面白がっているようじゃいけねえや。そんな調子では北方領土は返って来ない。こうして観た者を安易に憂国志士に成り下がらせてしまうような、そんな映画を褒めるのは本当に難しい。本当に難しいのである。

2024年1月9日火曜日

『テレビ放送開始69年! このテープもってないですか?』評

 『テレビ放送開始69年! このテープもってないですか?』(2022年/BSテレビ東京・テレビ東京)

 得点…60/100

  

(画像の出典:『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか? | テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式)』

 2022年末にBSテレ東にて放送され、各所で(色んな意味で)話題沸騰となったフェイクドキュメンタリー(いや、フェイクバラエティと表現するのが適切だろうか)だ。この度、私が契約しているサブスクリプションサービスにて見放題配信が開始されていたので鑑賞してみた次第である。

 さてフェイクドキュメンタリーといえば、本邦でも有名なのは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年/アーティザン・エンタテインメント)であろう。今や円盤のジャケットにも用いられている、登場人物のクローズアップシーンは数多のパロディを生んだ。もう少し年嵩の諸兄は、『食人族』(1980年/ユナイテッド・アーティスツ)やグァルティエロ・ヤコペッティの"残酷"シリーズを思い出すかもしれない。本邦にも『ノロイ』(2005年/ザナドゥー)等の例がある。

 これらのBC級映画に共通するのは、劇映画であるのにも関わらず、「実際にあった!」と銘打つ宣伝である。つまり壮大な嘘をついているのだ。『ブレア・ウィッチ・プロ(以下略)』が公開に際し、映画の舞台となる土地のオカルティックな情報をまとめたサイトや書籍、ドキュメンタリー番組などを予め用意したことは有名である。

 嘘は大きければ大きいほどバレにくくなる、という言もあるが、虚実を如何にないまぜにするか、あるいは逆転させるか、ということにメタフィクション作家や映画監督達は心血を注いできた。だからこそ、続編で完全な劇映画に舵を切ってしまった『ブレア・ウィッチ(以下略)』は結局テケレッツのパァなのであるし、演出があまりにも陳腐かつ露骨すぎてスタートラインにも立てていない『パラノーマル・アクティビティ』(2007年/パラマウント映画)などは論ずるに値しないのである。

 それではフェイクドキュメンタリーには佳作などないのかといえば、無論そんなことはない。演出の手腕ひとつでこの手のジャンルは大化けするのだ。例えば前述の『食人族』では、物語の中盤で銃殺刑を写したフィルムを上映して「これはやらせだ」と喝破するが、実はこのフィルムこそが本物なのである。全編を通じて鑑賞者の真偽の判断を麻痺させ、荒唐無稽な話にグイグイと引き込んでいくルッジェロ・デオダートの演出は本当に巧みで、今観ても学ぶべきところの多い作品に仕上がっている。その内容はともかく。

 また、途中までフェイクドキュメンタリーの手法を採っておきながら、終盤にガラリとその様相を変えて鑑賞者をアッと言わせる映画というものもある。『ジャージー・デビル・プロジェクト』(1998年/FFM Production)がそれだ。このパクった感マシマシの邦題からは星の数ほどある亜流作のうちのひとつのようにも思えてしまうが、実はこちらのほうが劇場公開が1年早く、肝心の出来は『ブレア(以下略)』よりも数段上である。

 この2作は内容がある程度似通っている上に公開時期も近いため、「どちらがパクったか」がしばしば(不毛な)論争になる。が、しかし、私は内心『ブ(以下略)』が本作をパクったのだと固く信じている。そう信じたくなるくらいには劇的などんでん返しが用意された本作は、(決して後味は良くないものの)鑑賞後に「なんだかすごいものを観たぞ!」という深い感銘と余韻を齎してくれること請け合いだ。

 かように本作は間違いなく佳作なのだが、商業的成功はしなかった。それ故に、現在本邦で鑑賞する手段は国内版中古VHS(しかもプレミアがついて妙に高い)くらいなのが歯痒いところである。ちなみに主人公の吹替は駆け出し時代の平田広明氏が務めており、氏のファンであるという人にもお勧めできる(実は2022年にもなって唐突にBlu-rayが発売されたが、原語版のみの展開であり、リージョン規制もあるため購入・鑑賞は現実的ではない)。

 

 ほんの余談のつもりが、ついつい長くなってしまった。

 さて、3日間にわたってテレビ放送されたことからも分かるように、本作『このテープもってないですか?』は映画ではない。純然たるバラエティ番組の体裁を持った映像作品である。よって私が通常書く映画評のように、ストーリーを追いながら逐一ツッコミを入れていくスタイルは採りにくい。加えて1話あたり25分程度であるし、現在は鑑賞も比較的容易くなっているため、今回は無理に時系列に沿った解説に固執せず、全編を通じて私が覚えた感想を列挙することとする。

 毎回警告しているが、私はネタバレには一切配慮しない。以下、本文中の著名人の敬称は省略する。


 本作は完全に「深夜帯にありがちな低予算バラエティ番組」として始まる。副調整室のコンソールをバックに、いとうせいこう、井桁弘恵、水原アナウンサーが並び、フリップを用いて「かつてこんな番組があったが、社内にはその映像データが残っていないので視聴者から放送を録画したテープを募集した」という企画の概要が説明され、中でも3回分の提供を受けた『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』(1980年~85年放映)を放送する、という案内の下、該当番組(無論劇中劇である)が放送される。

 『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』(以下『ミッパラ』)は如何にもなセットと如何にもな出演者、如何にもなフォントを使った、まあ平たく言えば『11PM』をオマージュした番組である。ぎらついたおっさんホストが女子アナやゲストにセクハラを飛ばしながら進行する、あの時代にありがちな構成だ。

 しかしながら、既に画面に違和感がある。どうも"当時感"が足りないのだ。私もあまりテレビという媒体に親しくはないので言語化は難しいのだが、何というか、現代の感覚を持ったままで当時を形だけ真似ようとした結果とでも言えばいいのか、昔のテレビはもっとドギツかった、という印象だけを覚える。

 あまり自信がないので煮え切らない書き方にはなるが、まずカメラアングルが当世風である。かつてのブラウン管テレビは解像度が低かったため、出演者の顔をロングで抜くことは稀だったと記憶している。出演者をひとり抜く場合、最低でも胸が写るかどうかという程度にはアップショットにしていた。そうしないと顔の造作が潰れて分かりにくいからだ。

 また、スタジオ背景の大理石風の柱の模様や机の手前に据えられた花の造形が見て取れるのもあまりリアルではないように思える。当時のテレビカメラの分解能がそこまで高かったとも思えず、なおかつこれは「一般視聴者が生放送番組を録画したもの」という設定の映像なのだ。確実に録画の時点でもっと映像は荒れているはずである。いや、もしかすると録画媒体がHi-Bandベータだったのかもしれない(実は作中でしっかり「VHS」と明言されているので、これは誤った推理である。ちなみにVHSの高画質規格媒体であるS-VHSが発売されたのは1987年なので、 1985年に終了した番組を録画出来たはずはない。我ながら重箱の隅をつつくような話であるな……)。

 寡聞にして知らなかったのだが、どうやら『ミッパラ』に入る前に『当時のニュース』として紹介された映像に表示されていた、テロップの明朝体フォントの時代考証も少し雑なようだ。繰り返すが、当時の番組は解像度の低いモニターで観ることが前提だったので、横画が細く潰れやすい明朝体を用いること自体がほぼなかったはずである。モニターの解像度が飛躍的に向上した現代でも、テレビでは基本的に「テロップ明朝」などと呼ばれる横画の太いスタイルの明朝体が用いられている。私の前提知識としてはその程度で、やや違和感があるな、くらいにしか思わなかったのだが、この評を書く前に少しだけ調べてみたところ「写研書体を使え!」という声がちらほらあった。みんなよく観てるのねえ。

 尤も、今挙げた映像の造作に対する違和感自体は必要悪であるとも言える。あまりにも高いクオリティで当時を再現してしまうと、予算だって嵩むだろうし、妙な勘違いをする輩が現れないとも限らない。見る人が見れば作りものだと一瞬で分かる作りが求められるのが、オーソン・ウェルズ以後のメディアの在りようである。私の母など、つい先日まで『TAROMAN』が1972年当時実在した特撮番組だと思い込んでいた。こういうことが起こり得る以上、一定の線引きはせねばならない。そこがテレビというメディア特有の、映画にはない窮屈さだと見ることも可能であろう。

 この『ミッパラ』内の視聴者ビデオ投稿コーナーから怪異はスタートする。他愛無い投稿映像達の中に、終始不気味な映像が1本紛れているのだ。

 古い長屋のような建物の玄関前で、坂谷に自身の方向音痴の悩みを淡々と相談する男。この映像がトリガーとなり、全てが狂い出していくのだが……。

 怪異の発端となるこの映像は、率直に言ってお粗末な作りである。チープかつありがちな映像加工に加えて、最早時代遅れを通り越して時代錯誤とも言えるサブリミナル・メッセージ風の演出が乗っかっており、お世辞にもホラーとして興味深いものではない。これに類する映像なら、YouTubeを覗けばウン千ウン万と見つかる。

 これは持論に過ぎないが、ホラーの発端というのは、些細なものであればあるほどよい。古い雑誌の広告。端の剥がれかけた壁紙。恋人とのドライブ。見知らぬ番号からの着信……そういったものに覚えてしまう好奇心、人間が誰しも持つそのちょっとした好奇心が、あれよあれよと転がり続けて雪だるま式に肥大し、思いもよらなかったような破滅的な結末を迎える。そうであればこそ、ホラーは生活の中の様々な心の隙間に芽吹き得るのだ。

 そういう意味で言えば、この映像は異常過ぎた。男が訳の分からぬことを淡々と、かつ繰り返し述べる異様な光景をロングショットで撮っているだけで、発端としては十分に怖いはずである。なのに、そこに陳腐な映像加工やサブリミナル・メッセージ風のあからさまな演出が乗ってきてしまうので、鑑賞者は「あっ、ハイハイ、そういう感じね」と身構えてしまう。せっかく面白い題材と最高に不穏なシチュエーションを揃えているのに、これでは勿体ないことこの上ない。

 ちなみに、ここまでが第1夜の中盤ほどである。本作が3夜にわたる連続放送で、なおかつ1本の尺は25分に過ぎないと分かっていても、流石に飛ばし過ぎだったのではないかと思ってしまう。確かに、予め架空の番組をひとつでっち上げ、ダラダラと古い時代のテレビのノリを鑑賞者に見せつけておいたほうがその後の流れがより自然になるとは思うが、何かしら理由をつけて番組部分をカットし、もう少し丁寧にホラー部分を描くことは出来なかったのだろうか。また発想を逆転させれば、3回分の尺を生かしてあえてダラダラと番組部分を続け、発端の映像そのものが持つ異物感を高めることも選択出来たはずである。最初からトップギアに入れて発進したら、エンストしますよ。

 続く第2夜は、もうのっけから様子がおかしい。『ミッパラ』ホストの坂谷は挙動不審であり、ビデオ投稿コーナーには夏の恐怖特番で見るような、あからさまな恐怖映像ばかり流れる。次第に他の出演陣にも意味不明な発言が目立つようになっていき、ついにはその狂気がモニターで『ミッパラ』を観るいとうや井桁にも伝染する。当初坂谷のセクハラ気質を露骨に嫌がっていた井桁が『ミッパラ』を称賛し始めたり、いとうが尋常ではない目つきのまま無言でカメラが切り替わるなどの異様な演出が挟まり始める。

 ……何度でも言っていこう。質の悪いホラーは、主としてブレーキが壊れているのである。緩急の付け方に失敗していると言うべきか、恐怖の割合をアナログ的にではなく、いきなりデジタル的かつ過剰に増やしてしまっているので、第1夜でダラダラと番組パートを見せた意味が霧散した。私はこれらを連続して鑑賞したが、実際には一晩ごとの放送だったのだからより始末が悪い。連続性の構築にここまで失敗していると、リアルタイムで鑑賞した者は軽く置いてけぼりを食ったのではないだろうか。

 そして迎える第3夜。いとうらも『ミッパラ』も、狂気に支配されて連綿と言葉遊びを続けるだけの存在になっている。物語はここで完全に破綻した。第2夜が地獄の超特急だとすれば、第3夜は地獄のリニアモーターカーである。こうなってしまうと、そこには恐怖もクソもへったくれもない。内容にしたって一見では全く理解が追い付かないので、面白さも皆無である。さっぱり理解出来ない異様な映像が25分流れ続けるだけと形容してもよく、端的に言ってやり過ぎだ。不条理劇のほうがまだ明快である。どのみちゴドーは来ないのだから。

 

 今この評を書くために再び本作を観直しているが、いい加減うんざりしてきたので、本作が映像作品として抱える問題点をいくつか洗い出しておきたい。

1.メタフィクション/フェイクドキュメンタリーと、投げっぱなしの脚本の相性の悪さ。

 冒頭でも書いたが、虚実をないまぜにし、その境界線を滲ませることで、初めてメタフィクションは仕掛けとして成立する。それがホラーである場合、実際性を担保に恐怖を描いていると言い換えることも出来るだろう。その前提が破壊されてしまうと、恐怖だけがあからさまな異物として周囲の現実と断絶されたまま存在することになってしまう。これはメタホラーというより、むしろパニックホラーや、モンスターホラーなどといった文脈に近しい。

 即ち、(人間に理解出来るかどうかは別として)恐怖にも何らかの因果律が存在し、何らかの理屈に則って動いているのだ、ということがほんの僅かにでも明示されない場合、それはメタホラーにおいて、恐怖を描いたことにはなり得ないのである。

 ところが本作の脚本は、基本的に投げっぱなしだ。まずあり得ないことが起こり、順を追って起きたことだけが列挙され(初手からあり得ないことが起こっているので、ここで起こることも総じて無茶苦茶だ)、手掛かりこそ与えられている気配はあれども、その解釈は一切明かされない。

 私はこの構造に強い既視感がある。それは主に2000年代から2010年代初頭まで、2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)上に花開いた、所謂「2ch怪談」文化だ。

 携帯電話をはじめとした小型の情報端末が爆発的に普及したことで、怪談は「聞くもの」から「体感するもの」へと変貌を遂げた。現在進行形で奇妙な体験をしていると称する人物が実況スレッドを立て、それを不特定多数の人々がリアルタイムで読み書きし、怪異を疑似的に体感する。そのような中で生まれた怪談の代表は『消えたとてうかぶもの・?』(初出:2002年)『きさらぎ駅』(初出:2004年)などだろうが、これらの怪談にはサゲがない。基本的に語り手はどこかで書き込みをやめてしまうか、スレッドがコメント上限に到達していなくなってしまう。

 つまりこれらの怪談の恐怖とは、起点となる出来事からエスカレートしていくものではなく、それ同士の関連性すら担保されぬままに乱発されていく「単体の変事」であり、現実と地続きであろうとして描かれるものではない。ここで物語のメタ性を担保しているのは、語り手が今まさに書き込みを続けている(あるいは、書き込みをやめてしまった)という即時性だけなのだ。意地悪な表現をすれば、それを発表する場の構造に全面的に依拠して、本来メタフィクションがメタフィクション足り得るために割くべき労力すら軽んじ、疎かにしていると言ってもよい。

 人間の恐怖の正体とは、突き詰めてしまえば「理屈付けを拒否されること」の一点に限られる。我々は訳の分からないものを恐れる。だからこそ物事に名前を付け、理解しようとし、対策を立てようとする。 ホラーとはその過程を描くエンターテインメントであって、即ち「理屈は分からないが、何かがそこにある」という主題は、到達点ではなく出発点でなければならない。

 要するに、本作のように"2ch的"な「理屈は分からないよ」という開き直った到達点を持つホラーは、そもそもホラーというジャンルに必要とされるストーリーテリングから逸脱しているのである。即時性に担保された恐怖というものも、インターネット上の書き込みやテレビ放送などとの相性はいいのだろうが、それがコピペ化したりソフト化・配信されたりすると同時にメタフィクションとしての足場が崩れ、輝きを失ってしまうのだ。

 

2.即時性に担保された恐怖と、再鑑賞を前提としているとしか思えない演出の相性の悪さ。

 繰り返すが、本作は3夜連続でテレビ放送された映像作品である。そのコマーシャルは慎ましやかで、ちゃんと読めばある種異様ではあったものの、事前の宣伝だけでは本作がフェイクドキュメンタリーだと気付けない人がいたとしても何らおかしくはない程度のものだった。つまり、制作陣は本作を予備知識なしに鑑賞する人がいる可能性に気付いていた、むしろそのような鑑賞者を求めていたと言ってもよい。

 そのような鑑賞者が本作を観た場合、仕掛けられているフックや伏線、手掛かりを一見のうちに気付くのはほぼ不可能だと断言できる。そのような演出をふんだんに取り入れている、つまり再鑑賞を前提にしているのにも関わらず、脚本は前述のように即時性が担保する恐怖に大きく依存しているため、そのミスマッチがどうにも居心地悪く、ちぐはぐな印象を覚える。

 何度も鑑賞して推理を組み立てる必要がある映像作品が悪いとは言わない。しかし、本作はフェイクドキュメンタリーであることに拘る余り、(本作の録画すらしていなかったであろう)一見の鑑賞者を蔑ろにしてしまった。カタルシスを求めて第3夜まで観たところで、何ら解決を見ない底の破れた脚本である。彼らの頭にはクエスチョンマークがぎゅうぎゅうに詰まっていたことだろう。

 もしこの作品自体が、あえてカタルシスを提供しないことで、見逃し配信サービス等へ誘導するためのマーケティング戦略だったとしたら……それは流石に悪辣な手腕だと言わざるを得ない。まあこんな推論は半分陰謀論に過ぎないのであって、私も普段であれば"ハンロンの剃刀"の例えを引いて一笑に付しただろう。だが、放映後の外部サービス・SNSへの露骨な誘導を鑑みると、ひょっとして、ひょっとすると、ないセンではないのかも……と思えてしまうのが、一度芽生えた疑念の恐ろしいところである。制作の人そこまで考えてないと思うよ……多分。


3.放映後の騒動に見るコンプライアンス意識の低さ。

 これは本作の出来とは直接関係のない話だが、放映当時ちょっと炎上していたのも記憶に新しいので、軽く触れておかざるを得ない。

 その顛末はこうだ。第1夜の放送終了直後、Wikipediaに『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』項が作成されていたのである。勿論『ミッパラ』は本作のために考案された架空の番組であり、実際に放映されていた事実はない。おそらくメタフィクションとしての箔付けのために作成したのだろうが、架空の番組の情報が特筆性の基準を満たす訳もなく、項は即時削除された。同じ項はニコニコ大百科にも作成されており、いずれも番組がフィクションであることを一切明記しない状態だったために、大いに批判されてしまったのである。

 その後、ニコニコ大百科に作成された項は第3夜放送終了後に白紙化されたが、フォーラムでの議論を経ないでの白紙化もポリシーに反する行為だったため、再び批判されることになった。

 メタフィクションの箔付けとして実際にサイトや掲示板を立ち上げるのはよくある手法で、前述のように『ブ(以下略)』は本編の他にドキュメンタリー番組まで撮影していたし、本邦でいうと(テレビゲームだが)『SIREN』(2003年/ソニー・コンピュータエンタテインメント)が発売前に掲示板や考察サイトを立ち上げていた。最近のところで言えば、書籍『変な絵』(雨穴、双葉社/2022年)の作中にて取り上げられる奇妙なブログは実在している(著者本人が数年分の記事を執筆したらしい)。

 しかしながら、自社で用意したドメインならまだしも「営利目的の使用がポリシーで禁じられている外部サービス」を使ってプロモーションを打つというのはあまり、というか全く褒められた行為ではない。よく考えないで使ってしまったのだろうか。外堀を埋めておきたがる癖も大概にしておくべきである。

 

 以上が、本作が抱える問題点である。

 単純に意識の低さに起因するのであろう3はともかく、1と2で挙げたような脚本と演出の二律背反は一体何によるものなのだろうか。

 私が思うに、それは構成を担当した梨と、演出統括・プロデューサーを務めた大森時生の作風のミスマッチが原因だったような気がする。

 梨は2ちゃんねるにルーツを持つ作家であり、言葉は悪いが投げっぱなしのストーリーを多く書くらしい(私は姓名の別のないペンネームを使うホラー作家をあまり信用していないので、詳しくは知らない)。作品のメタ演出として、外部サイトを用いた外堀埋めを行うこともあるようだ。

 大森時生はこれ以前にもフェイクバラエティ番組を手掛けた経歴があるようで、そちらは(外部サービスによる配信だったようだが)解決編とでもいうべきパートが存在しているらしく、前述した定義に照らせばメタフィクションとして守るべきラインはしっかり守っていたように思える。その一方で「番組の割と早い段階から不自然な編集が目立ち、フェイクであることが露呈していた」という感想もちらほら目についた。これは第二のオーソン・ウェルズを生み出すまいとするテレビ的倫理観によるものではないだろうか。

 つまり、本作は「連続性・因果律よりも変事そのもののインパクトを重視し、作品単体での実際性の担保をおざなりにしがちな脚本家」と「一見の視聴者にもこれがフィクションだと理解してもらえるようわざと粗い作りにはしたいが、ある程度筋を通したい演出家」の、それぞれの悪いところが出てしまった悲しきマリアージュだったのである。


 2000年代のインターネットは、まさに未来だった。清濁併せ呑む混沌の滾る、無限の沃野だった。"Web2.0が夢の跡"を生きる現代の我々が振り返れば、眩しく思えるような時代──その特性を色濃く反映して生まれてきた種々の怪談達と、それらに覚える憧憬には私も敬意を表したい。

 しかしながら、そのストーリーテリングの手法を語るとき、時代性というものに無関心ではいられないはずである。 かつて我々が恐怖した怪談は、その場に相応しい形だったからこそ恐怖を保てたのだ。その在りよう、作話法が万能論である道理はない。果たして我々は「恐怖の作り方」をアップデート出来ているだろうか?

 恐怖とは、人間の最も根源的な感情のひとつである。それ故に直接的なアプローチは殊の外容易い。箸にも棒にもかからないような出来のクズホラーが、星の数ほども存在している理由はこの辺りにある。手っ取り早く人間を揺さぶろうと思ったら、安直に恐怖をぶつけてやればよいのだから。

 そのようなホラーの鑑賞は、基本的にとても空しい。制作陣の「どうだ、怖いだろう」という悲鳴じみた空威張りが聞こえるだけで、ホラーはおろか、娯楽としても失格と言わざるを得ないような頓珍漢な作品にも時折ぶつかることがある。このような味のないナタデココをわんこそば方式で食べるかの如き、膨満感ばかりが募る体験は、決して質の良いものとは言えないだろう。同じ金を払うのなら、量より質を求めたいと思うのは当然だ。

 つまり裏を返せば、直接的アプローチにNoを突き付け、あくまでもアプローチを工夫し探求することこそが、ホラーをホラー足らしめる基本にして神髄、恐怖を正しくエンターテインメントに仕立て直す魔法なのである。本作がブラフのテーマに据えていた「昭和の昔と現代の対比」に寄す訳ではないが、いつまでも平成の残り香を追い続けるようなメタホラーの在り方には疑問を呈したい。そして現代に即した形のメタ演出とは、Wikipediaを広告塔に使うようなものではないはずだ。まあ今回のことで制作陣も懲りたであろうし、次回はそのような失態はないだろう。多分ないと思う。ないんじゃないかな。まあ、ちょっと覚悟はしておけ。

 

 テレビ放送でフェイクドキュメンタリーを制作しようという気概は手放しで評価したい。繰り返すが、テレビはその性質上第2第3のオーソン・ウェルズを生み出しやすいのだ(例えば、エイプリルフールにフェイクドキュメンタリーとして制作された『第三の選択』《1977年/アングリア・テレビジョン》は放送日がずれ込んだこともあり、放送直後から視聴者の問い合わせが殺到したらしい。本邦では翌78年にフジテレビが深夜帯で放送したが、こちらも視聴者の問い合わせが殺到したという)。

 不穏なビデオ映像を主軸に物語を展開させる、という発想も悪くないだろう。『女優霊』(1997年/ビターズ・エンド)『リング』(1998年/東宝)などの例を引くまでもなく、VHSの荒れて白飛び・黒潰れした画面に、ホラーの演出として代えがたい魅力があることは認めざるを得ない。

 しかしながら、全編を通じて演出の緩急の付け方がおかしく、題材の良質な不穏さをカタルシスの望めない脚本が生かせているとも言い難い。演出がヒートアップすればするほど、鑑賞者の心は離れ、醒めていく。矢継ぎ早に異様な光景を見させられたところで、募るのは膨満感ばかりであり、そこに恐怖はない。取り合わせは良かったのにねえ。全ての現象に「既に狂気に取り込まれているから」という理由をこじつけてしまうホラーは、夢オチ爆発オチに次いで酷い作りであると自覚してもらいたい。それがリアリティラインの設定に気を遣うべきメタフィクションであれば尚更である。本当に残念でしたなあ。