2025年5月23日金曜日

『チェンジリング』(1980年)映画評

 『チェンジリング』(1980年-パン・カナディアン)

得点…92/100

(画像の出典:『The Changeling (1980) - IMDb』

 前々から「面白い」という評判は聞いていたものの、ジャケットの『ローズマリーの赤ちゃん』(1969年-パラマウント映画)っぽさが鼻についてしまい、今日まで何となく敬遠してしまっていた作品である。この度気が向いて鑑賞してみたところ、なるほどこいつは面白い。それも大変面白い。とんだ掘り出し物である。

 あまりこういう文脈で語られているのを見たことはないが、本作の様々なシーンが種々のJホラー作品(特に中田秀夫監督作)にオマージュされている。鑑賞中「あっ、このシーン観たことある!」という発見が何度もあり、それらの映画の元ネタを知れたという意味でも印象深い鑑賞体験となった。

 ちなみにこの映画評を書くにあたって改めて『ローズマリーの赤ちゃん』のジャケットを調べてみたところ、実際にはそれほど似ていなかったというオチが付く。なんじゃそりゃ。

 毎回警告しているが、私はネタバレには一切配慮しないので、ここから先を読み進める場合にはそのおつもりで。でも本作くらいは私の映画評など読まずに観て欲しい気持ちもある。それくらいよく出来た作品なので。

 

 交通事故で妻子を失った作曲家ジョン・ラッセル(ジョージ・C・スコット)は、妻子と暮らしたニューヨークの家を引き払い、友人の伝手を頼ってシアトルの大学で教鞭を執ることになった。一日中ピアノを弾ける家が必要だと話すジョンに、友人は歴史保存協会の知り合いを紹介してくれる。協会が管理している歴史的建造物を貸してくれるというのだ。

 協会員のクレア・ノーマン(トリッシュ・ヴァン・ディヴァー)に連れられてジョンがやって来たのは、築100年は経とうかという屋敷だった。広いわ家具付きだわ、おまけに音楽室も完備しているこの「チェスマン・ハウス」が気に入ったジョンは、早々に契約して引っ越しを済ませる。

 数日後、大学の主催するチャリティコンサートから帰宅したジョンは、屋敷中に轟く何かを叩くような音で朝6時に起こされた。傍迷惑な話である。その翌日にも轟音は鳴り響き、ジョンは管理人を呼んで配管やボイラーなどを点検してもらうも、異常は見つからない。夜になると今度は屋敷のあちこちの水回りという水回りから水漏れが起こり、屋根裏の浴室ではついに浴槽に沈む顔を目撃してしまう。

 流石にただ事ではないと思い始めたジョンは歴史保存協会を訪れ、クレアに屋敷で何か事件が起こった来歴はないかと問うが、クレアは屋敷はずっと空き家だったと答え、暗にまだ傷心の癒えぬジョンが幻覚でも見たのだと主張した。

 憮然とするジョンだったが、協会の古株職員ミニーが気になることを告げる。曰く、今回の賃貸契約はクレアの独断によるもので、契約上の問題が存在している。チェスマン・ハウスはずっと空き家だったし、それは屋敷が人を拒むからだと。

 釈然としないまま帰宅したジョンが、翌日の朝散歩に出かけようとすると、急に屋根裏部屋の窓ガラスが割れ落ちた。 窓ガラスの破片を手に屋敷を見上げたジョンは、自分がまだ入ったことのない部屋が存在していることを知る。

 屋根裏に上がったジョンは、物置の奥の壁に板や棚を打ち付けて隠された扉を発見し、その扉に掛かった南京錠を破壊しようと試みる。その途端例の轟音が屋敷中に鳴り響き、ジョンが耳を押さえながらも同じリズムで南京錠を叩きつけると、南京錠が開くのと同時に音は止んだ。

 恐る恐る扉を開けたジョンが目にしたのは、急な階段の先の小さく暗い部屋だった。子供用のベッドや車椅子が転がる部屋の中で「C.S.B. 1909年1月」と署名された日記帳とオルゴールを見つけたジョンだったが、何とオルゴールの曲はジョンが屋敷に引っ越してきてから作曲していた交響曲と旋律やテンポ、調までもがぴったり一致していたのだ。

 クレアを呼んでオルゴールと部屋、日記帳を見せたジョンは、屋敷は人を拒んでなどおらず、むしろ何かを伝えたがっているのだと推測する。

 翌日、歴史保存協会でチェスマン・ハウスの登記簿を調べるジョンとクレアだったが、直前の住人が1967年まで住んでいたこと、その後無人となった屋敷を地元の上院議員で慈善家、歴史保存協会の理事も務めるジョセフ・カーマイケル(メルヴィン・ダグラス)が購入し協会へ寄贈していること程度しか分からなかった。

 1920年より以前の記録は協会にも存在せず、調査は暗礁に乗り上げたかと思われたが、ミニーが1909年当時の住人がバーナードという医師であることを覚えていたため、二人は図書館で当時の新聞を調べることにする。

 果たして1909年当時の新聞に「バーナード医師の娘コーラが、屋敷の庭で石炭運搬車に轢かれて亡くなった」という記事が掲載されているのを発見。日記帳の署名とも合致する名前が登場したことで、一旦は真相に辿り着いたかとその墓所を訪れた二人だったが、「何故コーラが自分に接触しようとするのかが分からない。娘を亡くしたからか?思い出すのも辛いのに」と吐き捨てるジョンに、クレアは屋敷を引き払うことを勧める。

 その夜、階段脇の書斎で妻や娘の写真を眺めていたジョンの許に、階上からゴムボールが転がり落ちて来た。娘の遺品で、書斎の箱にしまってあったはずのそれを拾い上げたジョンは、全ては自分の心の病が見せる幻覚だと思い込もうとし、娘への執着を断ち切るべく川へゴムボールを捨てに行く。そして屋敷へ戻ってきたジョンが見たものは、階上から転がり落ちて来る、さっき捨てたはずのゴムボールだった。

 このシーンは音響やカメラアングルも含めてあまりにも見せ方が上手いので、今日のホラー映画には割とありがちな展開にも関わらず、私はゾッとしてしまった。『仄暗い水の底から』(2002年-東宝)でもマンションの屋上に子供用のバッグが何度も現れたが、現れる物体に動きがついている分、なにがしかの意志を感じさせてこちらの方がよっぽど怖い。

 ついになりふり構っていられず、大学の心霊研究室教授から信用出来る霊媒師を紹介してもらったジョンは、クレアとその母を伴って降霊会を行う。霊媒師の自動筆記によって、屋敷に棲まう者がコーラではなくジョセフという少年であることが明かされるが、それ以上は「助けて」と繰り返すばかりで目ぼしい情報は得られなかった。

 降霊会の後、ジョンは独りその模様を録音したテープを聴き直していた。すると、参加者以外の声が録音されていることに気付く。 ジョセフ・カーマイケルを名乗る少年の声は、自身が足の障碍で歩けなかったことや、自室で湯灌中に父親に溺死させられたこと、自身の名が刻まれたメダルのペンダントを所持していたことなどを細切れに話した。ジョンが聞いたあの轟音の正体は、少年が抵抗して湯桶を叩く音だったのだ。

 慌ててクレアを呼び戻しテープを聞かせたジョンは、本物のジョセフ・カーマイケルが屋敷の屋根裏部屋で殺され、農場の井戸に埋められたことを確信する。今や上院議員となったジョセフ・カーマイケルは、どこかの養護施設から連れて来られた替え玉なのではないかというジョンの推理を半狂乱になりながら遮ったクレアだったが、ふと階上を見上げて絶句。そこには例の車椅子が、二人の様子を窺うかのように鎮座していたのだ。

 こちらも最早古典的とも言える演出だが、ここで敢えて車椅子という小道具をチョイスするセンスがニクい。JホラーやしょうもないBC級ホラーであればここで少年の霊を立たせてしまいそうなものだが、本作では軋む車椅子が主人公達を睥睨する。私はこのシーンに一番ゾッとした。

 翌日、ジョンとクレアはジョセフ・カーマイケル議員とチェスマン・ハウスについて調べ始めていた。そして、第一次大戦の混乱に乗じて入れ替えが行われた可能性が濃厚であること、カーマイケル家が所有していた農場に井戸が存在し、そこは現在宅地になっていること、父親であるリチャード・カーマイケルが息子を手に掛ける動機が、億万長者である妻の実家からジョセフが相続することになっていた遺産にあったらしいことが分かる。

 一方で歴史保存協会のミニーはカーマイケル議員に電話し、ジョン・ラッセルという男が議員の過去を探り始めていることを警告する。ミニーには議員の息が掛かっていたのだ。

 二人は井戸があった場所に現在建っている家の住人、グレイ夫人を訪ね話を聞くことにした。なんでもチェスマン・ハウスで降霊会が行われた日、グレイ夫人の娘が部屋の床から浮かび上がる少年の霊を見たというのだ。床を剥がしてもいいかと聞くジョンに対し、グレイ夫人は少し考えさせてほしいと答える。

 その夜のこと、夫人の娘が再び水に沈む少年の霊を見てしまう。急遽呼び出されたジョンは夫人の息子と共に床を剥がし、案の定出てきた古井戸を掘り返すと、当然のように人骨が出土するのだった。

 ジョセフの霊がしっかり実体を伴って画面上に現れるのは、全編を通じてほぼこのシーンのみである。しかも主人公でも何でもない、グレイ夫人の娘というぽっと出のキャラクターを目撃者に選ぶセンスには脱帽だ。怪異の正体があくまで主人公達には見えざる存在であるということを鑑賞者に強く印象付け、緊張の糸を張り詰めさせたままエンディングまで駆け抜けるための下地作りに成功している。

 駆け付けた警察の聴取を適当にあしらったジョンは、埋められていたのが本物のジョセフ・カーマイケルであることを証明するメダルのペンダントを探すため、人気のなくなったグレイ家に再び潜り込む。小さなメダルがそう簡単に見つかるはずもなく、諦めかけたジョンだったが、本物のジョセフの怨念がなせる業か、メダルが滲み出すように出土する。

 本物のジョセフのメダルを手に入れたジョンは警察には届け出ず、カーマイケル議員と直談判することを選んだ。空港でプライベートジェットへ乗り込もうとする議員に突撃し、メダルを見せて話をしようとしたが、警護に取り押さえられてしまう。カーマイケル議員は機上から腹心のデウィット警部に連絡し、ジョンの対処を依頼した。

 這う這うの体でチェスマン・ハウスに帰宅したジョンだったが、今度は扉という扉が強い不満を訴えかけるようにバッタンバッタン開閉する始末。ついに「やれることはやった!これ以上何をすればいいんだ!」と霊に逆ギレしてしまうジョン。

 疲れ果てて長椅子に寝転ぶジョンの許に、カーマイケルの差し金でデウィット警部が訪れた。警部はジョンを脅迫者と断定し、次会う時には令状を持って来る、と捨て台詞を残して帰っていく。

 警部と入れ違いになるようにして、立腹したクレアが玄関を突き破らん勢いで入ってきた。突然歴史保存協会を解雇され、チェスマン・ハウスの賃貸契約も破棄されたというのだ。これから理事長に掛け合ってくる、と鼻息荒く屋敷を後にしたクレアだったが、すぐに屋敷へ電話を掛けてくる。帰り道で自動車事故の現場に遭遇し、その事故でデウィット警部が死んだという。

 腹心であるデウィット警部に死なれ、焦ったカーマイケル議員は、ついにジョンと直接会うことを決める。カーマイケル邸に乗り込んで議員に直接推理をぶつけたジョンだったが、議員は泣きながら父親を侮辱するなと一喝、その姿を目の当たりにしたジョンは言い争う気も失せたのか、遺言状や降霊会の録音、メダルなど証拠の一切を議員に渡して去っていった。

 その頃チェスマン・ハウスを訪れていたクレアは、誘われるように屋根裏部屋までやって来たところで車椅子に追いかけられ、階段落ちを披露。ちょうど帰ってきたジョンに介抱され、代わりにジョンが屋根裏部屋へ向かったが、ジョンの態度にも議員の責任逃れにもプッツン来たジョセフの怨念たるや凄まじく、ジョンも二階の廊下から吹き飛ばされてしまう。

 一方、カーマイケル議員は何気なくジョンから渡されたメダルを父の肖像画へかけたが、その途端にジョセフの怨念が炸裂、肖像画の乗った机ごとメダルが大きく震え出し、議員に父の凶行を幻視させる。

 屋敷のエントランスで伸びているジョンの目の前にはカーマイケル議員の霊体が現れ、燃え盛る階段を屋根裏部屋へと登って行った。途端に階段は焼け落ち、屋敷の命運を悟ったジョンは命からがら脱出を果たす。屋根裏部屋が議員の霊体ごと爆発すると同時に、カーマイケル邸では議員が心臓発作で冷たくなっていた。

 ジョンとクレアが燃え盛るチェスマン・ハウスを後にしてカーマイケル邸に取って返すと、ちょうど議員の亡骸が運び出されていた。全てが終わったことを察知し、カーマイケル邸のポーチにへたり込んでしまう二人。

 翌朝、灰燼に帰したチェスマン・ハウスの跡地では、燃え残った件のオルゴールの蓋がひとりでに開き、高らかに勝利の凱歌を上げるのだった。


 本作が特に優れている点は、その構成の巧みさにある。借りた家の曰くを明らかにする展開はオーソドックスな「幽霊屋敷もの」、幽霊の正体やその埋葬場所、犯人などを解き明かそうとする展開は「推理劇」、本気を出した幽霊が仇に祟って大暴れするラストシーンは「オカルトもの」、といったように、作中でストーリーの味わいが変化していくのだ。

 この3部構成は、ほぼそのまま『リング』(1998年-東宝)に踏襲されている。『リング』においては「都市伝説もの」→「推理もの」→「オカルトもの」という構成になっているが、男女の主人公が古い資料を漁って真相に近付いていく構成などは本作にそっくりである。怪異の元凶となった人物が遺棄されたのがどちらも井戸で、それを覆い隠すように家または貸別荘が建てられているという展開の共通点も見逃せない。

 その他、暗い屋根裏で扉が開閉するシーンは『女優霊』(1996年-ビターズ・エンド)、先述のゴムボールのシーンは『仄暗い水の底から』、全体の構成と主人公達が首っ引きで資料を探すシーンは『リング』など、種々のJホラー作品、特に中田秀夫監督作品に多くのオマージュが見られる。

 つまり、本作は多かれ少なかれ、Jホラーに無視出来ない影響を与えている作品なのだ。Jホラーに親しんだ者ほどその驚きは大きくなるだろう。

 また本作は構成の卓抜さのみならず、ショック描写のほうも手堅く押さえている。ハッタリじみた音響やVFX頼みではなく、カメラワークや最低限のSFXによって、屋敷に巣食う怪異の存在感を圧倒的なまでに描き切っていることは単純に賞賛に値するだろう。

 これは度々書いている気がするが、ホラー映画というのは、幽霊だの悪魔だのをただ出せばいいというもんではない。如何に怪異を画面に映さないかが肝要なのである。その点、本作は非常に高いレベルでこれをクリアしている。ジョセフの霊が出現するのは衝撃的な演出としてのワンシーンのみであり、大立ち回りのラストシーンですら直接的な姿を見せることはない。

 脚本の細かな点に目をやれば少々瑕疵が目立つ部分(屋根裏部屋から出てきた日記帳の存在や、グレイ夫人が協力的に過ぎる点など)もあるが、110分程度の尺にこれだけ秀逸なストーリーを詰め込んだという事実の前には些末な問題だろう。演出の緩急もしっかりしており、次第に明らかになっていく真相に鑑賞者はグイグイと引き込まれ、あっという間にエンドロールを迎えてしまうこと請け合いである。

 本作は「本当に面白いホラー映画はこうあるべき」というお手本のような作品で、私は今日まで鑑賞を先延ばしにしてきたことを強く後悔した。読者諸賢も是非本作を鑑賞して、ホラー映画のダイナミズムというものを体感してみてほしい。

2025年5月17日土曜日

『アメリカン・サイコ2』映画評

『アメリカン・サイコ2』 (2002年-ライオンズゲート)

得点…31/100

(画像の出典:『American Psycho II: All American Girl (Video 2002) - IMDb』

 いやあ、これは酷い。久しぶりにこんな酷い続編を観て少し嬉しくなってしまっている自分がいることに驚くくらい酷い。本作を観た後であれば、あの世紀の大駄作『ハロウィン3』(1982年-ユニバーサル・ピクチャーズ)はまだ「TVチカチカで子供がデロデロするという奇想があったから面白かった」と躊躇いなく言えるレベルで酷い。ここまで酷いと、我々に許された行為はもうこりゃ参った!と脱帽すること以外にない。

 毎回警告しているが、私はネタバレには一切配慮しないので、ここから先を読み進める場合はそのおつもりで。 


 それでは本作が如何に酷いかを語る前に、前作(仔細は後述するが、これを前作と言っていいのだろうか?)『アメリカン・サイコ』(2000年-ライオンズゲート)のあらすじについて軽く触れておこう。

(画像の出典:『American Psycho (2000) - IMDb』

 主人公はウォール街の投資会社に勤めるパトリック・ベイトマン。裕福な家の出で社会的な地位があり、服やレストランや酒やエクササイズや音楽やボディソープにも造詣の深い筋肉ムキムキマッチョマンの二枚目、所謂ヤッピーであり、例えて言えば若かりし日のドナルド・トランプのような男、早い話が俗物である。

 彼はその社会的地位を保つため、極めて社交的な性格を装い同僚たちと俗物らしい空虚な会話と虚勢の張り合いを続ける、ある種のノブレス・オブリージュに憑りつかれている一方で、肥大化していくある欲求に抗えないでいた。殺人欲求である。

 ある日、内心見下していた同僚のポール・アレンがルックス・学歴・身だしなみの三拍子のみならず、卓抜した美的センスも持ち合わせていたことを知って嫉妬の炎を燃やし始めたベイトマンは、ついに殺人の衝動を抑えきれなくなり、路地裏で物乞いをしていたホームレスとその飼い犬を殺害する。

 その翌日、ベイトマンはアレンが自身をマーカスという人物と勘違いしているのをいいことに、首尾よく食事の約束を取り付けた。さて約束の当日、あまり流行ってなさそうなレストランに連れて来られたアレンは皮肉を言い、あろうことかマーカス(実際にはベイトマン)の目の前でベイトマンの陰口を叩き始めてしまう。如才なく酒を勧め、アレンをぐでんぐでんに酔い潰れさせたマーカス(ベイトマン)は自分のアパートにアレンを連れ込み、その頭を斧で叩き割った。死体を詰めたバッグをタクシーに運び込もうとして知り合いに目撃されたり、アレンの親族が雇った探偵が聞き込みに来たりするも、ベイトマンはしらを切り通す。

 さて理性のタガが緩み始めたベイトマンは、アレンの留守電に「ロンドンに行く」という嘘の旅程を吹き込んでおざなりな隠蔽工作を図ったりする一方で、自室に言葉巧みにモデルを連れ込んでバラし首を冷凍保存したり、アレンの名を騙って買った娼婦をアレンのアパートでバラしたりなど、凶行が無秩序化していく。

 ある日、猫を射殺しようとしたところを見咎められたベイトマンは、その代わりとばかりに目撃者を射殺。ついにマッポに追われる羽目となり、派手なドンパチで大勢死人を出した末に、顧問弁護士へ電話をかけて留守電に犯行の一切を自供する。

 翌朝、何もかもが吹っ切れてしまったベイトマンは憑き物が落ちたような顔で颯爽とアレンのアパートへ向かうが、そこには血溜まりも死体達の姿もなく、ただリフォーム途中の部屋があるだけだった。部屋のオーナーらしき女性にアレンの所在を尋ねるも、不審がられて追い出されてしまうベイトマン。

 理解が及ばないながらも、いつものように同僚達とテーブルを共にしたベイトマンは、昨日電話をかけた弁護士を見つけ、彼に近付いて再び犯行を自供したが、悪趣味なブラックジョークだと思われて取り合ってもらえない。あまつさえ弁護士はベイトマンをデイビスという人物と勘違いしている始末である。

 それでもアレンはロンドンになど行っていない、自分がアレンを殺したのだからと主張するベイトマンだったが、弁護士はそんなはずはないと頑なに反論する。その根拠をベイトマンが問うと、弁護士は「アレンとロンドンで食事した」と答えたのだった。

 つまり、この映画はアレンや弁護士のようなキャラクターで表現されるヤッピー達の「他者への無関心」というファクターの上に、「果たしてベイトマンはシリアルキラーなのか?はたまた全てが彼の妄想の出来事なのか?」というどちらにも転びうるストーリーを乗せたことで、一筋縄ではいかないサスペンスと重厚な余韻を齎すなかなか練られた作品なのである。


 一通り前作のあらすじを説明したところで、本作の話に戻ろう。

 本作イチの衝撃は、スタート直後にやって来る。なんと主人公が、パトリック・ベイトマンの殺戮をすんでのところで生き延びた生存者だと告白するのだ。

 私もこれには椅子の上でひっくり返った。先述のように、前作の魅力の一端は「パトリック・ベイトマン、クロかシロか?」という部分にも存在していたからだ。生存者がいるということは殺人事件が確かに起こったということであり、つまりベイトマンは確実にクロになってしまう。

 しかも、ベイトマンがベビーシッターを凌辱している間に縛を解いた少女時代の主人公が後ろからアイスピックで一突きすることで、何故かベビーシッターもベイトマンも仲良くあの世行き。少女時代の主人公はするりとベイトマンの部屋を抜け出して家に帰り、ベイトマンの死の真相は謎のまま……ってちょっと待て。いくら無防備な背中を狙ったとはいえ、12歳の少女がアイスピックのような尖状無刃器の一突きで大人を殺せるものかあ?

 実際のところ、前作との関わりらしい関わりといえばここでベイトマンの名前と姿(勿論、演じているのは前作のクリスチャン・ベールではない)が出てくる程度でしかないので、本作を『アメリカン・サイコ』の続編と呼んでいいのかは甚だ疑問である(これも後述するが、多分続編と呼んでいい代物ではない)。既にご都合主義が香るが、本作の破綻っぷりはまだまだこんなものではない。なんたってここまでで2分少々、まだ80分以上が残っている。さあお立合い。

 ベイトマンを屠ったことでそのテの快感に"目覚めて"しまった我らが主人公・レイチェルは、シリアルキラーを追い詰めることこそ自身の宿命と定め、犯罪プロファイリングを学ぶべく国内屈指の大学に進学する。ベイトマン事件を担当したFBIのプロファイラーで、現在は行動科学の教鞭を執るスタークマン教授の下で勉学に励む日々だ。高校時代の成績は勿論オールA、大学でも真面目に講義を受け、頭が悪くなるから煙草もやらない──ここまでの経緯が、全てレイチェル本人の独り語りによって説明される。

 本当に全てだよ、全て。主人公がやることなすこと全て自分で解説してくれるワンマンショーなので、ある意味非常に分かりやすい作りである。問題点を挙げるとすれば、この演出は死ぬほど安っぽく、ナルシシズムが鼻につく語りにはイライラさせられるということだけだ。

 実は前作も全編を通じてベイトマンの主観で話が進んでいたのだが、自身の動機や手段について解説するモノローグが入ることはほぼなかった。多くを語らないことで、鑑賞者は「ベイトマン自身にももう凶行を止めることが出来ないのだ」と理解する。そしてベイトマンというピントのズレたレンズを通して全てを追いかけて来たために、ラストシーンでのちゃぶ台返しが効いてくるのである。制作陣は前作ちゃんと観た?まあ、観てはいないのだろうな。本作は随所に見え隠れする志の低さを隠し切れていないのだから。

 さて我らが饒舌な主人公レイチェルによれば、スタークマン教授の教務助手になれれば確実にFBI捜査官養成校、クワンティコに入局出来るらしい。成績には自信があるが、無論成績だけが全てではない。

 レイチェルにはライバルがいた。大金持ちのドラ息子で、大学すらも金の力で入ったブライアン。教授と寝ているらしいカサンドラ。成績優秀で幾度となく討論してきた(が、レイチェルが全勝してきた)キース。レイチェルの頭の中では、自身の合格はもう殆ど既定路線だった。

 意気揚々と教務助手に応募するため事務局へ行ったレイチェルはしかし、1年生であるという理由で出願を拒絶されてしまう。助手に出願できるのは、原則として3年生からだというのだ。レイチェルは教授に特別に許可された(無論嘘八百である)と食い下がるが、取りつく島もなく袖にされてしまった。

 これはあくまで規則上そうなっているという話であり、別に意地悪をしているとか差別だとかでは全くない。全くないのだが、既に(後述の事情で)理性のタガが緩んでいるレイチェルは、出願を突っぱねた事務員のおばちゃんを自宅までつけて撲殺してしまう。

 この殺人が如何にも唐突で、取って付けた感がすごいので、本作はとりあえず観客に意外性を見せつけることには成功している。無死2、3塁の場面で1塁に牽制球を投じるような意外性だが……。

 レイチェル曰く、自分がFBIに入れば何人ものシリアルキラーを挙げられる。その社会正義を実行するためならば、数人の障壁を始末したところで何の問題があろうか?ということらしい。如何にもチープでありがちなサイコパスの屁理屈である。大体「出願を希望しているのに、その応募資格を確かめておかないなんてことがあるか?」とか「おばちゃんを始末しても規則が変わる訳じゃないだろ」とも思うが……突っ込んだら負けである。ここ、まだ序の口ですよ!

 助手になるという悲願のためブレーキが外れた暴走特急、レイチェルは次々と"障壁"達を排除しにかかっていく。

 まずレイチェルの毒牙にかけられたのはブライアン。レイチェルが出願を諦めれば7桁支払うと持ち掛けたのがまずかった。レイチェルに色仕掛けで部屋に連れ込まれ、引き伸ばしたコンドームで首を絞められてキュウ。

 うわあ、嫌な死に方だなあ。世の男性諸君の「こんな死に方はイヤだ!Best10」があるとすれば、堂々のランクインを果たしそうな情けない死に様である。本当に伸ばしたゴム程度で成人男性の首を絞めることが出来るかどうかはさておき……。

 凶行の合間に、レイチェルは何故かカウンセリングに通っている。何ら良心の呵責も感じていないのにも関わらずである。レイチェルが自発的にカウンセリングを受ける、というのも「レイチェルがどういう奴なのか明示しておきたい」という動機が透けて見える如何にも唐突で投げやりな展開だが、担当精神科医のダニエルズ先生はレイチェルが語るテンプレートなサイコパスっぷり(と、スタークマン教授に対する崇拝)にブルってしまい、旧知の仲であるスタークマン教授に電話を入れた。

「守秘義務があるから名前は言えないが、君の学生にヤバいのがいるぞ!」と親切にも警告してくれるダニエルズ先生だったが、何故かスタークマン教授は自分に首ったけになっているカサンドラのことと誤解してしまう。ああダニエルズ先生、どのみちスタークマン教授にお電話した時点で守秘義務違反なのだから、なぜイニシャル程度でも名前を出さなかったのか。このダニエルズ先生の不可解にも思える保身が、ちっとも笑えないすれ違いコントへと繋がっていく。

 ちなみに、これは最早お約束とも言える展開だが、ダニエルズ先生の電話はレイチェルに盗み聞きされており、 これでダニエルズ先生は無事(?)レイチェルの警戒リスト入りを果たしてしまうのだった。

 次にレイチェルの毒牙にかけられたのはカサンドラ。レイチェルが崇拝するスタークマン教授と寝ているのは、どう考えてもまずかった。加えて教授の助手に内定したことを親友のつもりのレイチェルに嬉々として語ってしまった彼女は、学部のパーティから連れ出され首吊りに見せかけられてキュウ。レイチェルは天井からぶら下がる彼女の胸に「彼の愛が足りなかった」と書いて偽造した遺書を貼り付けておくのも忘れない。

 ここで何故かレイチェルは再びダニエルズ先生の元を訪れ、最早お馴染みのイライラさせる独り語りを一方的にぶつけた後、勝手にカウンセリングを打ち切ってしまう。ああ、不憫なダニエルズ先生。このシーンはダニエルズ先生というキャラクターがどのような存在なのかをレイチェルの口を借りて語らせる(曰く「的確な分析よ」!)以上の意味を持たず、繋がりも唐突かつ不器用な印象を覚える。まあ、ぶっちゃけ本作はそういうシーンばかりなのだが……。

 最後に毒牙にかけられたのはキース、ここまでくると犯行は大胆そのもの。大学図書館で自習する彼を後ろからアイスピックで一突き。 そんな静かで衆目のあるところで殺ったら流石にバレるだろ、と突っ込みたくなるが、それは野暮ってえもんだ。

 一方、ここまで来てやっとカサンドラの欠席に気が付いたスタークマン教授は、寮の部屋を訪れて天井からぶら下がる彼女とご対面。焦りまくった教授は自分の学生と寝ていた証拠を隠滅し、ダニエルズ先生に怒りのお電話を掛ける。

 教授は勿論ダニエルズ先生が警告したのはカサンドラのことだと思い込んでいるので、まともな精神分析をしなかったとダニエルズ先生を一方的に叱責し、ダニエルズ先生が二の句を継ぐ暇もないまま精神安定剤の処方を頼んで電話を切ってしまう。

 その翌日は春休み前の最終日、つまりレイチェルが待ちに待った来年度の教務助手の発表日である。レイチェルは無論自分が選ばれるものと思い込んでいるが、傷心のスタークマン教授は長期休養を取ってしまい、当然教務助手は採用なし。鑑賞者はそらそうだろうと誰もが思うが、頭のネジが緩んでいるレイチェルには通用しない。教授の許へ押しかけて色仕掛けを試みるが、浅はかにもカサンドラの服やネックレスを身に着けていたために失敗してしまう。

 捨て鉢になったレイチェルは自身がベイトマン事件の生き残りであることを告げ、犠牲になったベビーシッターのクララが教授のかつての愛人だったことを問い詰める。精神安定剤とウィスキーでフラフラになった教授は更に衝撃を受け、そのまま窓から転落してしまうのだが……この「クララが教授の愛人だった」という事実は、特に前振りらしい前振りもなく、ここにきていきなり語られるため、鑑賞者のほうも面食らってしまう。これだけ全編を通じて、主人公が自身の動機や正当化の理屈に関してベラベラベラベラ腹立たしいお喋りを続けて来たのにも関わらず、である。

 曰く、FBI時代のスタークマンが愛人のクララにベイトマン事件の資料を見せてしまったことで、クララがベイトマンに一目惚れしてしまい、男を乗り換えるためにわざとベイトマンの毒牙にかかりに行ったというのだが……ぶっちゃけ、そんなものは自業自得としか思えない。

 天下のFBIが容疑者リストに載せているのだから、ベイトマンが危険な男である可能性の高いことくらい当然理解が及びそうなものである。ましてや彼女は12歳になる少女のレイチェルを連れてベイトマンと会っているのだ。いくら何でも常軌を逸している。常軌を逸した行動をさも意外な真実のように語られたところで、鑑賞者は憮然とするより他にない。

 百歩譲って、クララの死に責任を感じたスタークマンがFBIを辞して教員になることまではまだ理解が及ぶが、それを今更になって事件の生き残りを名乗る妄想狂の女学生にベラベラ捲し立てられたところで、そこまで衝撃を受けるものだろうか?

 ベイトマンが背中を刺されて死んでいる以上、現場には最低でももうひとり人物がいたことくらい分かるだろうし、その可能性をスタークマンが見逃していたとも思えない。それにレイチェルは部屋を抜け出てくるところを近隣の住民に目撃されている。普通の捜査機関はその辺りを真っ先に洗うだろうし、クララが当日ベビーシッターをしていたのならレイチェルにも捜査の手は及ぶはずだ。レイチェル本人は事件に関して「黙っていた」と言っているが、本人よりも状況証拠のほうがずっと雄弁である。

 つまり、ことの発端となるベイトマン事件があまりにもご都合主義的なのだ。捜査機関が信じられないまでの無能さを持っていない限りこういう展開にはならないはずで、いくらフィクションとは言え、全くあり得そうもない仮定の上で話を進められるとチープさばかりが際立ち、鑑賞者はうんざりしてしまう。

 それに、レイチェルの目的はスタークマン教授に気に入られて教務助手の座を手に入れることではなかったのか?ただFBIへ入局したいだけなら、他になんぼでも方法があろう。スタークマン教授の在籍する大学に入ったのは、教授へ何らかのこだわりがあったからだと見るのが普通だ。実際レイチェルはここまでスタークマン教授への愛情をくだくだしく語ってきていたのだし、教授が休職してしまったら用済みとばかりに始末してしまう展開では、プロットが腸捻転を起こしている。

 一部始終を目撃していた用務員もついでにバラしたレイチェルは、教授の亡骸を車に乗せて寮に帰ろうとするのだが、運転が荒いばかりに途中で警備員にも見咎められてしまう。当然この不幸な警備員もバラされるわけだが、もうここまで来ると無差別殺人である。レイチェル本人はことある毎に用意周到に計画(殺人)を実行して目的に近付いていくという姿勢を自慢するが、実態とは全く合致していない。用務員の亡骸に至っては、無造作にゴミ箱に捨てているだけである。凶行が露呈しない方がおかしいのだ。ご都合主義であるなあ。

 一方、スタークマン教授と連絡が取れないダニエルズ先生の下に、またもレイチェルから予約の電話がかかってくる。自分からカウンセリングを打ち切っておいて、何故今更……と思うが、これはすれ違いコントの前振りなのであまり深く考えてはいけない。スタークマン教授からの連絡でレイチェルが死んだものと思っていたダニエルズ先生は再び教授に電話を掛けるが、当然留守電に繋がるだけだった。 

 さて、一通り暴れまわって高飛びの準備を始めているレイチェルの許には田舎から両親がやって来る。母親の誕生日を祝うためだ。両親はレイチェルの部屋に入るなり臭いと言い出すが、レイチェルはトイレが詰まっただのなんだのと言い逃れる。ここまで来てしまえば鑑賞者にはもう臭いの正体は自明なのだが、本作はまだまだ展開をもたせる。こんなにご都合主義に塗れているのに、更に尺稼ぎまで行う姿勢にはもう脱帽だ。

 そのレイチェルが両親のために予約した店と、ダニエルズ先生が母親のために予約した店がたまたま同じだったのが運の尽き。二人は再び顔を合わせてしまった。ギクシャクするダニエルズ先生を尻目に、レイチェルはそれとなく彼の母親を盾にとって牽制するが、ダニエルズ先生もダニエルズ先生で、レイチェルを呼び出して「君は首を吊って死んだはずだ」などとぶち上げる。見るからに生きている相手に、死んだはずだもクソもへったくれもあるものか。しょうもないすれ違いコントの応酬に、鑑賞者は欠伸を嚙み殺す……。

 やっとスタークマン教授のオフィスを訪れたダニエルズ先生は、荒れた室内を見て事件の匂いを嗅ぎ取り、その足で保安官事務所へ駆け込む。教授の捜索願を出そうとしたダニエルズ先生だったが、保安官からこの1年で教授を含めて3人も失踪者が出ていることを聞かされる。ひとりは事務員のおばちゃん、もうひとりはレイチェル・ニューマンその人だった。

 つまり、こういうことなのだ(鑑賞者の大半はもう気が付いているだろうが……)。レイチェル・ニューマンは孤児であったために、我らが主人公に狙われた。入学早々に「キュウ」されて入れ替わられてしまったのである。

 当然友人達から捜索願が出されたが、無能な保安官は部屋を訪れた際に出てきた我らが主人公に「君がレイチェル・ニューマン?」と尋ねたために、ことを察した我らが主人公にまんまと騙されてしまったのだ。なるほど、この世界の捜査機関は無能であるなあ。それにしたって、顔写真くらい確かめたりしないのか。

 我らが主人公の部屋が臭うのも当然のことで、彼女は本物のレイチェル・ニューマンの亡骸とずっと同居していたのだ。ということは、おそらく我らが主人公は大学に合格すらしていない。在籍者の数が合わなくなるからだ。なんだよ、高校時代の成績オールAだったんじゃないのかよ。

 スタークマン教授の亡骸とレイチェルの亡骸、大量のガソリンとレンガ1片を車に積んだ我らが主人公は教授の別荘へと向かうが、その途中で保安官達とダニエルズ先生の乗ったパトカーに発見されて追跡される。

 もっ……さりとしたカーチェイスが展開された後、一旦追跡を振り切った我らが主人公は川縁のガードレールに教授の亡骸を放置し、それを見つけたダニエルズ先生もろとも轢き殺さんばかりの勢いで車ごと衝突。車はガードレールを突き破り、川へと転落して爆発炎上するのだった。

 2年後、クワンティコのFBIアカデミーでレイチェル事件について講演するダニエルズ先生だったが、聴衆の中に我らが主人公を見つけて色を失くす。彼女は再び正体を偽り、エリザベス(スタークマン教授の最後の教務助手)と名乗ってぬけぬけとクワンティコへやってきていたのだった……。

 レンガを車に積み込んだ時点で全て想像がついてしまう、あまりにも捻りのないオチだが、そういう面白さを本作に求めるのがそもそも間違いなのだろう。「死体の数が合わないし、よしんば本物のレイチェルの亡骸と間違えたとしても、本物のほうはグズグズに腐ってたんだから、健康体だった偽物が死んでないことはすぐ分かるだろ」などと言ってはいけない。大体、本作は一事が万事こんな調子で、よく考えてみなくとも全てが明示的に破綻しているのだ。前作で破綻していたのは主人公の精神だったが、本作で破綻しているのは脚本のほうだ。突っ込むだけ無駄である。

 もっと言ってしまうと、実は本作は元々『アメリカン・サイコ』とは何ら関係のない企画であったらしい。制作途中でいきなり『アメリカン・サイコ』の続編として発表することになり、脚本が大幅に書き換えられたのだ。なるほど、道理で底が破れているわけである。逐一触れると長くなるので書かなかったが、本作には「そこそこの存在感を醸し出しておきながら、ストーリーにはほぼ絡まない」というチェーホフの銃的観点で見れば完全に赤点の脇役なども複数存在している。その存在も制作上のゴタゴタが絡んでいたとすれば納得だ。溜飲は全く下がらないが。

 前作の原作者であるブレット・E・エリスもタイトルを貸しただけで、本作にはノータッチだったという。彼は後に本作を批判しているが、この出来を考えれば当然というものだろう。何なら主演を務めたミラ・クニス本人も、本作をキャリア上の汚点と考えているそうである。

 本作は典型的な「生まれてはいけなかった続編」である。そもそもミステリとして見れば少々アンフェアな仕上がりである前作に、続編を作ること自体が不可能だと言わざるを得ない。往々にして、アンフェアな作品はストーリーの仕掛けそのものが命である。続編を観るにあたって当然仕掛けが分かっている鑑賞者達を、それでも納得させる力に満ちたストーリーを作るというのは、並大抵のことではないのだ。

 その不可能に無謀にも斬り込んだ本作は、なんとというかやっぱりというか、無事に爆発炎上した。志の低い作り手達が、おざなりな仕事をしているのだから当然だ。英雄的とは到底呼べない蛮勇の末に生まれてきたのが本作だったわけで、本邦でビデオスルーになってしまったのもむべなるかな。残念でしたなあ。

2025年2月24日月曜日

ゲーム機の中のゾウ

 以前にも雑文で軽く触れたことがあるが、私はTVゲームが原則禁止のご家庭に育った。家中を引っ搔き回しても、ゲームらしいゲームはキーリング付きの小さなゲーム機で遊ぶテトリスくらいしかなかったのだ。

 ある日のこと、一体何の気まぐれだったのか今となっては定かではないが、酔って帰宅した父がニンテンドー64を私達に買い与えたことにより、TVゲームの禁は破られた。「ゲームは1日30分」を金科玉条として。

 ここで当時のゲームの造りをご記憶の諸兄は少し思い出してみて欲しいのだが、かつてのTVゲームは今ほど簡単にポンポン中座出来るものではなかった。

 そもそもファミコン時代初期にはセーブという概念が存在せず、スーファミ時代に花開いたバッテリーバックアップはセーブデータがびっくりするほど簡単に消えた。やがてソニーがゲーム機本体に差し込むメモリーカードを採用しても、任天堂(と、セガ)はコントローラーにアタッチメントとして差し込む外部記憶装置を採用し、その結果、基本的にゲーム機の扱いが粗い全国のガキ共は、またしてもセーブデータの消失に泣かされることになったのである。特にアトラスとコナミのゲームソフトのデータはよく消えた。幼心にコントローラパックが悪いのかと思い、少ない小遣いを叩いて買い替えた新古品のコントローラパックにセーブした『がんばれゴエモン ネオ桃山幕府のおどり』のセーブデータも2日後に消えた。

 加えて、当時のゲームはカセットやROMの記憶容量の制約もあったのか、セーブポイントが限られていた。 まさかこの雑文を読む諸兄らがセーブポイントという概念を知らないほどピチピチであるとは思えないが、一応説明しておくと、かつてのゲームは基本的に限られたマップや特定の進行状況でなければセーブが行えない仕組みだったのだ。だから昨今のまともなゲームではもう珍しくもない、クイックセーブ機能を初めて目にした時はかなり驚いた記憶がある。驚いたし、同時に信用出来なかった。私は未だにクイックセーブ機能にうっすら不信感がある。

 私の鮫のような猜疑心に塗れた性根はさておき、特定の条件下でないとセーブが出来ない、という造りでは、必然的にゲームの最少プレイ時間がある程度の長さになってしまう。

 かつて高橋名人(そういうプロゲーマーがいたのだ)は「ゲームは1日1時間」と発言し、所属していたハドソン(そういうゲーム会社があったのだ)で役員会議が開かれるほどの物議を醸したが、我が家ではその半分の「ゲームは1日30分」だったのだからこれはたまったものではない。

 思うに当時のゲームは、高橋名人の例の発言を基にしたのか、1時間程度のプレイ毎にセーブが出来るような造りになっていた節がある。我が家の30分という時間制限が一体何の根拠があって設定されたものか私は今でも知らないが、それはおそらくゲームというものを知らない人間が決めた身勝手な線引きだったということはここで断言しておきたい。

 私など根が臆病なので、例え両親が不在でも時計をチラチラと見ながらゲームをプレイし、20分を過ぎた頃からはもう尻が落ち着かず、思わずTVの前で正座してしまうほどだった。しかし私がどんなに正座で誠意を見せたところで、ゲームを中座出来るポイントまで到達出来ないのだから仕方ない。タイムリミットが迫ればストレスから凡ミスも増え、それでまたセーブポイントが遠ざかる。全く悪循環である。

 私が何に怯えていたのかというと、端的に言ってしまえば両親の癇癪であった。父は自らが買ってきたもののくせにニンテンドー64を雪の降る屋外に放り投げたし、母は電源が入ったままのニンテンドー64のコンセントプラグを引っこ抜き、勢いもそのままに本体は勿論全ての周辺機器をゴミ袋に詰めたことがある。私ことやっと物心がついたかどうかの年頃のガキと、兄こと幾分年長のガキが宥めたりすかしたりして丁寧に扱っていたゲーム機を、彼らはまるで路傍の石のように扱った。そのためにまたセーブデータは消えた。

 そのようなご家庭で育ったわけであるから、私はゲームというものが全般に下手だった。習熟の機会と十分な練習時間に恵まれないのだから当然だ。また、これは流石に話が脇道へ逸れ過ぎるために仔細を書くことは控えるが、実は我が家は友達を呼ぶことも全面禁止であり、友達の家へ遊びに行ったり、友達とどこかへ出かけたりすることも許可制(無論、許可は滅多に下りない)という、ちょっとした閉鎖病棟のような家だったのである。

 勿論全てが育ちのせいであるとまでは言わないが、私がそのために学校で孤立したのは動かしがたい事実だ。小学校6年間で、友達の家へ遊びに行ったという記憶は両手で足りる程度しかない。況や我が家へ友達を呼んだ記憶など、片手で数えても指が余るほどだ。また、通っていた学童保育に、同学年で同性の子供がひとりしかいなかったのも不運だった。その子も2年後には学童保育をやめてしまい、私はギャングエイジを迎えてもギャングになれなかったのである。

 ここまで根気強く読んできた諸兄らは、あまりに前時代的な話の応酬に私の年頃を訝しむかもしれない。別段隠すことでもないし、ゲーム機の話から分かる人には分かるだろうが、これでもデジタルネイティブと呼ばれる世代の古株の方である。私は別に若くもないが、それほど年老いてもいないのだ、実際。

 こうして孤独を募らせた私と違い、兄には広めの交友関係があった。同じ閉鎖病棟で育っておきながら何故こんなにも違うのかと思うが、彼にはギャングエイジの頃にしっかりギャングになれた幸運があったからだろう。兄も私と同じ学童保育へ通っていたが、兄の世代は特に頭数が多かったのである。必然的に交友関係は広くなる。

 今思えば不思議な話だが、私は友達と遊ぶことが厳しく制限されていたのに対して、兄へのそれは幾分か緩かった。年齢的な都合もあるのかもしれない。兄は窮屈な我が家にいることより友達の家で思う存分ゲームを遊ぶことを選び、私は家庭内においても、ゲームに親しむきっかけを落っことしてしまったのである。

 当然、兄は私よりもゲームというものに習熟し、私はと言えば、兄と対戦すれば勿論負け、自分ひとりでプレイしたところでうまくいかないので、必然的に兄がプレイしているのを眺めることが多くなった。兄に付き従って兄の友人達と共に遊ぶ機会に恵まれても、彼らのゲームプレイを眺めることを自ずから選んでいたのだから泣けてくる。

 

 私の人生にゲームに親しめる素地というものが存在しなかったことは、これで十分証明できたのではないかと思う。私とゲームの距離がある程度縮まったのは、私がひとり暮らしを始める年頃になってからだ。

 誰しも初めてのひとり暮らしには妙な高揚感があるもので、それは勿論私とて例外ではなく、気が付くと私はアパートから3駅行った町で中古のゲームソフトを買っていた。

 私はふわふわとした頭のままアパートに帰り、ゲームをインストールして、そして現実に引き戻された。ゲームがあまりにも難しいのである。

 ゲーム機は私がTVの前で正座していた頃から世代を重ね、現実と見紛うばかりのグラフィック、親切なチュートリアル、爽快なゲームプレイを保証してくれるものになっていた。少なくとも、私はそう思っていた。

 しかし、実際目の前で動作する超メジャータイトルは、私にはあまりにも難しすぎた。敵の攻撃が避けられない。自分の攻撃が入らない。親切なチュートリアルであるはずのミッションで2回ゲームオーバー画面を見ることになるとは、流石に私も予期していなかった。難易度設定は既にVERY EASYである。

 万人にとって難しいレベルのものなら、ここまでスマッシュヒットはしなかったはずである。ここから導かれる結論はひとつ。つまり、私のゲーム偏差値が低すぎるのだ。

 私は唖然とした。いつの頃からか、閉鎖病棟のような家で育った事実を言い訳にして、ゲームという娯楽にも、またそこから生まれる交友の輪を広げることにも見切りをつけていたことを今更のように思い知った。

 文明社会には、万事において「最低これくらいは出来なければならない」というラインが確実に横たわっている。 そのための義務教育であり、そのための労働の義務であるわけだが、そのボーダーは娯楽であるはずのゲームにも横たわっていた。

 ゲームが上手いか下手かなど、幸いにも生きていく上では大した差ではないし、見た目からは判断がつかない。私が人前でゲームを遊ばない限り、露見することはないのである。しかし一度「自分には欠けているものがある」と自覚してしまうと、世界から白眼視されているような気になるのもまた人間の性だ。

 私は焦りに似た感情を覚えた。本来であれば学業や就職活動に覚えるべき焦りがこんなところでやって来るあたりが私のダメ人間っぷりを端的に表している気もするが、実際焦ってしまったのだから仕方ない。

 私は少し生活に余裕が出来ると中古のゲームソフトを買う生活を始めた。いくつかのメジャー級タイトルをプレイしたが、あまり自分の技量が上達したという実感はなかった。そもそも昨今のメジャー級タイトルは「クリアしてストーリーラインを追ってもらう」ことが目的になっていて、ゲームとしての難易度はあまりシビアに作られていない気がする。それでもゲームオーバーになる私のような輩がいるので、そういう方面への進化は当然と言えば当然なのだが……。

 その後紆余曲折あって実家に出戻り、無職になった頃から、高校時代の友人達とゲームで遊ぶことが多くなった。私自身はそれなりに研鑽を積んだつもりだったし、その頃にはぼちぼち自信もあったのだが、それは再び打ち砕かれることになる。それほどプレイ時間の変わらないはずの友人達の方が、どう考えても私より立ち回りが上手いのだ。

 人には向き不向きがある。それはゲームのジャンルにおいても、そもそもゲームという娯楽自体に関してもそうだろう。 私はそう自分自身に必死に言い訳したが、それでは私に向いているゲームとは一体何なのだ。

 

 有難迷惑にも、インターネット上には軟派な性格診断から派生した「ゲームジャンルピッカー」とでも言うべきサービスが掃いて捨てるほど転がっている。この雑文を書くにあたっていくつかやってみたが、それらのサービス曰く、私にはRTSやアクションゲームの類が向いているらしい。

 RTSというと『Hearts of Iron 4』をプレイしたことがあるが、 これは散々だった。そもそもゲームシステムが複雑すぎて覚えきれず、RTSの華であるはずの戦争がひとたび始まると、前線が拡がり過ぎてあっという間に領土が溶けていくのである。ならば平和外交でうまく立ち回ってやろうと第三帝国を民主化しようとすると、ファシストの豚共と泥沼の内戦に突入してしまい参った。やっとのことでドイツ全土からナチズムというガンを駆逐し、ドイツ主導による平和的な東欧共栄圏を築き上げようとすると、トチ狂った英仏同盟がドイツ憎しのあまり平和憲法を持つ民主主義国に攻め入ってくるのである。とてもじゃないがやっていられない。

 アクションゲームに関しては、ここまで来ればもう改めて書くまでもなく、大の苦手である。どのくらい苦手かというと、颯爽とスタートしたマリオが1-1のクリボーにやられるレベルだ。なおこの時横にいた友人にぶつけられた「ファミコン初めて触るおばあちゃんでも、わざわざクリボーで死にに行ったりはしない」という言葉は、おそらく私の人生において最も切れ味の鋭い悪口であった。

 インターネット上に転がる軟派な性格診断というものがどれほど当てにならない代物なのかが白日の下に晒されてしまったわけだが、実際のところ、私が今遊んでいるゲームはほぼシミュレーションゲームばかりである。一方でシミュレーションゲームの超メジャータイトルである『Cities: Skylines』は買ったはいいが積みっぱなしであるし、これもまた超メジャー級の遊園地設計シム『Planet Coaster』などは、そもそも興味がない。

 私が今やっているのは、ひたすら自動車を整備するゲームだけである。国境警備をするゲームも大変面白く遊んだが、ある時アップデートでスコアを競うリーダーボードが実装されたために、心が離れてしまった。シミュレーションゲームを遊ぶのに、他人とスコアを競いたい者などいるのだろうか。もしいるとすれば、それこそシミュレーションゲームに向かない人なのではないか。

 他にメジャーどころのタイトルで言うと、パワプロ2024も発売初週に買って遊んでいる。これがまたバグ塗れの酷い代物で、発売から半年以上経った現在でもちょっとおかしな挙動が残っている。尤も私は基本的にマイライフしか遊ばないので(以前までは栄冠ナインも遊んでいたが、今作では仕様変更の犠牲になってゲームバランスが一際おかしくなり、アップデートを重ねた現在でも前作の完成度には遠く及ばないので遊ばなくなってしまった)、あまり気にならない。特に何の目的もなくバットを振ったり球を投げたりしているので、気が付けば球史に残る偉大な選手が爆誕してしまう。

 これらのゲームに共通するのは、「自分で考えなくてもよい」という点だ。ゲームの仕様やルールに従い、ただ上から下へチェックリストを辿っていく。AをBの箱に入れる。CにDという処理を行う。それだけでゲームが進んでいく。これがとても楽しい。

 しかしその一方で、これらのゲームを退屈だと思う気持ちも僅かながらある。シミュレーションゲームというのは多かれ少なかれこのような造りになっているので、目新しさがないというのもあるのかもしれない。少なくともスリルはない。尤もシミュレーションゲームにスリルなどあってはならないのだが。

 あまり一般的とは言えない育ちのせいで、私はゲームと親しめなかった。基礎、素地となる部分がないので、いくら練習してもなかなか上手くならない。他のユーザーと対戦すれば力量の差が露骨に表れ、私の卑屈な劣等感が刺戟される。この世にゲームは星の数ほどあり、一方で私の時間は有限だ。つらい反復練習を行うより、まだ見たことのないものを見たい触れたいと思うのは自然な欲求だろう。所詮ゲームは娯楽なのだから。

 そんな私に残されているのが、チェックリストを辿るだけのシミュレーションゲームである。新奇性こそないが、長く嚙み続けられる。娯楽としては大味だが、長く遊べるのは間違いなく長所だ。創作においても設定を詰めたがる私にとって、ルーチンワークに彩りを添えるバックボーンやディテールの妄想など朝飯前である。却ってゲームそのものが粗削りであるほうが、私の妄想が詰められる余白が広くなっていい。なんGでどんな蔑称をつけられるか妄想しながら遊ぶマイライフもオツなもんである。

 私がシミュレーションゲームを遊ぶのは、とどのつまり他に出来るゲームがないからだ。本音を言えば、シミュレーションゲーム以外のゲームも遊んでみたい。メジャータイトルはやはり面白そうに思えるし、インディー系のシミュレーションゲームは正直どれも同工異曲になりがちであり、そのフィーリングも似たり寄ったりだ。

 だがそれは結局のところ、私の身の丈に合わない願望である。クリボーで死んでしまうような、実は遊ぶより見ている方が楽しいプレイヤーを真に満足させられるゲームは、今後も出現することはないのだろう。全てのゲーム開発者はひとりの例外もなくゲームプレイヤーであり、当然ゲームは遊ぶ方が楽しいと思っているからだ。

  ゲームは遊ぶためにある。こう書いてしまえば当然に思えるが、それは即ち、私のような育ちの人間が取り残されるという事実の追認に過ぎない。

 

 "やらずにすむゲームはないか?"

 これは吉田戦車の4コマ漫画『はまり道』の、あまりにも有名な一節である。一度でもゲームを能動的に遊んだ経験のある人間ならいずれ到達する境地、遅かれ早かれゲームを遊ぶのが億劫になる瞬間というのはやって来る……と、プレイヤー自身の老いを嘆く文脈で引用されることが多い。

 しかし私のようなゲーム下手の人間から見ると、この言葉は少し違った意味を持つように思える。ゲームは遊びたい。しかし私自身の絶望的な技量のために、大抵のゲームは開発者が意図していなかったほどの難易度で私の前に立ちはだかることになる。

 私のように負け犬根性が染みついていると、壁は越えるものではなく迂回するものだという考えが支配的であり、所詮娯楽であるはずのゲームで敢えて刻苦する理由を見出せない。

 その一方で、私自身も創作者の端くれであるために、ある程度開発者の意図に沿って遊ばなければ不義理であるように感じるというか、開発者が越えるべき壁として用意したものをどうにか迂回しようとする行いは、丁寧に舗装された道を外れて花畑を踏み荒らすような露悪的な行為に思えてしまい、結果として絶望的な技量と創作者としての人倫との間で板挟みになってしまう。

 その点、やらずに済むゲームなら確かに安心だ。敢えて刻苦する必要も劣等感を刺戟されることも、自身の良心が悲鳴を上げることもない。真に快適なゲームプレイが約束される。尤もプレイはしないのだが。

 もしかすると、開発者もやらずに済むゲームを求めるようになって初めて、私と同じ視点に立つことが出来るのではないだろうか。文字通りやらずに済むゲームの形はまずあり得ない。しかし遊ぶ上で不快な思いをすることのないゲームはあり得るかもしれない。それこそが「やらずに済むゲーム」の実態であり、私が求め続けているものである。

 世のゲーム開発者達が存在すら知覚していない象限にも、ゲームが好きな者は蠢いている。彼らがその象限に住まう者達を今まで取り残して来た事実に自覚的である必要はない。その象限の存在を知覚してもらえれば済む話である。面白いゲームを面白く遊びたいとは言わない。私が面白く遊べるゲームが1本でも多くこの世にあってほしい、という願いがあるだけだ。

2024年4月11日木曜日

『ハロウィン』(2007年)・『ウィッカーマン』(1973年)評

『ハロウィン』(2007年-MGM/ディメンション・フィルムズ)

得点…45/100

 

(画像の出典:『Halloween (2007) - IMDb』

 まずお断りしておきたいのだが、オリジナル版『ハロウィン』(1978年-コンパス・インターナショナル・ピクチャーズ)は、『悪魔のいけにえ』(1974年-ブライアンストン・ピクチャーズ)が先鞭をつけた「奇怪な殺人鬼が暴れまくる大量殺人映画」というジャンルに、「殺人鬼の方から犠牲者を付け狙い追いかけてくる」という発想をプラスして今日的なスラッシャー・ムービーの素地を作った、という点で記念碑的な作品であり、公開から45年以上が経った今なお傑作の呼び声高く、本国ではアメリカ国立フィルム登録簿に記載されるレベルの映画史に残る作品である。

 ジョン・カーペンターの意図的にスプラッタ描写を抑えた堅実な演出、デブラ・ヒルの多くを語らぬ脚本、監督自身の手による印象的な劇伴。そのいずれが欠けても、この完成度には到達しなかったであろう。若き日のショーン・S・カニンガムがこれを観て「俺ならもっと面白い映画が撮れる」と息巻き、のちにスラッシャーの一大フランチャイズとなる『13日の金曜日』(1980年-パラマウント映画)を撮ったのは有名な話である。

 かように、オリジナル版はカーペンター御大にとっても奇跡的な映画だったのだ。そんな作品だからこそ、生半可な心構えではリメイクなど出来るはずもないのだが……何をどうやったのか、マサチューセッツから来たボンクラ、ロブ・ゾンビがメガホンを執ってリメイクが製作されてしまった。

 確かに当時の『ハロウィン』フランチャイズはショック描写のネタも頭打ち、(3を除く)どの映画を観たところでマイケル君が出てきてはうろうろするばかりの低調さで、行き詰まっていた感は正直否めない。カーペンター御大も、自身のキャリアを決定付けたこのフランチャイズの凋落を見るに堪えなかったのかもしれない。しかしいざ出来上がってきたこのリメイクは、オリジナル版が重視した全てをうっちゃった、テケレッツのパァであった。

 

 おでぶの小学生、マイケル・マイヤーズ君はいじめられっ子。家庭も絶賛崩壊中で、継父は無職のロクデナシ、姉ちゃんはクソビッチ。頼みの綱の優しい母ちゃんも、如何せん職業がストリッパーなのでそれが学校でいじめのネタになってしまう。マイケル君の数少ない心の拠り所と言えば、まだ物心もつかない赤ん坊の妹の存在と、小動物を切り刻むことだけだった。

 ある日、いじめに耐えかねてついにプッツン来たマイケル君は、学校帰りのいじめっ子を追いかけて撲殺。ええいままよとばかりに継父と姉ちゃんと、ついでに姉ちゃんのボーイフレンドを手にかける。精神病院に収容されたマイケル君に、精神科医のルーミス医師がカウンセリングを試みるが、マイケル君が発作的に看護師をフォークでめった刺しにして何もかもがおじゃんに。そのことを聞かされて悲観した母ちゃんは赤ん坊の妹を残して拳銃自殺……と、ここまでは実録犯罪物を観ているような、言ってしまえば判で押したストーリーである。ここまでの描写は非常に不愉快で、オリジナルと比べて過剰にグロテスクで、そして何より退屈でつまらない。

 実在の大量殺人者は崩壊家庭に育った者が少なくなく、ちょっと思い出すだけでも「ボストン絞殺魔」ことアルバート・デサルヴォ、「キラー・クラウン」ことジョン・ウェイン・ゲイシー、「サムの息子」ことデヴィット・バーコウィッツ、ホラー映画好きにはお馴染みのエド・ゲインもその内のひとりである。つまり本作は「マイケル君が如何にして殺人を犯すようになったのか」ということを、なんと上映時間の前半全てを使って長々と説明してみせたのだ。

 これははっきり言って改悪以外の何物でもない。オリジナル版のマイケル君は如何にも中流階級らしいご家庭に育った豊頬の美少年で、最初の犠牲者となる姉も、少し奔放ではあるものの年齢相応と言ってよい程度の素行に過ぎない。少なくとも本作のおでぶちんボーイや、穴兄弟が山ほどいそうな尻軽女ではないのだ。当然オリジナル・マイケル君はそれなりに愛情を注がれていたのだろうし、ことの発端まで問題行動らしい問題行動を起こしていた素振りすらない。そういう平和なご家庭がある日突然、理由もはっきりとしないまま崩壊することにまず第一の恐怖があった。

 比べて本作のご家庭の崩壊っぷりといったらどうだろう。確かに、殺人者のバックボーンとしてはリアルである。しかしこれだけくだくだしくやられてしまうと、あまりにも説明臭くはないだろうか。私には「こういう理由があるから人殺しになったって仕方ないんだ」という居直りのように思われた。

 しかし、どんなに自己弁護がましく長広舌を振るわれたところで、少なくとも近代国家において人殺しになっていい理由などある訳がないのだから、実際には言い訳にすらなっていない。オリジナル版が製作された70年代ならともかく、これだけスラッシャー映画が膾炙した今日においては、そんなピントのズレた説明よりも割くべき尺があると思うのだが。

 さて時は流れて17年後のハロウィンにマイケル君は晴れて精神病院を脱走し、つなぎにゴムマスクの"ブギーマン"ルックで手当たり次第に殺しまくる。ここまで来ればもういつもの『ハロウィン』なのだが……その演出も正直褒められる出来ではない。一番の問題は、安定したカメラアングルが殆ど存在せず、画面がほぼいつでもガクガク手ブレしっぱなしであることだ。

 普通の映画人ならそんなシーンは手持ち撮影はしないだろ、と突っ込みたくなるようなシーンも全てガクガク手ブレ。ロングショットもクローズアップもガクガク手ブレ。気を抜くと画面酔いしてしまいそうで、まるで映研映画を観ているようだ。

 加えて緊迫したシーンではそれぞれが数秒にも満たない細切れのカットが多用されており、目まぐるしく移り変わる画面に何が映っているのか追いかけるのが精いっぱいである。いや、時折それすら怪しい。あるシーンなど、ガクガク手ブレとぶつ切りカットの相乗効果によって、登場人物が前進しているのか後退しているのかすら分からなかった。それってよっぽどだぞ。

 脚本に目をやると、これもまた色々と細かい詰めの甘さが目立つ。

 まず、本作のマイケル君はかなり喋るのだ。ペラペラ喋りまくる。自身の凶行に関する記憶が抜け落ちている他は何だって喋る。ルーミス医師ともぼちぼちコミュニケーションが成立している。にも拘わらず、看護師を刺殺して17年の年月が経つと、マイケル君は唸り声を上げる程度で全く喋らない、ジェイソン君のような大男に変貌しているのだ。どうしてそうなったのか、説明らしい説明はない。マイケル君の殺人衝動に理由をこじつける一方で、おでぶちんボーイ・マイケル君がパブリック・イメージ上のマイケル君に変貌する理由の説明はうっちゃられている。その不均衡がどうにも気持ち悪い。多くを語らぬのと、説明不足なのとは違うのだよ。

 また、ルーミス医師はルーミス医師で、にこやかにおでぶちんボーイ・マイケル君とカウンセリングをしていたのにも関わらず、看護師を刺殺して17年経ったほうのマイケル君に対しては悪魔だの災厄だのと悪辣に罵倒する。つまりここではパブリック・イメージ上のルーミス医師のキャラクターに寄せている訳だが、ここの繋がりもあまり丁寧に説明されておらず、前半部分と乖離しているように思えてしまう。

 画作りの方にも触れておこう。

 ロブ・ゾンビ演出の特徴は、とにかく作家性に乏しいことにある。どこかで観たようなカットやアングルや演出のオンパレード。タチが悪いのは、それを狙ってやっている感があるところだ。おそらく監督を横に座らせて本作を観れば、1カットごとに何の映画から引用したかを嬉々として語ってくれるだろう。

 ただ、それが有名フランチャイズの仕切り直した新作に値するかと言えば、答えはNOである。ロブ・ゾンビの映画は、まるで完璧なコピーバンドによって完璧にコピーされた曲を聴いているようなもので、オリジナル曲の新規性は望むべくもない。

 作家性が乏しいことが悪いのではない。オマージュが目的になっていることが悪いのである。どこかで観たようなシーンを寄せ集めて繋ぎ合わせる一方、過剰にグロテスクに仕立てることで逆に無二の作家性を獲得した、ルチオ・フルチのような監督もいるにはいるのだから。

 

 本作にはオリジナル版にあった全てがなくなり、オリジナル版になかった全てが足されている。それ故にサービス精神は旺盛で、オリジナル版ではほぼ出てこないおっぱいがふんだんに出る。しかし、それだけである。こんなものをリメイクですと言われて出されたのではたまったものではない。

 勿論、配給元のMGMはそんなこと理解していたし、『ハロウィン』フランチャイズのファンも理解していた。でも仕切り直しの新作だと宣伝したし、観に行った。その結果、本作は8000万ドル以上もの興行収入を記録してしまったのである。

 賢明なMGMは続編からは手を引いたが、気を良くしたもう一方の配給元、ディメンションは即座に続編の製作を決断。だがジュリアン・モーリーとアレクサンドル・バスティロの両名に監督オファーを蹴られてしまったために、ロブ・ゾンビが続投して『ハロウィンⅡ』(2009年-ディメンション・フィルムズ)が製作され、こちらは見事にこけた。2匹目の泥鰌はいなかったのだ。

 結果、ロブ・ゾンビは馬脚を現してすごすごとマサチューセッツへ帰っていったのである。その後も懲りずにどこかで見たようなタイトルのどこかで観たような映画を数本撮っているが、これらに関してはもう観る気も起きない。


 

『ウィッカーマン』(1973年-ケイブルホーグ)

得点…30/100

 


(画像の出典: 『The Wicker Man (1973) | HMV&BOOKS online : Online Shopping & Information Site - DABA-5147 [English Site]』

 2020年、本邦を熱病のように『ミッドサマー』旋風が襲った頃の話である。私はこの映画がどうしてこんなにウケるのか理解に苦しんでいた。この映画は、21世紀も20年やろうかという今日においては、あまりにも恐怖の題材が古臭いからである。

 これは簡単に言ってしまえば「クライスト的な主人公が、アンチクライスト的なものを恐怖する」という骨子の話であり、描き方如何によっては今日び重大な差別主義的モチーフを含むと批判されても致し方ない作りである。相手がフリーセックスラリパッパ殺人カルトだった(加えて基底にあるのはクライスト的なものだった)からいいようなものの、もしこれに特定の宗教を暗示するような描写がちらりとでも挟まっていればもう一発アウト、アンチクライストは全員人非人と思い込んでいるアメリカ以外ではビデオスルーになったに違いない。少なくとも、本邦では劇場公開はされなかったと思う。

 だからこそ、私はこれが敢えてタブーに踏み込んだ映画なのだと思っていたし、逆説的に「いつの時代も人間は差別を娯楽として消費出来るのだ」と警鐘を鳴らすことに狙いのひとつがあったのだろうなあと考えていた(と、訳知り顔でこんなことを書いてはいるが、私自身が一番この推測を信用していなかったのも事実である)。一応私の感想を述べておくが、出来の悪いブラックコメディを観ているような気分になったと言えば、それ以上の言葉は蛇足というものだろう。

 しかしこの度、この映画を鑑賞して私は知ったのである。なあんだ、パクリでしたあ。ちゃんとネタ元がありましたあ。

 それほどまでに、この2つの映画はプロットが酷似している。何なら主人公格の登場人物が焼き殺されるラストシーンまで同じである。『ミッドサマー』が本作の影響下にあることは疑いようがない。敢えて古臭い題材を選んだのではなく、古い映画をパクったから古臭くなってしまったのである。この事実に気付いた私は、こんな映画を絶賛したアメリカと、本邦のtwitterユーザーというヤツは心底アホだと思った。

 

 さて本作は、スコットランドはハイランド地方の離島に、本土から警官のハウイー巡査部長が颯爽と飛行艇で乗り付けるところから始まる。この私有地の島で、少女が失踪したと署に投書があったのだ。

 閉鎖的な島民達に辟易しながらも調査を進めるハウイーが目にしたのは、島の領主が現代に復活させたケルト的信仰であった。彼らは生まれ変わりを信じ、子供達にはヤコペッティのエセドキュメンタリーにでも出てきそうな性教育偏重の教育が施されている。大人達は夜な夜な墓場で運動会。宿屋の娘はすっぽんぽんでミュージカル、夜通し歌って隣室のハウイーの睡眠を妨害する。

 来る五月祭の準備に追われる島民達は雁首揃えて「少女は最近死んだばかりだ」と言い張り、領主はと言えば勝手に島の歴史を語りだす。曰く、先々代の統治時代に生贄の儀式を復活させてケルトに宗旨替えしたところ、島に豊作がもたらされたという。

 少女が五月祭で生贄として捧げられるのではないかと疑いを抱いたハウイーは一旦本土に帰って応援を呼ぼうとするが、お約束通り飛行艇はオシャカになっており、独力で少女の奪還を目指すことを余儀なくされる。

 宿の主を張っ倒して五月祭の衣装を奪い仮装したハウイーは祭りの行列に加わり、丘の上に立ったウィッカーマン像の下までやって来たところで、生贄として準備されていた少女を首尾よく奪還。少女の先導で逃げに逃げ、気が付けば海辺まで追い詰められていた。実際に儀式で捧げられる生贄はハウイーであり、少女は最初からハウイーを誘い込むための囮だったのである。

 なんやかんやでハウイーはウィッカーマン像の中に押し込められ、火を放たれる。死を悟り聖書の一篇を唱えるハウイーに対し、島民達は来年の豊作を祈って歌い踊り、五月祭はクライマックスを迎えるのだった。

 

 本作の一番大きな問題点は、演出がくだくだしく、脚本もテンポが悪いため、観ていてイライラすることである。上映時間は生意気に100分ほどあるが、その内の4割はそういった冗長なカットや台詞回しで占められている。もし本作をB級映画の帝王ロジャー・コーマン御大が編集したら、上映時間は50分を割り込むのではないだろうか。

 また、アンチクライストの急先鋒として生きている我々平均的な極東のイエローモンキーには、主人公に一切感情移入が出来ないというのも残念な点である。私は「神は発明品である」と言い切って何ら憚ることのないタイプの無神論者であるが、それを差し引いても主人公たるハウイーはクライスト的過ぎるように思われる。清貧や禁欲(ついでに童貞も)を貫こうとするハウイーは現代を生きる我々の目から見れば殆どファンダメンタリスト、所謂狂信者としか映らない。こんな存在がニーチェ以後の世界にあっていいのだろうか。いや、実際に存在しているのだろうな。だからこの世から戦争はなくならないのである。

 なお、本邦の神道は言うまでもなく多神教であり、生殖器信仰が各地に残っていることからも分かるように性に関しては割と大らかかつ開けっ広げなのが特徴である。つまり本作(勿論『ミッドサマー』でも)で怖がられている"アンチクライスト共"と、我々ジャップ共はバックグラウンドがほぼ共通するのだ。娯楽映画の構造に逐一目くじらを立てる趣味はないが、つまるところここで怖がられているのは他でもない我々である。

 その構造が分かった上でこれらの映画を真っ当に怖がれるとも思えないので、本作はともかく『ミッド(以下略)』がヒットしたということは、まだまだ本邦の大多数の人々は自身を名誉白人だとでも思い込んで、脱亜論の甘い夢を貪っているということなのだろう。

 ああ、こんな映画を面白がっているようじゃいけねえや。そんな調子では北方領土は返って来ない。こうして観た者を安易に憂国志士に成り下がらせてしまうような、そんな映画を褒めるのは本当に難しい。本当に難しいのである。

2024年1月9日火曜日

『テレビ放送開始69年! このテープもってないですか?』評

 『テレビ放送開始69年! このテープもってないですか?』(2022年/BSテレビ東京・テレビ東京)

 得点…60/100

  

(画像の出典:『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか? | テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式)』

 2022年末にBSテレ東にて放送され、各所で(色んな意味で)話題沸騰となったフェイクドキュメンタリー(いや、フェイクバラエティと表現するのが適切だろうか)だ。この度、私が契約しているサブスクリプションサービスにて見放題配信が開始されていたので鑑賞してみた次第である。

 さてフェイクドキュメンタリーといえば、本邦でも有名なのは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年/アーティザン・エンタテインメント)であろう。今や円盤のジャケットにも用いられている、登場人物のクローズアップシーンは数多のパロディを生んだ。もう少し年嵩の諸兄は、『食人族』(1980年/ユナイテッド・アーティスツ)やグァルティエロ・ヤコペッティの"残酷"シリーズを思い出すかもしれない。本邦にも『ノロイ』(2005年/ザナドゥー)等の例がある。

 これらのBC級映画に共通するのは、劇映画であるのにも関わらず、「実際にあった!」と銘打つ宣伝である。つまり壮大な嘘をついているのだ。『ブレア・ウィッチ・プロ(以下略)』が公開に際し、映画の舞台となる土地のオカルティックな情報をまとめたサイトや書籍、ドキュメンタリー番組などを予め用意したことは有名である。

 嘘は大きければ大きいほどバレにくくなる、という言もあるが、虚実を如何にないまぜにするか、あるいは逆転させるか、ということにメタフィクション作家や映画監督達は心血を注いできた。だからこそ、続編で完全な劇映画に舵を切ってしまった『ブレア・ウィッチ(以下略)』は結局テケレッツのパァなのであるし、演出があまりにも陳腐かつ露骨すぎてスタートラインにも立てていない『パラノーマル・アクティビティ』(2007年/パラマウント映画)などは論ずるに値しないのである。

 それではフェイクドキュメンタリーには佳作などないのかといえば、無論そんなことはない。演出の手腕ひとつでこの手のジャンルは大化けするのだ。例えば前述の『食人族』では、物語の中盤で銃殺刑を写したフィルムを上映して「これはやらせだ」と喝破するが、実はこのフィルムこそが本物なのである。全編を通じて鑑賞者の真偽の判断を麻痺させ、荒唐無稽な話にグイグイと引き込んでいくルッジェロ・デオダートの演出は本当に巧みで、今観ても学ぶべきところの多い作品に仕上がっている。その内容はともかく。

 また、途中までフェイクドキュメンタリーの手法を採っておきながら、終盤にガラリとその様相を変えて鑑賞者をアッと言わせる映画というものもある。『ジャージー・デビル・プロジェクト』(1998年/FFM Production)がそれだ。このパクった感マシマシの邦題からは星の数ほどある亜流作のうちのひとつのようにも思えてしまうが、実はこちらのほうが劇場公開が1年早く、肝心の出来は『ブレア(以下略)』よりも数段上である。

 この2作は内容がある程度似通っている上に公開時期も近いため、「どちらがパクったか」がしばしば(不毛な)論争になる。が、しかし、私は内心『ブ(以下略)』が本作をパクったのだと固く信じている。そう信じたくなるくらいには劇的などんでん返しが用意された本作は、(決して後味は良くないものの)鑑賞後に「なんだかすごいものを観たぞ!」という深い感銘と余韻を齎してくれること請け合いだ。

 かように本作は間違いなく佳作なのだが、商業的成功はしなかった。それ故に、現在本邦で鑑賞する手段は国内版中古VHS(しかもプレミアがついて妙に高い)くらいなのが歯痒いところである。ちなみに主人公の吹替は駆け出し時代の平田広明氏が務めており、氏のファンであるという人にもお勧めできる(実は2022年にもなって唐突にBlu-rayが発売されたが、原語版のみの展開であり、リージョン規制もあるため購入・鑑賞は現実的ではない)。

 

 ほんの余談のつもりが、ついつい長くなってしまった。

 さて、3日間にわたってテレビ放送されたことからも分かるように、本作『このテープもってないですか?』は映画ではない。純然たるバラエティ番組の体裁を持った映像作品である。よって私が通常書く映画評のように、ストーリーを追いながら逐一ツッコミを入れていくスタイルは採りにくい。加えて1話あたり25分程度であるし、現在は鑑賞も比較的容易くなっているため、今回は無理に時系列に沿った解説に固執せず、全編を通じて私が覚えた感想を列挙することとする。

 毎回警告しているが、私はネタバレには一切配慮しない。以下、本文中の著名人の敬称は省略する。


 本作は完全に「深夜帯にありがちな低予算バラエティ番組」として始まる。副調整室のコンソールをバックに、いとうせいこう、井桁弘恵、水原アナウンサーが並び、フリップを用いて「かつてこんな番組があったが、社内にはその映像データが残っていないので視聴者から放送を録画したテープを募集した」という企画の概要が説明され、中でも3回分の提供を受けた『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』(1980年~85年放映)を放送する、という案内の下、該当番組(無論劇中劇である)が放送される。

 『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』(以下『ミッパラ』)は如何にもなセットと如何にもな出演者、如何にもなフォントを使った、まあ平たく言えば『11PM』をオマージュした番組である。ぎらついたおっさんホストが女子アナやゲストにセクハラを飛ばしながら進行する、あの時代にありがちな構成だ。

 しかしながら、既に画面に違和感がある。どうも"当時感"が足りないのだ。私もあまりテレビという媒体に親しくはないので言語化は難しいのだが、何というか、現代の感覚を持ったままで当時を形だけ真似ようとした結果とでも言えばいいのか、昔のテレビはもっとドギツかった、という印象だけを覚える。

 あまり自信がないので煮え切らない書き方にはなるが、まずカメラアングルが当世風である。かつてのブラウン管テレビは解像度が低かったため、出演者の顔をロングで抜くことは稀だったと記憶している。出演者をひとり抜く場合、最低でも胸が写るかどうかという程度にはアップショットにしていた。そうしないと顔の造作が潰れて分かりにくいからだ。

 また、スタジオ背景の大理石風の柱の模様や机の手前に据えられた花の造形が見て取れるのもあまりリアルではないように思える。当時のテレビカメラの分解能がそこまで高かったとも思えず、なおかつこれは「一般視聴者が生放送番組を録画したもの」という設定の映像なのだ。確実に録画の時点でもっと映像は荒れているはずである。いや、もしかすると録画媒体がHi-Bandベータだったのかもしれない(実は作中でしっかり「VHS」と明言されているので、これは誤った推理である。ちなみにVHSの高画質規格媒体であるS-VHSが発売されたのは1987年なので、 1985年に終了した番組を録画出来たはずはない。我ながら重箱の隅をつつくような話であるな……)。

 寡聞にして知らなかったのだが、どうやら『ミッパラ』に入る前に『当時のニュース』として紹介された映像に表示されていた、テロップの明朝体フォントの時代考証も少し雑なようだ。繰り返すが、当時の番組は解像度の低いモニターで観ることが前提だったので、横画が細く潰れやすい明朝体を用いること自体がほぼなかったはずである。モニターの解像度が飛躍的に向上した現代でも、テレビでは基本的に「テロップ明朝」などと呼ばれる横画の太いスタイルの明朝体が用いられている。私の前提知識としてはその程度で、やや違和感があるな、くらいにしか思わなかったのだが、この評を書く前に少しだけ調べてみたところ「写研書体を使え!」という声がちらほらあった。みんなよく観てるのねえ。

 尤も、今挙げた映像の造作に対する違和感自体は必要悪であるとも言える。あまりにも高いクオリティで当時を再現してしまうと、予算だって嵩むだろうし、妙な勘違いをする輩が現れないとも限らない。見る人が見れば作りものだと一瞬で分かる作りが求められるのが、オーソン・ウェルズ以後のメディアの在りようである。私の母など、つい先日まで『TAROMAN』が1972年当時実在した特撮番組だと思い込んでいた。こういうことが起こり得る以上、一定の線引きはせねばならない。そこがテレビというメディア特有の、映画にはない窮屈さだと見ることも可能であろう。

 この『ミッパラ』内の視聴者ビデオ投稿コーナーから怪異はスタートする。他愛無い投稿映像達の中に、終始不気味な映像が1本紛れているのだ。

 古い長屋のような建物の玄関前で、坂谷に自身の方向音痴の悩みを淡々と相談する男。この映像がトリガーとなり、全てが狂い出していくのだが……。

 怪異の発端となるこの映像は、率直に言ってお粗末な作りである。チープかつありがちな映像加工に加えて、最早時代遅れを通り越して時代錯誤とも言えるサブリミナル・メッセージ風の演出が乗っかっており、お世辞にもホラーとして興味深いものではない。これに類する映像なら、YouTubeを覗けばウン千ウン万と見つかる。

 これは持論に過ぎないが、ホラーの発端というのは、些細なものであればあるほどよい。古い雑誌の広告。端の剥がれかけた壁紙。恋人とのドライブ。見知らぬ番号からの着信……そういったものに覚えてしまう好奇心、人間が誰しも持つそのちょっとした好奇心が、あれよあれよと転がり続けて雪だるま式に肥大し、思いもよらなかったような破滅的な結末を迎える。そうであればこそ、ホラーは生活の中の様々な心の隙間に芽吹き得るのだ。

 そういう意味で言えば、この映像は異常過ぎた。男が訳の分からぬことを淡々と、かつ繰り返し述べる異様な光景をロングショットで撮っているだけで、発端としては十分に怖いはずである。なのに、そこに陳腐な映像加工やサブリミナル・メッセージ風のあからさまな演出が乗ってきてしまうので、鑑賞者は「あっ、ハイハイ、そういう感じね」と身構えてしまう。せっかく面白い題材と最高に不穏なシチュエーションを揃えているのに、これでは勿体ないことこの上ない。

 ちなみに、ここまでが第1夜の中盤ほどである。本作が3夜にわたる連続放送で、なおかつ1本の尺は25分に過ぎないと分かっていても、流石に飛ばし過ぎだったのではないかと思ってしまう。確かに、予め架空の番組をひとつでっち上げ、ダラダラと古い時代のテレビのノリを鑑賞者に見せつけておいたほうがその後の流れがより自然になるとは思うが、何かしら理由をつけて番組部分をカットし、もう少し丁寧にホラー部分を描くことは出来なかったのだろうか。また発想を逆転させれば、3回分の尺を生かしてあえてダラダラと番組部分を続け、発端の映像そのものが持つ異物感を高めることも選択出来たはずである。最初からトップギアに入れて発進したら、エンストしますよ。

 続く第2夜は、もうのっけから様子がおかしい。『ミッパラ』ホストの坂谷は挙動不審であり、ビデオ投稿コーナーには夏の恐怖特番で見るような、あからさまな恐怖映像ばかり流れる。次第に他の出演陣にも意味不明な発言が目立つようになっていき、ついにはその狂気がモニターで『ミッパラ』を観るいとうや井桁にも伝染する。当初坂谷のセクハラ気質を露骨に嫌がっていた井桁が『ミッパラ』を称賛し始めたり、いとうが尋常ではない目つきのまま無言でカメラが切り替わるなどの異様な演出が挟まり始める。

 ……何度でも言っていこう。質の悪いホラーは、主としてブレーキが壊れているのである。緩急の付け方に失敗していると言うべきか、恐怖の割合をアナログ的にではなく、いきなりデジタル的かつ過剰に増やしてしまっているので、第1夜でダラダラと番組パートを見せた意味が霧散した。私はこれらを連続して鑑賞したが、実際には一晩ごとの放送だったのだからより始末が悪い。連続性の構築にここまで失敗していると、リアルタイムで鑑賞した者は軽く置いてけぼりを食ったのではないだろうか。

 そして迎える第3夜。いとうらも『ミッパラ』も、狂気に支配されて連綿と言葉遊びを続けるだけの存在になっている。物語はここで完全に破綻した。第2夜が地獄の超特急だとすれば、第3夜は地獄のリニアモーターカーである。こうなってしまうと、そこには恐怖もクソもへったくれもない。内容にしたって一見では全く理解が追い付かないので、面白さも皆無である。さっぱり理解出来ない異様な映像が25分流れ続けるだけと形容してもよく、端的に言ってやり過ぎだ。不条理劇のほうがまだ明快である。どのみちゴドーは来ないのだから。

 

 今この評を書くために再び本作を観直しているが、いい加減うんざりしてきたので、本作が映像作品として抱える問題点をいくつか洗い出しておきたい。

1.メタフィクション/フェイクドキュメンタリーと、投げっぱなしの脚本の相性の悪さ。

 冒頭でも書いたが、虚実をないまぜにし、その境界線を滲ませることで、初めてメタフィクションは仕掛けとして成立する。それがホラーである場合、実際性を担保に恐怖を描いていると言い換えることも出来るだろう。その前提が破壊されてしまうと、恐怖だけがあからさまな異物として周囲の現実と断絶されたまま存在することになってしまう。これはメタホラーというより、むしろパニックホラーや、モンスターホラーなどといった文脈に近しい。

 即ち、(人間に理解出来るかどうかは別として)恐怖にも何らかの因果律が存在し、何らかの理屈に則って動いているのだ、ということがほんの僅かにでも明示されない場合、それはメタホラーにおいて、恐怖を描いたことにはなり得ないのである。

 ところが本作の脚本は、基本的に投げっぱなしだ。まずあり得ないことが起こり、順を追って起きたことだけが列挙され(初手からあり得ないことが起こっているので、ここで起こることも総じて無茶苦茶だ)、手掛かりこそ与えられている気配はあれども、その解釈は一切明かされない。

 私はこの構造に強い既視感がある。それは主に2000年代から2010年代初頭まで、2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)上に花開いた、所謂「2ch怪談」文化だ。

 携帯電話をはじめとした小型の情報端末が爆発的に普及したことで、怪談は「聞くもの」から「体感するもの」へと変貌を遂げた。現在進行形で奇妙な体験をしていると称する人物が実況スレッドを立て、それを不特定多数の人々がリアルタイムで読み書きし、怪異を疑似的に体感する。そのような中で生まれた怪談の代表は『消えたとてうかぶもの・?』(初出:2002年)『きさらぎ駅』(初出:2004年)などだろうが、これらの怪談にはサゲがない。基本的に語り手はどこかで書き込みをやめてしまうか、スレッドがコメント上限に到達していなくなってしまう。

 つまりこれらの怪談の恐怖とは、起点となる出来事からエスカレートしていくものではなく、それ同士の関連性すら担保されぬままに乱発されていく「単体の変事」であり、現実と地続きであろうとして描かれるものではない。ここで物語のメタ性を担保しているのは、語り手が今まさに書き込みを続けている(あるいは、書き込みをやめてしまった)という即時性だけなのだ。意地悪な表現をすれば、それを発表する場の構造に全面的に依拠して、本来メタフィクションがメタフィクション足り得るために割くべき労力すら軽んじ、疎かにしていると言ってもよい。

 人間の恐怖の正体とは、突き詰めてしまえば「理屈付けを拒否されること」の一点に限られる。我々は訳の分からないものを恐れる。だからこそ物事に名前を付け、理解しようとし、対策を立てようとする。 ホラーとはその過程を描くエンターテインメントであって、即ち「理屈は分からないが、何かがそこにある」という主題は、到達点ではなく出発点でなければならない。

 要するに、本作のように"2ch的"な「理屈は分からないよ」という開き直った到達点を持つホラーは、そもそもホラーというジャンルに必要とされるストーリーテリングから逸脱しているのである。即時性に担保された恐怖というものも、インターネット上の書き込みやテレビ放送などとの相性はいいのだろうが、それがコピペ化したりソフト化・配信されたりすると同時にメタフィクションとしての足場が崩れ、輝きを失ってしまうのだ。

 

2.即時性に担保された恐怖と、再鑑賞を前提としているとしか思えない演出の相性の悪さ。

 繰り返すが、本作は3夜連続でテレビ放送された映像作品である。そのコマーシャルは慎ましやかで、ちゃんと読めばある種異様ではあったものの、事前の宣伝だけでは本作がフェイクドキュメンタリーだと気付けない人がいたとしても何らおかしくはない程度のものだった。つまり、制作陣は本作を予備知識なしに鑑賞する人がいる可能性に気付いていた、むしろそのような鑑賞者を求めていたと言ってもよい。

 そのような鑑賞者が本作を観た場合、仕掛けられているフックや伏線、手掛かりを一見のうちに気付くのはほぼ不可能だと断言できる。そのような演出をふんだんに取り入れている、つまり再鑑賞を前提にしているのにも関わらず、脚本は前述のように即時性が担保する恐怖に大きく依存しているため、そのミスマッチがどうにも居心地悪く、ちぐはぐな印象を覚える。

 何度も鑑賞して推理を組み立てる必要がある映像作品が悪いとは言わない。しかし、本作はフェイクドキュメンタリーであることに拘る余り、(本作の録画すらしていなかったであろう)一見の鑑賞者を蔑ろにしてしまった。カタルシスを求めて第3夜まで観たところで、何ら解決を見ない底の破れた脚本である。彼らの頭にはクエスチョンマークがぎゅうぎゅうに詰まっていたことだろう。

 もしこの作品自体が、あえてカタルシスを提供しないことで、見逃し配信サービス等へ誘導するためのマーケティング戦略だったとしたら……それは流石に悪辣な手腕だと言わざるを得ない。まあこんな推論は半分陰謀論に過ぎないのであって、私も普段であれば"ハンロンの剃刀"の例えを引いて一笑に付しただろう。だが、放映後の外部サービス・SNSへの露骨な誘導を鑑みると、ひょっとして、ひょっとすると、ないセンではないのかも……と思えてしまうのが、一度芽生えた疑念の恐ろしいところである。制作の人そこまで考えてないと思うよ……多分。


3.放映後の騒動に見るコンプライアンス意識の低さ。

 これは本作の出来とは直接関係のない話だが、放映当時ちょっと炎上していたのも記憶に新しいので、軽く触れておかざるを得ない。

 その顛末はこうだ。第1夜の放送終了直後、Wikipediaに『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』項が作成されていたのである。勿論『ミッパラ』は本作のために考案された架空の番組であり、実際に放映されていた事実はない。おそらくメタフィクションとしての箔付けのために作成したのだろうが、架空の番組の情報が特筆性の基準を満たす訳もなく、項は即時削除された。同じ項はニコニコ大百科にも作成されており、いずれも番組がフィクションであることを一切明記しない状態だったために、大いに批判されてしまったのである。

 その後、ニコニコ大百科に作成された項は第3夜放送終了後に白紙化されたが、フォーラムでの議論を経ないでの白紙化もポリシーに反する行為だったため、再び批判されることになった。

 メタフィクションの箔付けとして実際にサイトや掲示板を立ち上げるのはよくある手法で、前述のように『ブ(以下略)』は本編の他にドキュメンタリー番組まで撮影していたし、本邦でいうと(テレビゲームだが)『SIREN』(2003年/ソニー・コンピュータエンタテインメント)が発売前に掲示板や考察サイトを立ち上げていた。最近のところで言えば、書籍『変な絵』(雨穴、双葉社/2022年)の作中にて取り上げられる奇妙なブログは実在している(著者本人が数年分の記事を執筆したらしい)。

 しかしながら、自社で用意したドメインならまだしも「営利目的の使用がポリシーで禁じられている外部サービス」を使ってプロモーションを打つというのはあまり、というか全く褒められた行為ではない。よく考えないで使ってしまったのだろうか。外堀を埋めておきたがる癖も大概にしておくべきである。

 

 以上が、本作が抱える問題点である。

 単純に意識の低さに起因するのであろう3はともかく、1と2で挙げたような脚本と演出の二律背反は一体何によるものなのだろうか。

 私が思うに、それは構成を担当した梨と、演出統括・プロデューサーを務めた大森時生の作風のミスマッチが原因だったような気がする。

 梨は2ちゃんねるにルーツを持つ作家であり、言葉は悪いが投げっぱなしのストーリーを多く書くらしい(私は姓名の別のないペンネームを使うホラー作家をあまり信用していないので、詳しくは知らない)。作品のメタ演出として、外部サイトを用いた外堀埋めを行うこともあるようだ。

 大森時生はこれ以前にもフェイクバラエティ番組を手掛けた経歴があるようで、そちらは(外部サービスによる配信だったようだが)解決編とでもいうべきパートが存在しているらしく、前述した定義に照らせばメタフィクションとして守るべきラインはしっかり守っていたように思える。その一方で「番組の割と早い段階から不自然な編集が目立ち、フェイクであることが露呈していた」という感想もちらほら目についた。これは第二のオーソン・ウェルズを生み出すまいとするテレビ的倫理観によるものではないだろうか。

 つまり、本作は「連続性・因果律よりも変事そのもののインパクトを重視し、作品単体での実際性の担保をおざなりにしがちな脚本家」と「一見の視聴者にもこれがフィクションだと理解してもらえるようわざと粗い作りにはしたいが、ある程度筋を通したい演出家」の、それぞれの悪いところが出てしまった悲しきマリアージュだったのである。


 2000年代のインターネットは、まさに未来だった。清濁併せ呑む混沌の滾る、無限の沃野だった。"Web2.0が夢の跡"を生きる現代の我々が振り返れば、眩しく思えるような時代──その特性を色濃く反映して生まれてきた種々の怪談達と、それらに覚える憧憬には私も敬意を表したい。

 しかしながら、そのストーリーテリングの手法を語るとき、時代性というものに無関心ではいられないはずである。 かつて我々が恐怖した怪談は、その場に相応しい形だったからこそ恐怖を保てたのだ。その在りよう、作話法が万能論である道理はない。果たして我々は「恐怖の作り方」をアップデート出来ているだろうか?

 恐怖とは、人間の最も根源的な感情のひとつである。それ故に直接的なアプローチは殊の外容易い。箸にも棒にもかからないような出来のクズホラーが、星の数ほども存在している理由はこの辺りにある。手っ取り早く人間を揺さぶろうと思ったら、安直に恐怖をぶつけてやればよいのだから。

 そのようなホラーの鑑賞は、基本的にとても空しい。制作陣の「どうだ、怖いだろう」という悲鳴じみた空威張りが聞こえるだけで、ホラーはおろか、娯楽としても失格と言わざるを得ないような頓珍漢な作品にも時折ぶつかることがある。このような味のないナタデココをわんこそば方式で食べるかの如き、膨満感ばかりが募る体験は、決して質の良いものとは言えないだろう。同じ金を払うのなら、量より質を求めたいと思うのは当然だ。

 つまり裏を返せば、直接的アプローチにNoを突き付け、あくまでもアプローチを工夫し探求することこそが、ホラーをホラー足らしめる基本にして神髄、恐怖を正しくエンターテインメントに仕立て直す魔法なのである。本作がブラフのテーマに据えていた「昭和の昔と現代の対比」に寄す訳ではないが、いつまでも平成の残り香を追い続けるようなメタホラーの在り方には疑問を呈したい。そして現代に即した形のメタ演出とは、Wikipediaを広告塔に使うようなものではないはずだ。まあ今回のことで制作陣も懲りたであろうし、次回はそのような失態はないだろう。多分ないと思う。ないんじゃないかな。まあ、ちょっと覚悟はしておけ。

 

 テレビ放送でフェイクドキュメンタリーを制作しようという気概は手放しで評価したい。繰り返すが、テレビはその性質上第2第3のオーソン・ウェルズを生み出しやすいのだ(例えば、エイプリルフールにフェイクドキュメンタリーとして制作された『第三の選択』《1977年/アングリア・テレビジョン》は放送日がずれ込んだこともあり、放送直後から視聴者の問い合わせが殺到したらしい。本邦では翌78年にフジテレビが深夜帯で放送したが、こちらも視聴者の問い合わせが殺到したという)。

 不穏なビデオ映像を主軸に物語を展開させる、という発想も悪くないだろう。『女優霊』(1997年/ビターズ・エンド)『リング』(1998年/東宝)などの例を引くまでもなく、VHSの荒れて白飛び・黒潰れした画面に、ホラーの演出として代えがたい魅力があることは認めざるを得ない。

 しかしながら、全編を通じて演出の緩急の付け方がおかしく、題材の良質な不穏さをカタルシスの望めない脚本が生かせているとも言い難い。演出がヒートアップすればするほど、鑑賞者の心は離れ、醒めていく。矢継ぎ早に異様な光景を見させられたところで、募るのは膨満感ばかりであり、そこに恐怖はない。取り合わせは良かったのにねえ。全ての現象に「既に狂気に取り込まれているから」という理由をこじつけてしまうホラーは、夢オチ爆発オチに次いで酷い作りであると自覚してもらいたい。それがリアリティラインの設定に気を遣うべきメタフィクションであれば尚更である。本当に残念でしたなあ。

2023年9月17日日曜日

トウモロコシの帝国主義

 突然だが、私は映画が好きだ。基本的にはそのはずである。本邦の人口のうち、年に1本以上映画館で映画を観る人は50%に満たず、2~3ヶ月に1本以上のペースで映画を観る人はなんとたったの16%である。私は嗜好の幅が極端に狭く、なおかつ無職で自由になる金が心許ないため、年4本以上封切り映画を観ることはかなり稀であるが、それでも過半数の人々よりはずっと映画を観ている計算になる。随分と低く思えるハードルではあるが、一応映画好きの末席を汚す資格くらいは貰ってもいいだろう。

 さて、その映画好きである私には、実際のところ星の数よりも多くの嫌いなものがあるのだが、その中で今論いたいのは、今や映画館とは不可分と言ってもよいあのスナック、ポップコーンである。

 何を隠そう、私は物心つく前からポップコーンが嫌いだ。あのくしゃくしゃとした緩衝材を食んでいるかのような食感、酸化してつんと鼻を刺す油の臭い、乾いたスポンジのように唾液を吸収するくせに、更に分泌させて口中に水気を補充させるには足りない塩気、口の中にいつまでも残り続けるトウモロコシの皮。何を思い出してみても最低で、舌の両脇が酸っぱくなってくる。こんなものをありがたがる連中の気が知れない。

 ある時など、同行者が何の確認もなく人数分のポップコーンを買ってきやがったために無理に食べさせられることとなり、その結果私は鑑賞を中座してトイレで嘔吐する羽目になった。あの時はそもそも体調があまり優れなかったのもあるが、それを更に悪化させたのは言うまでもなくポップコーンである。私はこの時、例え家から遠く離れた出先の衆人環視の中にあっても、人間は両の鼻の穴から胃液が勢いよく噴き出すタイプの嘔吐が出来ることを知った。

 ここまで大々的にポップコーンのネガティブキャンペーンを張ってきたが、狭量な私とて、スナックやドリンクなどの飲食物のほうが映画そのものより利益率が良いことを知らない訳ではない。冒頭で挙げた統計でも分かるように映画人口は徐々に減少傾向にあり、また忌々しくもこの資本主義体制下においては利潤の追求は人間の至上命題である。好むと好まざるとに拘わらず、毟れるところから毟るのは当然だ。

 私も映画好きを僭称している以上、映画産業がゆっくりと経帷子を着て、墓場の方角へと徐行するのをただ手を拱いて見ているのは忍びない。映画産業の裾野は広くあってこそ、『フライパン殺人』を撮ったポール・バーテルのような奇才なのか変人なのか分からない人が出てくるのだし、商売として成り立つからこそ、まだ駆け出しだったポール・バーテルに『デス・レース2000年』を撮らせて後のキャリアを決定付けた、ロジャー・コーマンのような算盤づくの大興行師が一発当てにやってくるのである。映画産業の斜陽は、それら奇跡のような娯楽映画が生まれなくなることを意味する。まあ『フライパン殺人』も『デス・レース2000年』も、今日びまた生まれてこられたのでは困っちゃうような作品ではあるのだが。

 そこで、私は提案する。これ以上映画館から客足を遠退かせないためにも、ポップコーンは終売にすべきである。

 そもそも、映画を観ながら飲み食いをするのは行儀が悪いのではないか。映画館は無論映画を観るための場所であり、客は皆映画を観に来ているはずである。スナックをボリボリ貪ったり、既に空になった紙コップの底に溜まる僅かの水をズゴゴと音を立てて啜ったり、足を組み替えるたびに前の座席を蹴り飛ばしたりするための場所ではない。演劇やクラシックの演奏会などで同じことをやってもみたまえ。その後どうなるかは想像に難くない。大体、少し躾に厳しいご家庭であれば、今でも食事中にテレビや携帯を見ることはご法度とされているだろう。裏を返せば、テレビや携帯を見るときに食事をするのは無作法であるということになる。そのような行為が、「映画館だから」という理由だけで許されているのだ。

 これは由々しき事態である。いつの間にかこの瑞穂の国はシネコンによってアメリカナイズされ、我々の礼儀作法だとかマナーだとかモラルだとかいったものは地に堕ちた。そのくせAVの修正とピザやハンバーガーのサイズはいつまでもアメリカ並みにならないので全く情けない話である。

 昨今のカルトじみた憂国論風味の冗談はさておき、観客が映画館に映画を楽しみに来るのが当然である以上、映画館もその需要に対して真摯であってほしいと願うのは私だけではあるまい。映画館が観客に提供するのは映画だけでよいのである。それ以上のサービスは全て過剰であり、米帝的資本主義が夢見た「豊かな生活」の、もはや腐敗し白骨化してしまった名残である。

 映画を最大限楽しむために必要なものは何か?大きなスクリーンである。ご家庭では到底望むべくもない規模の音響である。最低120分程度は快適に座っていられる座席である。それだけだ。スナックやソーダスタンドは必要ない。

 考えてもみてほしい。誰しもが手元の端末ですぐに何でも望む映像を観られるようになった昨今、映画館に求められているのは「映画を観るしかない状態」にさせてくれる装置としての性格である。下世話な諸兄らが二次元のキャラクターを詰め込んでニヤニヤする、「セックスしないと出られない部屋」の亜種とみてもよい。「映画を観ないと出られない部屋」である。何かと情報も誘惑も過多で、ともすれば何もかもと中途半端な姿勢で向き合ってしまいがちな現代人には、これくらいストイックに何かに向き合うことを強制してくれる存在が必要とされているのである。

 映画は19世紀のフランスで生まれた。 アメリカの発明品ではない。それ故か、フランス人の映画に対する姿勢は真摯である。年に300本ほどしか新作が撮影されないのにも関わらず、国の映画産業に対する助成は年間約800億円に上るらしい。ちなみに本邦のそれは60億円/600本程度である。道理でフランス映画は難解で底が抜けているくせに金のかかった画面作りになっている訳だと膝を打つが、そんなフランスにはシネコンや鑑賞中に飲み食いすることへの反発から、飲食物を一切売らない映画館があるらしい。何と素晴らしいことだろう。

 以上のフランスの話は、本邦のどこかにはポップコーンを売らない封切館があるのではないか?という一縷の望みに賭けて検索したところ引っかかってきた記事からの受け売りである。なお、本邦においてそれを売りにしている封切館は見つけられなかった。悲しいことである。もしあったとしても、それらは大体独立系のミニシアターであり、信条よりも立地や物理的な条件から飲食物を売らないのであって、もしそれらの理由が何らかの形で解決を見ればすぐにでも飲食物を売り始めるであろうことは想像に難くない。

 私が扉を開けた途端に充満したポップコーンの臭いにやられないで済む映画館が本邦に現れるのは、一体いつになるのだろう。もしそれがいつまでも実現しないのなら、私は喜んで映画産業の野辺送りをせっつき、後押ししてしまうかもしれない。

2023年3月24日金曜日

人類機嫌

  近頃、怒りっぽくなってきたのである。

 仔細は述べないが、実際のところこの半年の間に私は多くのものを失い、加えて無職であるのにも関わらず貯えのほぼ全てを使い切ってしまった。端的に言って余裕がなくなってきたのである。

 私もただ徒に無職というモラトリアムの惰眠を貪っていたわけではないのだが、それでも私の精神が安定していたのはそのモラトリアムのなせていた業であって、その終わりが地平線の上に見えてきたとなれば焦りもするし怒りもするし、心から余裕というものがなくなっていくのも無理のない話だと思う。

 今の私はもう毎日が大変だ。朝起きて目覚ましが鳴るよりも早く起きてしまったことを呪い、一丁前に腹が減ることを恨めしく思い、何か予定が入っていれば(というより目覚ましをかけている時点で確実に何か予定が入っているのだが)その時間まで尻が落ち着かず胃が痛くなり、いざ一日が終わってみればこの手に何も残っていないことに絶望している。感情は常に生活に振り回されっぱなしで、ジェットコースターという形容ではもはや生易しい。これがジェットコースターであれば、既に死人が出ていても何らおかしくない設計だ。入園者と退園者の数が合わない恐怖のテーマパークへようこそ。

 びんぼうソフトが開発したゲームのようなテーマパークはさておき、インターネットでは「自分の機嫌は自分でとる」というお題目が金科玉条のように振りかざされるようになって久しい。久しいのだが、未だにインターネットは何かに怒っているのが常である。誰も自分の機嫌を自分でとったりなどしていない。

 そもそも、こういったマインドフルネス的な手合いが信用ならないのは、自律の文脈で他責をやりやがるところである。「自分の機嫌は自分で」と言えば聞こえはよいが、実際にやっていることは「自分の機嫌も自分でとれないなんて!」と他人を非難することだけだと言っても過言ではない。少なくとも私の肌感覚ではそうである。

 往々にしてマインドフルネスというものは、その性質上、それぞれの自尊心をブクブクと飼い太らすことに遠慮というものがない。そして自尊心を手っ取り早くムチムチパンパンのワガママ腸詰ボディちゃんにするためには、他者を見下すことが一番なのである。

 実際にはそれ以外の方法もあるだろうし、そちらのほうがより推奨されているのだろうが、見えている近道を無視してあえて険しく長い道を進むというのは、どうやら人間には難しい行いのようだ。頑なに近道をしないのは、この世でアリンコくらいのものだろう。よく仕事にうつつを抜かす様をして「俺なんて働きアリだよ」などと宣う輩がいるが、隙さえあれば体よくサボろうとする我々人間がアリンコを僭称するとはなんとも不遜な話である。我々はそのあたりの誠実さにおいてはアリンコ以下であることを強く胸に刻んでおいてもらいたい。

 やっている側が大方そんな姿勢である上、一聴には聞こえのよいマインドフルネス的思想を正面切って批判する勇気のある者は多くないがために、これらの人類見下し健康法はあまりにも無邪気に人口に膾炙しているのである。 そのため彼ら彼女らの元々厚い面の皮は更に厚くなっており、叩いて伸ばせばその面積はテニスコート3面分にも及ぶとされる。

 人間が他人の心の在り方を自由にしようなんておこがましいとは思わんかね……と本間先生がギリギリ言っていそうで言っていないセリフを引用しそうになるが、自分の心を守るために他人を見下すことは、無論それだけでは犯罪ではない。それで守れるものがあるなら、別に悪いことでもないとすら思う。しかしながら、それを美辞麗句で粉飾し、あたかも善行のようにして推奨・強制するのは人道に反するだろう。一見して素晴らしい行動指針も、よく考えてみれば特定の集団を排斥する目的が隠れていたりすることはよくある話である。分かったかいマックス。

 他人の不機嫌を外力によって矯正する社会の果てに、住みよい世界が広がっているとは私には到底思えない。かつてキレる若者達と呼ばれた人々が歳を重ねた結果キレる中年達になっている今、他者の感情を矯正しようとするのは不可能であり、不可能でなければならないことを今一度認識しなおしたいところである。

 以上、キレる無職の雑文であった。