2024年4月11日木曜日

『ハロウィン』(2007年)・『ウィッカーマン』(1973年)評

『ハロウィン』(2007年-MGM/ディメンション・フィルムズ)

得点…45/100

 

(画像の出典:『Halloween (2007) - IMDb』

 まずお断りしておきたいのだが、オリジナル版『ハロウィン』(1978年-コンパス・インターナショナル・ピクチャーズ)は、『悪魔のいけにえ』(1974年-ブライアンストン・ピクチャーズ)が先鞭をつけた「奇怪な殺人鬼が暴れまくる大量殺人映画」というジャンルに、「殺人鬼の方から犠牲者を付け狙い追いかけてくる」という発想をプラスして今日的なスラッシャー・ムービーの素地を作った、という点で記念碑的な作品であり、公開から45年以上が経った今なお傑作の呼び声高く、本国ではアメリカ国立フィルム登録簿に記載されるレベルの映画史に残る作品である。

 ジョン・カーペンターの意図的にスプラッタ描写を抑えた堅実な演出、デブラ・ヒルの多くを語らぬ脚本、監督自身の手による印象的な劇伴。そのいずれが欠けても、この完成度には到達しなかったであろう。若き日のショーン・S・カニンガムがこれを観て「俺ならもっと面白い映画が撮れる」と息巻き、のちにスラッシャーの一大フランチャイズとなる『13日の金曜日』(1980年-パラマウント映画)を撮ったのは有名な話である。

 かように、オリジナル版はカーペンター御大にとっても奇跡的な映画だったのだ。そんな作品だからこそ、生半可な心構えではリメイクなど出来るはずもないのだが……何をどうやったのか、マサチューセッツから来たボンクラ、ロブ・ゾンビがメガホンを執ってリメイクが製作されてしまった。

 確かに当時の『ハロウィン』フランチャイズはショック描写のネタも頭打ち、(3を除く)どの映画を観たところでマイケル君が出てきてはうろうろするばかりの低調さで、行き詰まっていた感は正直否めない。カーペンター御大も、自身のキャリアを決定付けたこのフランチャイズの凋落を見るに堪えなかったのかもしれない。しかしいざ出来上がってきたこのリメイクは、オリジナル版が重視した全てをうっちゃった、テケレッツのパァであった。

 

 おでぶの小学生、マイケル・マイヤーズ君はいじめられっ子。家庭も絶賛崩壊中で、継父は無職のロクデナシ、姉ちゃんはクソビッチ。頼みの綱の優しい母ちゃんも、如何せん職業がストリッパーなのでそれが学校でいじめのネタになってしまう。マイケル君の数少ない心の拠り所と言えば、まだ物心もつかない赤ん坊の妹の存在と、小動物を切り刻むことだけだった。

 ある日、いじめに耐えかねてついにプッツン来たマイケル君は、学校帰りのいじめっ子を追いかけて撲殺。ええいままよとばかりに継父と姉ちゃんと、ついでに姉ちゃんのボーイフレンドを手にかける。精神病院に収容されたマイケル君に、精神科医のルーミス医師がカウンセリングを試みるが、マイケル君が発作的に看護師をフォークでめった刺しにして何もかもがおじゃんに。そのことを聞かされて悲観した母ちゃんは赤ん坊の妹を残して拳銃自殺……と、ここまでは実録犯罪物を観ているような、言ってしまえば判で押したストーリーである。ここまでの描写は非常に不愉快で、オリジナルと比べて過剰にグロテスクで、そして何より退屈でつまらない。

 実在の大量殺人者は崩壊家庭に育った者が少なくなく、ちょっと思い出すだけでも「ボストン絞殺魔」ことアルバート・デサルヴォ、「キラー・クラウン」ことジョン・ウェイン・ゲイシー、「サムの息子」ことデヴィット・バーコウィッツ、ホラー映画好きにはお馴染みのエド・ゲインもその内のひとりである。つまり本作は「マイケル君が如何にして殺人を犯すようになったのか」ということを、なんと上映時間の前半全てを使って長々と説明してみせたのだ。

 これははっきり言って改悪以外の何物でもない。オリジナル版のマイケル君は如何にも中流階級らしいご家庭に育った豊頬の美少年で、最初の犠牲者となる姉も、少し奔放ではあるものの年齢相応と言ってよい程度の素行に過ぎない。少なくとも本作のおでぶちんボーイや、穴兄弟が山ほどいそうな尻軽女ではないのだ。当然オリジナル・マイケル君はそれなりに愛情を注がれていたのだろうし、ことの発端まで問題行動らしい問題行動を起こしていた素振りすらない。そういう平和なご家庭がある日突然、理由もはっきりとしないまま崩壊することにまず第一の恐怖があった。

 比べて本作のご家庭の崩壊っぷりといったらどうだろう。確かに、殺人者のバックボーンとしてはリアルである。しかしこれだけくだくだしくやられてしまうと、あまりにも説明臭くはないだろうか。私には「こういう理由があるから人殺しになったって仕方ないんだ」という居直りのように思われた。

 しかし、どんなに自己弁護がましく長広舌を振るわれたところで、少なくとも近代国家において人殺しになっていい理由などある訳がないのだから、実際には言い訳にすらなっていない。オリジナル版が製作された70年代ならともかく、これだけスラッシャー映画が膾炙した今日においては、そんなピントのズレた説明よりも割くべき尺があると思うのだが。

 さて時は流れて17年後のハロウィンにマイケル君は晴れて精神病院を脱走し、つなぎにゴムマスクの"ブギーマン"ルックで手当たり次第に殺しまくる。ここまで来ればもういつもの『ハロウィン』なのだが……その演出も正直褒められる出来ではない。一番の問題は、安定したカメラアングルが殆ど存在せず、画面がほぼいつでもガクガク手ブレしっぱなしであることだ。

 普通の映画人ならそんなシーンは手持ち撮影はしないだろ、と突っ込みたくなるようなシーンも全てガクガク手ブレ。ロングショットもクローズアップもガクガク手ブレ。気を抜くと画面酔いしてしまいそうで、まるで映研映画を観ているようだ。

 加えて緊迫したシーンではそれぞれが数秒にも満たない細切れのカットが多用されており、目まぐるしく移り変わる画面に何が映っているのか追いかけるのが精いっぱいである。いや、時折それすら怪しい。あるシーンなど、ガクガク手ブレとぶつ切りカットの相乗効果によって、登場人物が前進しているのか後退しているのかすら分からなかった。それってよっぽどだぞ。

 脚本に目をやると、これもまた色々と細かい詰めの甘さが目立つ。

 まず、本作のマイケル君はかなり喋るのだ。ペラペラ喋りまくる。自身の凶行に関する記憶が抜け落ちている他は何だって喋る。ルーミス医師ともぼちぼちコミュニケーションが成立している。にも拘わらず、看護師を刺殺して17年の年月が経つと、マイケル君は唸り声を上げる程度で全く喋らない、ジェイソン君のような大男に変貌しているのだ。どうしてそうなったのか、説明らしい説明はない。マイケル君の殺人衝動に理由をこじつける一方で、おでぶちんボーイ・マイケル君がパブリック・イメージ上のマイケル君に変貌する理由の説明はうっちゃられている。その不均衡がどうにも気持ち悪い。多くを語らぬのと、説明不足なのとは違うのだよ。

 また、ルーミス医師はルーミス医師で、にこやかにおでぶちんボーイ・マイケル君とカウンセリングをしていたのにも関わらず、看護師を刺殺して17年経ったほうのマイケル君に対しては悪魔だの災厄だのと悪辣に罵倒する。つまりここではパブリック・イメージ上のルーミス医師のキャラクターに寄せている訳だが、ここの繋がりもあまり丁寧に説明されておらず、前半部分と乖離しているように思えてしまう。

 画作りの方にも触れておこう。

 ロブ・ゾンビ演出の特徴は、とにかく作家性に乏しいことにある。どこかで観たようなカットやアングルや演出のオンパレード。タチが悪いのは、それを狙ってやっている感があるところだ。おそらく監督を横に座らせて本作を観れば、1カットごとに何の映画から引用したかを嬉々として語ってくれるだろう。

 ただ、それが有名フランチャイズの仕切り直した新作に値するかと言えば、答えはNOである。ロブ・ゾンビの映画は、まるで完璧なコピーバンドによって完璧にコピーされた曲を聴いているようなもので、オリジナル曲の新規性は望むべくもない。

 作家性が乏しいことが悪いのではない。オマージュが目的になっていることが悪いのである。どこかで観たようなシーンを寄せ集めて繋ぎ合わせる一方、過剰にグロテスクに仕立てることで逆に無二の作家性を獲得した、ルチオ・フルチのような監督もいるにはいるのだから。

 

 本作にはオリジナル版にあった全てがなくなり、オリジナル版になかった全てが足されている。それ故にサービス精神は旺盛で、オリジナル版ではほぼ出てこないおっぱいがふんだんに出る。しかし、それだけである。こんなものをリメイクですと言われて出されたのではたまったものではない。

 勿論、配給元のMGMはそんなこと理解していたし、『ハロウィン』フランチャイズのファンも理解していた。でも仕切り直しの新作だと宣伝したし、観に行った。その結果、本作は8000万ドル以上もの興行収入を記録してしまったのである。

 賢明なMGMは続編からは手を引いたが、気を良くしたもう一方の配給元、ディメンションは即座に続編の製作を決断。だがジュリアン・モーリーとアレクサンドル・バスティロの両名に監督オファーを蹴られてしまったために、ロブ・ゾンビが続投して『ハロウィンⅡ』(2009年-ディメンション・フィルムズ)が製作され、こちらは見事にこけた。2匹目の泥鰌はいなかったのだ。

 結果、ロブ・ゾンビは馬脚を現してすごすごとマサチューセッツへ帰っていったのである。その後も懲りずにどこかで見たようなタイトルのどこかで観たような映画を数本撮っているが、これらに関してはもう観る気も起きない。


 

『ウィッカーマン』(1973年-ケイブルホーグ)

得点…30/100

 


(画像の出典: 『The Wicker Man (1973) | HMV&BOOKS online : Online Shopping & Information Site - DABA-5147 [English Site]』

 2020年、本邦を熱病のように『ミッドサマー』旋風が襲った頃の話である。私はこの映画がどうしてこんなにウケるのか理解に苦しんでいた。この映画は、21世紀も20年やろうかという今日においては、あまりにも恐怖の題材が古臭いからである。

 これは簡単に言ってしまえば「クライスト的な主人公が、アンチクライスト的なものを恐怖する」という骨子の話であり、描き方如何によっては今日び重大な差別主義的モチーフを含むと批判されても致し方ない作りである。相手がフリーセックスラリパッパ殺人カルトだった(加えて基底にあるのはクライスト的なものだった)からいいようなものの、もしこれに特定の宗教を暗示するような描写がちらりとでも挟まっていればもう一発アウト、アンチクライストは全員人非人と思い込んでいるアメリカ以外ではビデオスルーになったに違いない。少なくとも、本邦では劇場公開はされなかったと思う。

 だからこそ、私はこれが敢えてタブーに踏み込んだ映画なのだと思っていたし、逆説的に「いつの時代も人間は差別を娯楽として消費出来るのだ」と警鐘を鳴らすことに狙いのひとつがあったのだろうなあと考えていた(と、訳知り顔でこんなことを書いてはいるが、私自身が一番この推測を信用していなかったのも事実である)。一応私の感想を述べておくが、出来の悪いブラックコメディを観ているような気分になったと言えば、それ以上の言葉は蛇足というものだろう。

 しかしこの度、この映画を鑑賞して私は知ったのである。なあんだ、パクリでしたあ。ちゃんとネタ元がありましたあ。

 それほどまでに、この2つの映画はプロットが酷似している。何なら主人公格の登場人物が焼き殺されるラストシーンまで同じである。『ミッドサマー』が本作の影響下にあることは疑いようがない。敢えて古臭い題材を選んだのではなく、古い映画をパクったから古臭くなってしまったのである。この事実に気付いた私は、こんな映画を絶賛したアメリカと、本邦のtwitterユーザーというヤツは心底アホだと思った。

 

 さて本作は、スコットランドはハイランド地方の離島に、本土から警官のハウイー巡査部長が颯爽と飛行艇で乗り付けるところから始まる。この私有地の島で、少女が失踪したと署に投書があったのだ。

 閉鎖的な島民達に辟易しながらも調査を進めるハウイーが目にしたのは、島の領主が現代に復活させたケルト的信仰であった。彼らは生まれ変わりを信じ、子供達にはヤコペッティのエセドキュメンタリーにでも出てきそうな性教育偏重の教育が施されている。大人達は夜な夜な墓場で運動会。宿屋の娘はすっぽんぽんでミュージカル、夜通し歌って隣室のハウイーの睡眠を妨害する。

 来る五月祭の準備に追われる島民達は雁首揃えて「少女は最近死んだばかりだ」と言い張り、領主はと言えば勝手に島の歴史を語りだす。曰く、先々代の統治時代に生贄の儀式を復活させてケルトに宗旨替えしたところ、島に豊作がもたらされたという。

 少女が五月祭で生贄として捧げられるのではないかと疑いを抱いたハウイーは一旦本土に帰って応援を呼ぼうとするが、お約束通り飛行艇はオシャカになっており、独力で少女の奪還を目指すことを余儀なくされる。

 宿の主を張っ倒して五月祭の衣装を奪い仮装したハウイーは祭りの行列に加わり、丘の上に立ったウィッカーマン像の下までやって来たところで、生贄として準備されていた少女を首尾よく奪還。少女の先導で逃げに逃げ、気が付けば海辺まで追い詰められていた。実際に儀式で捧げられる生贄はハウイーであり、少女は最初からハウイーを誘い込むための囮だったのである。

 なんやかんやでハウイーはウィッカーマン像の中に押し込められ、火を放たれる。死を悟り聖書の一篇を唱えるハウイーに対し、島民達は来年の豊作を祈って歌い踊り、五月祭はクライマックスを迎えるのだった。

 

 本作の一番大きな問題点は、演出がくだくだしく、脚本もテンポが悪いため、観ていてイライラすることである。上映時間は生意気に100分ほどあるが、その内の4割はそういった冗長なカットや台詞回しで占められている。もし本作をB級映画の帝王ロジャー・コーマン御大が編集したら、上映時間は50分を割り込むのではないだろうか。

 また、アンチクライストの急先鋒として生きている我々平均的な極東のイエローモンキーには、主人公に一切感情移入が出来ないというのも残念な点である。私は「神は発明品である」と言い切って何ら憚ることのないタイプの無神論者であるが、それを差し引いても主人公たるハウイーはクライスト的過ぎるように思われる。清貧や禁欲(ついでに童貞も)を貫こうとするハウイーは現代を生きる我々の目から見れば殆どファンダメンタリスト、所謂狂信者としか映らない。こんな存在がニーチェ以後の世界にあっていいのだろうか。いや、実際に存在しているのだろうな。だからこの世から戦争はなくならないのである。

 なお、本邦の神道は言うまでもなく多神教であり、生殖器信仰が各地に残っていることからも分かるように性に関しては割と大らかかつ開けっ広げなのが特徴である。つまり本作(勿論『ミッドサマー』でも)で怖がられている"アンチクライスト共"と、我々ジャップ共はバックグラウンドがほぼ共通するのだ。娯楽映画の構造に逐一目くじらを立てる趣味はないが、つまるところここで怖がられているのは他でもない我々である。

 その構造が分かった上でこれらの映画を真っ当に怖がれるとも思えないので、本作はともかく『ミッド(以下略)』がヒットしたということは、まだまだ本邦の大多数の人々は自身を名誉白人だとでも思い込んで、脱亜論の甘い夢を貪っているということなのだろう。

 ああ、こんな映画を面白がっているようじゃいけねえや。そんな調子では北方領土は返って来ない。こうして観た者を安易に憂国志士に成り下がらせてしまうような、そんな映画を褒めるのは本当に難しい。本当に難しいのである。

2024年1月9日火曜日

『テレビ放送開始69年! このテープもってないですか?』評

 『テレビ放送開始69年! このテープもってないですか?』(2022年/BSテレビ東京・テレビ東京)

 得点…60/100

  

(画像の出典:『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか? | テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式)』

 2022年末にBSテレ東にて放送され、各所で(色んな意味で)話題沸騰となったフェイクドキュメンタリー(いや、フェイクバラエティと表現するのが適切だろうか)だ。この度、私が契約しているサブスクリプションサービスにて見放題配信が開始されていたので鑑賞してみた次第である。

 さてフェイクドキュメンタリーといえば、本邦でも有名なのは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年/アーティザン・エンタテインメント)であろう。今や円盤のジャケットにも用いられている、登場人物のクローズアップシーンは数多のパロディを生んだ。もう少し年嵩の諸兄は、『食人族』(1980年/ユナイテッド・アーティスツ)やグァルティエロ・ヤコペッティの"残酷"シリーズを思い出すかもしれない。本邦にも『ノロイ』(2005年/ザナドゥー)等の例がある。

 これらのBC級映画に共通するのは、劇映画であるのにも関わらず、「実際にあった!」と銘打つ宣伝である。つまり壮大な嘘をついているのだ。『ブレア・ウィッチ・プロ(以下略)』が公開に際し、映画の舞台となる土地のオカルティックな情報をまとめたサイトや書籍、ドキュメンタリー番組などを予め用意したことは有名である。

 嘘は大きければ大きいほどバレにくくなる、という言もあるが、虚実を如何にないまぜにするか、あるいは逆転させるか、ということにメタフィクション作家や映画監督達は心血を注いできた。だからこそ、続編で完全な劇映画に舵を切ってしまった『ブレア・ウィッチ(以下略)』は結局テケレッツのパァなのであるし、演出があまりにも陳腐かつ露骨すぎてスタートラインにも立てていない『パラノーマル・アクティビティ』(2007年/パラマウント映画)などは論ずるに値しないのである。

 それではフェイクドキュメンタリーには佳作などないのかといえば、無論そんなことはない。演出の手腕ひとつでこの手のジャンルは大化けするのだ。例えば前述の『食人族』では、物語の中盤で銃殺刑を写したフィルムを上映して「これはやらせだ」と喝破するが、実はこのフィルムこそが本物なのである。全編を通じて鑑賞者の真偽の判断を麻痺させ、荒唐無稽な話にグイグイと引き込んでいくルッジェロ・デオダートの演出は本当に巧みで、今観ても学ぶべきところの多い作品に仕上がっている。その内容はともかく。

 また、途中までフェイクドキュメンタリーの手法を採っておきながら、終盤にガラリとその様相を変えて鑑賞者をアッと言わせる映画というものもある。『ジャージー・デビル・プロジェクト』(1998年/FFM Production)がそれだ。このパクった感マシマシの邦題からは星の数ほどある亜流作のうちのひとつのようにも思えてしまうが、実はこちらのほうが劇場公開が1年早く、肝心の出来は『ブレア(以下略)』よりも数段上である。

 この2作は内容がある程度似通っている上に公開時期も近いため、「どちらがパクったか」がしばしば(不毛な)論争になる。が、しかし、私は内心『ブ(以下略)』が本作をパクったのだと固く信じている。そう信じたくなるくらいには劇的などんでん返しが用意された本作は、(決して後味は良くないものの)鑑賞後に「なんだかすごいものを観たぞ!」という深い感銘と余韻を齎してくれること請け合いだ。

 かように本作は間違いなく佳作なのだが、商業的成功はしなかった。それ故に、現在本邦で鑑賞する手段は国内版中古VHS(しかもプレミアがついて妙に高い)くらいなのが歯痒いところである。ちなみに主人公の吹替は駆け出し時代の平田広明氏が務めており、氏のファンであるという人にもお勧めできる(実は2022年にもなって唐突にBlu-rayが発売されたが、原語版のみの展開であり、リージョン規制もあるため購入・鑑賞は現実的ではない)。

 

 ほんの余談のつもりが、ついつい長くなってしまった。

 さて、3日間にわたってテレビ放送されたことからも分かるように、本作『このテープもってないですか?』は映画ではない。純然たるバラエティ番組の体裁を持った映像作品である。よって私が通常書く映画評のように、ストーリーを追いながら逐一ツッコミを入れていくスタイルは採りにくい。加えて1話あたり25分程度であるし、現在は鑑賞も比較的容易くなっているため、今回は無理に時系列に沿った解説に固執せず、全編を通じて私が覚えた感想を列挙することとする。

 毎回警告しているが、私はネタバレには一切配慮しない。以下、本文中の著名人の敬称は省略する。


 本作は完全に「深夜帯にありがちな低予算バラエティ番組」として始まる。副調整室のコンソールをバックに、いとうせいこう、井桁弘恵、水原アナウンサーが並び、フリップを用いて「かつてこんな番組があったが、社内にはその映像データが残っていないので視聴者から放送を録画したテープを募集した」という企画の概要が説明され、中でも3回分の提供を受けた『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』(1980年~85年放映)を放送する、という案内の下、該当番組(無論劇中劇である)が放送される。

 『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』(以下『ミッパラ』)は如何にもなセットと如何にもな出演者、如何にもなフォントを使った、まあ平たく言えば『11PM』をオマージュした番組である。ぎらついたおっさんホストが女子アナやゲストにセクハラを飛ばしながら進行する、あの時代にありがちな構成だ。

 しかしながら、既に画面に違和感がある。どうも"当時感"が足りないのだ。私もあまりテレビという媒体に親しくはないので言語化は難しいのだが、何というか、現代の感覚を持ったままで当時を形だけ真似ようとした結果とでも言えばいいのか、昔のテレビはもっとドギツかった、という印象だけを覚える。

 あまり自信がないので煮え切らない書き方にはなるが、まずカメラアングルが当世風である。かつてのブラウン管テレビは解像度が低かったため、出演者の顔をロングで抜くことは稀だったと記憶している。出演者をひとり抜く場合、最低でも胸が写るかどうかという程度にはアップショットにしていた。そうしないと顔の造作が潰れて分かりにくいからだ。

 また、スタジオ背景の大理石風の柱の模様や机の手前に据えられた花の造形が見て取れるのもあまりリアルではないように思える。当時のテレビカメラの分解能がそこまで高かったとも思えず、なおかつこれは「一般視聴者が生放送番組を録画したもの」という設定の映像なのだ。確実に録画の時点でもっと映像は荒れているはずである。いや、もしかすると録画媒体がHi-Bandベータだったのかもしれない(実は作中でしっかり「VHS」と明言されているので、これは誤った推理である。ちなみにVHSの高画質規格媒体であるS-VHSが発売されたのは1987年なので、 1985年に終了した番組を録画出来たはずはない。我ながら重箱の隅をつつくような話であるな……)。

 寡聞にして知らなかったのだが、どうやら『ミッパラ』に入る前に『当時のニュース』として紹介された映像に表示されていた、テロップの明朝体フォントの時代考証も少し雑なようだ。繰り返すが、当時の番組は解像度の低いモニターで観ることが前提だったので、横画が細く潰れやすい明朝体を用いること自体がほぼなかったはずである。モニターの解像度が飛躍的に向上した現代でも、テレビでは基本的に「テロップ明朝」などと呼ばれる横画の太いスタイルの明朝体が用いられている。私の前提知識としてはその程度で、やや違和感があるな、くらいにしか思わなかったのだが、この評を書く前に少しだけ調べてみたところ「写研書体を使え!」という声がちらほらあった。みんなよく観てるのねえ。

 尤も、今挙げた映像の造作に対する違和感自体は必要悪であるとも言える。あまりにも高いクオリティで当時を再現してしまうと、予算だって嵩むだろうし、妙な勘違いをする輩が現れないとも限らない。見る人が見れば作りものだと一瞬で分かる作りが求められるのが、オーソン・ウェルズ以後のメディアの在りようである。私の母など、つい先日まで『TAROMAN』が1972年当時実在した特撮番組だと思い込んでいた。こういうことが起こり得る以上、一定の線引きはせねばならない。そこがテレビというメディア特有の、映画にはない窮屈さだと見ることも可能であろう。

 この『ミッパラ』内の視聴者ビデオ投稿コーナーから怪異はスタートする。他愛無い投稿映像達の中に、終始不気味な映像が1本紛れているのだ。

 古い長屋のような建物の玄関前で、坂谷に自身の方向音痴の悩みを淡々と相談する男。この映像がトリガーとなり、全てが狂い出していくのだが……。

 怪異の発端となるこの映像は、率直に言ってお粗末な作りである。チープかつありがちな映像加工に加えて、最早時代遅れを通り越して時代錯誤とも言えるサブリミナル・メッセージ風の演出が乗っかっており、お世辞にもホラーとして興味深いものではない。これに類する映像なら、YouTubeを覗けばウン千ウン万と見つかる。

 これは持論に過ぎないが、ホラーの発端というのは、些細なものであればあるほどよい。古い雑誌の広告。端の剥がれかけた壁紙。恋人とのドライブ。見知らぬ番号からの着信……そういったものに覚えてしまう好奇心、人間が誰しも持つそのちょっとした好奇心が、あれよあれよと転がり続けて雪だるま式に肥大し、思いもよらなかったような破滅的な結末を迎える。そうであればこそ、ホラーは生活の中の様々な心の隙間に芽吹き得るのだ。

 そういう意味で言えば、この映像は異常過ぎた。男が訳の分からぬことを淡々と、かつ繰り返し述べる異様な光景をロングショットで撮っているだけで、発端としては十分に怖いはずである。なのに、そこに陳腐な映像加工やサブリミナル・メッセージ風のあからさまな演出が乗ってきてしまうので、鑑賞者は「あっ、ハイハイ、そういう感じね」と身構えてしまう。せっかく面白い題材と最高に不穏なシチュエーションを揃えているのに、これでは勿体ないことこの上ない。

 ちなみに、ここまでが第1夜の中盤ほどである。本作が3夜にわたる連続放送で、なおかつ1本の尺は25分に過ぎないと分かっていても、流石に飛ばし過ぎだったのではないかと思ってしまう。確かに、予め架空の番組をひとつでっち上げ、ダラダラと古い時代のテレビのノリを鑑賞者に見せつけておいたほうがその後の流れがより自然になるとは思うが、何かしら理由をつけて番組部分をカットし、もう少し丁寧にホラー部分を描くことは出来なかったのだろうか。また発想を逆転させれば、3回分の尺を生かしてあえてダラダラと番組部分を続け、発端の映像そのものが持つ異物感を高めることも選択出来たはずである。最初からトップギアに入れて発進したら、エンストしますよ。

 続く第2夜は、もうのっけから様子がおかしい。『ミッパラ』ホストの坂谷は挙動不審であり、ビデオ投稿コーナーには夏の恐怖特番で見るような、あからさまな恐怖映像ばかり流れる。次第に他の出演陣にも意味不明な発言が目立つようになっていき、ついにはその狂気がモニターで『ミッパラ』を観るいとうや井桁にも伝染する。当初坂谷のセクハラ気質を露骨に嫌がっていた井桁が『ミッパラ』を称賛し始めたり、いとうが尋常ではない目つきのまま無言でカメラが切り替わるなどの異様な演出が挟まり始める。

 ……何度でも言っていこう。質の悪いホラーは、主としてブレーキが壊れているのである。緩急の付け方に失敗していると言うべきか、恐怖の割合をアナログ的にではなく、いきなりデジタル的かつ過剰に増やしてしまっているので、第1夜でダラダラと番組パートを見せた意味が霧散した。私はこれらを連続して鑑賞したが、実際には一晩ごとの放送だったのだからより始末が悪い。連続性の構築にここまで失敗していると、リアルタイムで鑑賞した者は軽く置いてけぼりを食ったのではないだろうか。

 そして迎える第3夜。いとうらも『ミッパラ』も、狂気に支配されて連綿と言葉遊びを続けるだけの存在になっている。物語はここで完全に破綻した。第2夜が地獄の超特急だとすれば、第3夜は地獄のリニアモーターカーである。こうなってしまうと、そこには恐怖もクソもへったくれもない。内容にしたって一見では全く理解が追い付かないので、面白さも皆無である。さっぱり理解出来ない異様な映像が25分流れ続けるだけと形容してもよく、端的に言ってやり過ぎだ。不条理劇のほうがまだ明快である。どのみちゴドーは来ないのだから。

 

 今この評を書くために再び本作を観直しているが、いい加減うんざりしてきたので、本作が映像作品として抱える問題点をいくつか洗い出しておきたい。

1.メタフィクション/フェイクドキュメンタリーと、投げっぱなしの脚本の相性の悪さ。

 冒頭でも書いたが、虚実をないまぜにし、その境界線を滲ませることで、初めてメタフィクションは仕掛けとして成立する。それがホラーである場合、実際性を担保に恐怖を描いていると言い換えることも出来るだろう。その前提が破壊されてしまうと、恐怖だけがあからさまな異物として周囲の現実と断絶されたまま存在することになってしまう。これはメタホラーというより、むしろパニックホラーや、モンスターホラーなどといった文脈に近しい。

 即ち、(人間に理解出来るかどうかは別として)恐怖にも何らかの因果律が存在し、何らかの理屈に則って動いているのだ、ということがほんの僅かにでも明示されない場合、それはメタホラーにおいて、恐怖を描いたことにはなり得ないのである。

 ところが本作の脚本は、基本的に投げっぱなしだ。まずあり得ないことが起こり、順を追って起きたことだけが列挙され(初手からあり得ないことが起こっているので、ここで起こることも総じて無茶苦茶だ)、手掛かりこそ与えられている気配はあれども、その解釈は一切明かされない。

 私はこの構造に強い既視感がある。それは主に2000年代から2010年代初頭まで、2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)上に花開いた、所謂「2ch怪談」文化だ。

 携帯電話をはじめとした小型の情報端末が爆発的に普及したことで、怪談は「聞くもの」から「体感するもの」へと変貌を遂げた。現在進行形で奇妙な体験をしていると称する人物が実況スレッドを立て、それを不特定多数の人々がリアルタイムで読み書きし、怪異を疑似的に体感する。そのような中で生まれた怪談の代表は『消えたとてうかぶもの・?』(初出:2002年)『きさらぎ駅』(初出:2004年)などだろうが、これらの怪談にはサゲがない。基本的に語り手はどこかで書き込みをやめてしまうか、スレッドがコメント上限に到達していなくなってしまう。

 つまりこれらの怪談の恐怖とは、起点となる出来事からエスカレートしていくものではなく、それ同士の関連性すら担保されぬままに乱発されていく「単体の変事」であり、現実と地続きであろうとして描かれるものではない。ここで物語のメタ性を担保しているのは、語り手が今まさに書き込みを続けている(あるいは、書き込みをやめてしまった)という即時性だけなのだ。意地悪な表現をすれば、それを発表する場の構造に全面的に依拠して、本来メタフィクションがメタフィクション足り得るために割くべき労力すら軽んじ、疎かにしていると言ってもよい。

 人間の恐怖の正体とは、突き詰めてしまえば「理屈付けを拒否されること」の一点に限られる。我々は訳の分からないものを恐れる。だからこそ物事に名前を付け、理解しようとし、対策を立てようとする。 ホラーとはその過程を描くエンターテインメントであって、即ち「理屈は分からないが、何かがそこにある」という主題は、到達点ではなく出発点でなければならない。

 要するに、本作のように"2ch的"な「理屈は分からないよ」という開き直った到達点を持つホラーは、そもそもホラーというジャンルに必要とされるストーリーテリングから逸脱しているのである。即時性に担保された恐怖というものも、インターネット上の書き込みやテレビ放送などとの相性はいいのだろうが、それがコピペ化したりソフト化・配信されたりすると同時にメタフィクションとしての足場が崩れ、輝きを失ってしまうのだ。

 

2.即時性に担保された恐怖と、再鑑賞を前提としているとしか思えない演出の相性の悪さ。

 繰り返すが、本作は3夜連続でテレビ放送された映像作品である。そのコマーシャルは慎ましやかで、ちゃんと読めばある種異様ではあったものの、事前の宣伝だけでは本作がフェイクドキュメンタリーだと気付けない人がいたとしても何らおかしくはない程度のものだった。つまり、制作陣は本作を予備知識なしに鑑賞する人がいる可能性に気付いていた、むしろそのような鑑賞者を求めていたと言ってもよい。

 そのような鑑賞者が本作を観た場合、仕掛けられているフックや伏線、手掛かりを一見のうちに気付くのはほぼ不可能だと断言できる。そのような演出をふんだんに取り入れている、つまり再鑑賞を前提にしているのにも関わらず、脚本は前述のように即時性が担保する恐怖に大きく依存しているため、そのミスマッチがどうにも居心地悪く、ちぐはぐな印象を覚える。

 何度も鑑賞して推理を組み立てる必要がある映像作品が悪いとは言わない。しかし、本作はフェイクドキュメンタリーであることに拘る余り、(本作の録画すらしていなかったであろう)一見の鑑賞者を蔑ろにしてしまった。カタルシスを求めて第3夜まで観たところで、何ら解決を見ない底の破れた脚本である。彼らの頭にはクエスチョンマークがぎゅうぎゅうに詰まっていたことだろう。

 もしこの作品自体が、あえてカタルシスを提供しないことで、見逃し配信サービス等へ誘導するためのマーケティング戦略だったとしたら……それは流石に悪辣な手腕だと言わざるを得ない。まあこんな推論は半分陰謀論に過ぎないのであって、私も普段であれば"ハンロンの剃刀"の例えを引いて一笑に付しただろう。だが、放映後の外部サービス・SNSへの露骨な誘導を鑑みると、ひょっとして、ひょっとすると、ないセンではないのかも……と思えてしまうのが、一度芽生えた疑念の恐ろしいところである。制作の人そこまで考えてないと思うよ……多分。


3.放映後の騒動に見るコンプライアンス意識の低さ。

 これは本作の出来とは直接関係のない話だが、放映当時ちょっと炎上していたのも記憶に新しいので、軽く触れておかざるを得ない。

 その顛末はこうだ。第1夜の放送終了直後、Wikipediaに『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』項が作成されていたのである。勿論『ミッパラ』は本作のために考案された架空の番組であり、実際に放映されていた事実はない。おそらくメタフィクションとしての箔付けのために作成したのだろうが、架空の番組の情報が特筆性の基準を満たす訳もなく、項は即時削除された。同じ項はニコニコ大百科にも作成されており、いずれも番組がフィクションであることを一切明記しない状態だったために、大いに批判されてしまったのである。

 その後、ニコニコ大百科に作成された項は第3夜放送終了後に白紙化されたが、フォーラムでの議論を経ないでの白紙化もポリシーに反する行為だったため、再び批判されることになった。

 メタフィクションの箔付けとして実際にサイトや掲示板を立ち上げるのはよくある手法で、前述のように『ブ(以下略)』は本編の他にドキュメンタリー番組まで撮影していたし、本邦でいうと(テレビゲームだが)『SIREN』(2003年/ソニー・コンピュータエンタテインメント)が発売前に掲示板や考察サイトを立ち上げていた。最近のところで言えば、書籍『変な絵』(雨穴、双葉社/2022年)の作中にて取り上げられる奇妙なブログは実在している(著者本人が数年分の記事を執筆したらしい)。

 しかしながら、自社で用意したドメインならまだしも「営利目的の使用がポリシーで禁じられている外部サービス」を使ってプロモーションを打つというのはあまり、というか全く褒められた行為ではない。よく考えないで使ってしまったのだろうか。外堀を埋めておきたがる癖も大概にしておくべきである。

 

 以上が、本作が抱える問題点である。

 単純に意識の低さに起因するのであろう3はともかく、1と2で挙げたような脚本と演出の二律背反は一体何によるものなのだろうか。

 私が思うに、それは構成を担当した梨と、演出統括・プロデューサーを務めた大森時生の作風のミスマッチが原因だったような気がする。

 梨は2ちゃんねるにルーツを持つ作家であり、言葉は悪いが投げっぱなしのストーリーを多く書くらしい(私は姓名の別のないペンネームを使うホラー作家をあまり信用していないので、詳しくは知らない)。作品のメタ演出として、外部サイトを用いた外堀埋めを行うこともあるようだ。

 大森時生はこれ以前にもフェイクバラエティ番組を手掛けた経歴があるようで、そちらは(外部サービスによる配信だったようだが)解決編とでもいうべきパートが存在しているらしく、前述した定義に照らせばメタフィクションとして守るべきラインはしっかり守っていたように思える。その一方で「番組の割と早い段階から不自然な編集が目立ち、フェイクであることが露呈していた」という感想もちらほら目についた。これは第二のオーソン・ウェルズを生み出すまいとするテレビ的倫理観によるものではないだろうか。

 つまり、本作は「連続性・因果律よりも変事そのもののインパクトを重視し、作品単体での実際性の担保をおざなりにしがちな脚本家」と「一見の視聴者にもこれがフィクションだと理解してもらえるようわざと粗い作りにはしたいが、ある程度筋を通したい演出家」の、それぞれの悪いところが出てしまった悲しきマリアージュだったのである。


 2000年代のインターネットは、まさに未来だった。清濁併せ呑む混沌の滾る、無限の沃野だった。"Web2.0が夢の跡"を生きる現代の我々が振り返れば、眩しく思えるような時代──その特性を色濃く反映して生まれてきた種々の怪談達と、それらに覚える憧憬には私も敬意を表したい。

 しかしながら、そのストーリーテリングの手法を語るとき、時代性というものに無関心ではいられないはずである。 かつて我々が恐怖した怪談は、その場に相応しい形だったからこそ恐怖を保てたのだ。その在りよう、作話法が万能論である道理はない。果たして我々は「恐怖の作り方」をアップデート出来ているだろうか?

 恐怖とは、人間の最も根源的な感情のひとつである。それ故に直接的なアプローチは殊の外容易い。箸にも棒にもかからないような出来のクズホラーが、星の数ほども存在している理由はこの辺りにある。手っ取り早く人間を揺さぶろうと思ったら、安直に恐怖をぶつけてやればよいのだから。

 そのようなホラーの鑑賞は、基本的にとても空しい。制作陣の「どうだ、怖いだろう」という悲鳴じみた空威張りが聞こえるだけで、ホラーはおろか、娯楽としても失格と言わざるを得ないような頓珍漢な作品にも時折ぶつかることがある。このような味のないナタデココをわんこそば方式で食べるかの如き、膨満感ばかりが募る体験は、決して質の良いものとは言えないだろう。同じ金を払うのなら、量より質を求めたいと思うのは当然だ。

 つまり裏を返せば、直接的アプローチにNoを突き付け、あくまでもアプローチを工夫し探求することこそが、ホラーをホラー足らしめる基本にして神髄、恐怖を正しくエンターテインメントに仕立て直す魔法なのである。本作がブラフのテーマに据えていた「昭和の昔と現代の対比」に寄す訳ではないが、いつまでも平成の残り香を追い続けるようなメタホラーの在り方には疑問を呈したい。そして現代に即した形のメタ演出とは、Wikipediaを広告塔に使うようなものではないはずだ。まあ今回のことで制作陣も懲りたであろうし、次回はそのような失態はないだろう。多分ないと思う。ないんじゃないかな。まあ、ちょっと覚悟はしておけ。

 

 テレビ放送でフェイクドキュメンタリーを制作しようという気概は手放しで評価したい。繰り返すが、テレビはその性質上第2第3のオーソン・ウェルズを生み出しやすいのだ(例えば、エイプリルフールにフェイクドキュメンタリーとして制作された『第三の選択』《1977年/アングリア・テレビジョン》は放送日がずれ込んだこともあり、放送直後から視聴者の問い合わせが殺到したらしい。本邦では翌78年にフジテレビが深夜帯で放送したが、こちらも視聴者の問い合わせが殺到したという)。

 不穏なビデオ映像を主軸に物語を展開させる、という発想も悪くないだろう。『女優霊』(1997年/ビターズ・エンド)『リング』(1998年/東宝)などの例を引くまでもなく、VHSの荒れて白飛び・黒潰れした画面に、ホラーの演出として代えがたい魅力があることは認めざるを得ない。

 しかしながら、全編を通じて演出の緩急の付け方がおかしく、題材の良質な不穏さをカタルシスの望めない脚本が生かせているとも言い難い。演出がヒートアップすればするほど、鑑賞者の心は離れ、醒めていく。矢継ぎ早に異様な光景を見させられたところで、募るのは膨満感ばかりであり、そこに恐怖はない。取り合わせは良かったのにねえ。全ての現象に「既に狂気に取り込まれているから」という理由をこじつけてしまうホラーは、夢オチ爆発オチに次いで酷い作りであると自覚してもらいたい。それがリアリティラインの設定に気を遣うべきメタフィクションであれば尚更である。本当に残念でしたなあ。

2023年9月17日日曜日

トウモロコシの帝国主義

 突然だが、私は映画が好きだ。基本的にはそのはずである。本邦の人口のうち、年に1本以上映画館で映画を観る人は50%に満たず、2~3ヶ月に1本以上のペースで映画を観る人はなんとたったの16%である。私は嗜好の幅が極端に狭く、なおかつ無職で自由になる金が心許ないため、年4本以上封切り映画を観ることはかなり稀であるが、それでも過半数の人々よりはずっと映画を観ている計算になる。随分と低く思えるハードルではあるが、一応映画好きの末席を汚す資格くらいは貰ってもいいだろう。

 さて、その映画好きである私には、実際のところ星の数よりも多くの嫌いなものがあるのだが、その中で今論いたいのは、今や映画館とは不可分と言ってもよいあのスナック、ポップコーンである。

 何を隠そう、私は物心つく前からポップコーンが嫌いだ。あのくしゃくしゃとした緩衝材を食んでいるかのような食感、酸化してつんと鼻を刺す油の臭い、乾いたスポンジのように唾液を吸収するくせに、更に分泌させて口中に水気を補充させるには足りない塩気、口の中にいつまでも残り続けるトウモロコシの皮。何を思い出してみても最低で、舌の両脇が酸っぱくなってくる。こんなものをありがたがる連中の気が知れない。

 ある時など、同行者が何の確認もなく人数分のポップコーンを買ってきやがったために無理に食べさせられることとなり、その結果私は鑑賞を中座してトイレで嘔吐する羽目になった。あの時はそもそも体調があまり優れなかったのもあるが、それを更に悪化させたのは言うまでもなくポップコーンである。私はこの時、例え家から遠く離れた出先の衆人環視の中にあっても、人間は両の鼻の穴から胃液が勢いよく噴き出すタイプの嘔吐が出来ることを知った。

 ここまで大々的にポップコーンのネガティブキャンペーンを張ってきたが、狭量な私とて、スナックやドリンクなどの飲食物のほうが映画そのものより利益率が良いことを知らない訳ではない。冒頭で挙げた統計でも分かるように映画人口は徐々に減少傾向にあり、また忌々しくもこの資本主義体制下においては利潤の追求は人間の至上命題である。好むと好まざるとに拘わらず、毟れるところから毟るのは当然だ。

 私も映画好きを僭称している以上、映画産業がゆっくりと経帷子を着て、墓場の方角へと徐行するのをただ手を拱いて見ているのは忍びない。映画産業の裾野は広くあってこそ、『フライパン殺人』を撮ったポール・バーテルのような奇才なのか変人なのか分からない人が出てくるのだし、商売として成り立つからこそ、まだ駆け出しだったポール・バーテルに『デス・レース2000年』を撮らせて後のキャリアを決定付けた、ロジャー・コーマンのような算盤づくの大興行師が一発当てにやってくるのである。映画産業の斜陽は、それら奇跡のような娯楽映画が生まれなくなることを意味する。まあ『フライパン殺人』も『デス・レース2000年』も、今日びまた生まれてこられたのでは困っちゃうような作品ではあるのだが。

 そこで、私は提案する。これ以上映画館から客足を遠退かせないためにも、ポップコーンは終売にすべきである。

 そもそも、映画を観ながら飲み食いをするのは行儀が悪いのではないか。映画館は無論映画を観るための場所であり、客は皆映画を観に来ているはずである。スナックをボリボリ貪ったり、既に空になった紙コップの底に溜まる僅かの水をズゴゴと音を立てて啜ったり、足を組み替えるたびに前の座席を蹴り飛ばしたりするための場所ではない。演劇やクラシックの演奏会などで同じことをやってもみたまえ。その後どうなるかは想像に難くない。大体、少し躾に厳しいご家庭であれば、今でも食事中にテレビや携帯を見ることはご法度とされているだろう。裏を返せば、テレビや携帯を見るときに食事をするのは無作法であるということになる。そのような行為が、「映画館だから」という理由だけで許されているのだ。

 これは由々しき事態である。いつの間にかこの瑞穂の国はシネコンによってアメリカナイズされ、我々の礼儀作法だとかマナーだとかモラルだとかいったものは地に堕ちた。そのくせAVの修正とピザやハンバーガーのサイズはいつまでもアメリカ並みにならないので全く情けない話である。

 昨今のカルトじみた憂国論風味の冗談はさておき、観客が映画館に映画を楽しみに来るのが当然である以上、映画館もその需要に対して真摯であってほしいと願うのは私だけではあるまい。映画館が観客に提供するのは映画だけでよいのである。それ以上のサービスは全て過剰であり、米帝的資本主義が夢見た「豊かな生活」の、もはや腐敗し白骨化してしまった名残である。

 映画を最大限楽しむために必要なものは何か?大きなスクリーンである。ご家庭では到底望むべくもない規模の音響である。最低120分程度は快適に座っていられる座席である。それだけだ。スナックやソーダスタンドは必要ない。

 考えてもみてほしい。誰しもが手元の端末ですぐに何でも望む映像を観られるようになった昨今、映画館に求められているのは「映画を観るしかない状態」にさせてくれる装置としての性格である。下世話な諸兄らが二次元のキャラクターを詰め込んでニヤニヤする、「セックスしないと出られない部屋」の亜種とみてもよい。「映画を観ないと出られない部屋」である。何かと情報も誘惑も過多で、ともすれば何もかもと中途半端な姿勢で向き合ってしまいがちな現代人には、これくらいストイックに何かに向き合うことを強制してくれる存在が必要とされているのである。

 映画は19世紀のフランスで生まれた。 アメリカの発明品ではない。それ故か、フランス人の映画に対する姿勢は真摯である。年に300本ほどしか新作が撮影されないのにも関わらず、国の映画産業に対する助成は年間約800億円に上るらしい。ちなみに本邦のそれは60億円/600本程度である。道理でフランス映画は難解で底が抜けているくせに金のかかった画面作りになっている訳だと膝を打つが、そんなフランスにはシネコンや鑑賞中に飲み食いすることへの反発から、飲食物を一切売らない映画館があるらしい。何と素晴らしいことだろう。

 以上のフランスの話は、本邦のどこかにはポップコーンを売らない封切館があるのではないか?という一縷の望みに賭けて検索したところ引っかかってきた記事からの受け売りである。なお、本邦においてそれを売りにしている封切館は見つけられなかった。悲しいことである。もしあったとしても、それらは大体独立系のミニシアターであり、信条よりも立地や物理的な条件から飲食物を売らないのであって、もしそれらの理由が何らかの形で解決を見ればすぐにでも飲食物を売り始めるであろうことは想像に難くない。

 私が扉を開けた途端に充満したポップコーンの臭いにやられないで済む映画館が本邦に現れるのは、一体いつになるのだろう。もしそれがいつまでも実現しないのなら、私は喜んで映画産業の野辺送りをせっつき、後押ししてしまうかもしれない。

2023年3月24日金曜日

人類機嫌

  近頃、怒りっぽくなってきたのである。

 仔細は述べないが、実際のところこの半年の間に私は多くのものを失い、加えて無職であるのにも関わらず貯えのほぼ全てを使い切ってしまった。端的に言って余裕がなくなってきたのである。

 私もただ徒に無職というモラトリアムの惰眠を貪っていたわけではないのだが、それでも私の精神が安定していたのはそのモラトリアムのなせていた業であって、その終わりが地平線の上に見えてきたとなれば焦りもするし怒りもするし、心から余裕というものがなくなっていくのも無理のない話だと思う。

 今の私はもう毎日が大変だ。朝起きて目覚ましが鳴るよりも早く起きてしまったことを呪い、一丁前に腹が減ることを恨めしく思い、何か予定が入っていれば(というより目覚ましをかけている時点で確実に何か予定が入っているのだが)その時間まで尻が落ち着かず胃が痛くなり、いざ一日が終わってみればこの手に何も残っていないことに絶望している。感情は常に生活に振り回されっぱなしで、ジェットコースターという形容ではもはや生易しい。これがジェットコースターであれば、既に死人が出ていても何らおかしくない設計だ。入園者と退園者の数が合わない恐怖のテーマパークへようこそ。

 びんぼうソフトが開発したゲームのようなテーマパークはさておき、インターネットでは「自分の機嫌は自分でとる」というお題目が金科玉条のように振りかざされるようになって久しい。久しいのだが、未だにインターネットは何かに怒っているのが常である。誰も自分の機嫌を自分でとったりなどしていない。

 そもそも、こういったマインドフルネス的な手合いが信用ならないのは、自律の文脈で他責をやりやがるところである。「自分の機嫌は自分で」と言えば聞こえはよいが、実際にやっていることは「自分の機嫌も自分でとれないなんて!」と他人を非難することだけだと言っても過言ではない。少なくとも私の肌感覚ではそうである。

 往々にしてマインドフルネスというものは、その性質上、それぞれの自尊心をブクブクと飼い太らすことに遠慮というものがない。そして自尊心を手っ取り早くムチムチパンパンのワガママ腸詰ボディちゃんにするためには、他者を見下すことが一番なのである。

 実際にはそれ以外の方法もあるだろうし、そちらのほうがより推奨されているのだろうが、見えている近道を無視してあえて険しく長い道を進むというのは、どうやら人間には難しい行いのようだ。頑なに近道をしないのは、この世でアリンコくらいのものだろう。よく仕事にうつつを抜かす様をして「俺なんて働きアリだよ」などと宣う輩がいるが、隙さえあれば体よくサボろうとする我々人間がアリンコを僭称するとはなんとも不遜な話である。我々はそのあたりの誠実さにおいてはアリンコ以下であることを強く胸に刻んでおいてもらいたい。

 やっている側が大方そんな姿勢である上、一聴には聞こえのよいマインドフルネス的思想を正面切って批判する勇気のある者は多くないがために、これらの人類見下し健康法はあまりにも無邪気に人口に膾炙しているのである。 そのため彼ら彼女らの元々厚い面の皮は更に厚くなっており、叩いて伸ばせばその面積はテニスコート3面分にも及ぶとされる。

 人間が他人の心の在り方を自由にしようなんておこがましいとは思わんかね……と本間先生がギリギリ言っていそうで言っていないセリフを引用しそうになるが、自分の心を守るために他人を見下すことは、無論それだけでは犯罪ではない。それで守れるものがあるなら、別に悪いことでもないとすら思う。しかしながら、それを美辞麗句で粉飾し、あたかも善行のようにして推奨・強制するのは人道に反するだろう。一見して素晴らしい行動指針も、よく考えてみれば特定の集団を排斥する目的が隠れていたりすることはよくある話である。分かったかいマックス。

 他人の不機嫌を外力によって矯正する社会の果てに、住みよい世界が広がっているとは私には到底思えない。かつてキレる若者達と呼ばれた人々が歳を重ねた結果キレる中年達になっている今、他者の感情を矯正しようとするのは不可能であり、不可能でなければならないことを今一度認識しなおしたいところである。

 以上、キレる無職の雑文であった。

2023年2月5日日曜日

30億のデバイスで走る憂鬱

 大変なのである。

 先月の末頃から、パソコンの調子がおかしいのである。具体的には開いているウィンドウのフォーカスが勝手にはずれ文字入力が吹っ飛んだり、省電力状態から勝手に復帰したり、タスクバーが立ち上がらなかったりする。

 諸兄らも十分存じているように、私は日常の割と大きな比率をパソコンの前で過ごす無職である。もしかすると無職ではないかもしれない諸兄らのために補足しておくと、無職の日常は無職なりに忙しい。なまじ実家に寄生している場合、何かと気を揉むことも多く、発言権を拡大するには不断の努力と地道な根回しが必要になる。一つ屋根の下に暮らす血を分けた家族であるにも関わらず、対等なパワーバランスはそこに望むべくもない。

 長々と書いたが、別に私はこの雑文で無職の待遇改善を訴えたいなどと大逆無道なことはこれっぽっちも考えていない。これを書くのは、ひとえに前提知識として知っておいて欲しい、という動機でしかないのである。大体、私は他の無職達と比較すればかなり待遇がいいほうだ。欲を言えばキリがないが、そんなこと口にするのもおこがましい身分である。

 しかしながら、残念なことに、人が無職と見れば暇だろう退屈だろう働けなくてかわいそうだろうと思い込む向きは未だに根強い。いっそここではその答えを書いてしまおう。そんなことはない。そんなことはないのである。無職であるが故の種々の制約は勿論あるが、日々はそれなりに忙しく、それなりに充実しており、なにより大体楽しいのである。仕事の覚えが悪いために何をやっても怒られ、それに起因する自己否定との間に板挟みになり、毎日のように晒されるセクハラまがいの物言いに背中を押されて駅のプラットフォームフェンスから身を乗り出しそうになっていた日々とは雲泥の差だ。無職を退屈でつまらないものだと思う人は、おそらく恵まれた職場に勤めているのだろう。私はそうではなかった。それだけの話である。

 さて、このパソコンはまだ社会人だった頃の貯金が少しだけ残っていた時に購入したものである。もう数年前のことであり、当時はこの長引く半導体不足や物価高など勿論微塵の気配もなく、だからこそ私の少ない蓄えでも、所謂ゲーミングPCというやつを購入出来たのだ。性能的には、当時で中の中か下くらいのものだったと記憶している。

 それからというもの、細々としたトラブルを多数対処しながら使ってきた。曰く、液晶ペンタブレットが動かない。動いても動作が安定しない。クーラーファンから異音がする。ゲームがハングアップする。やっと動いたかと思えば終了出来なくなる。実際にはメモリには十分な余力があるにも関わらず、ブラウザを使っているだけでメモリ不足のアラートが出る。突然一切の入力を受け付けなくなる。モニタが全く映らなくなったこともあった。

 ……こうして書き出してみると、まともに動いていた時間の方が短いように思えてくる。実際のところはそうでもないのだろうが、体感としてはずっと癇癪持ちの気まぐれな生き物をなだめすかしながら扱ってきたような気分だ。それでもずっとこのような苦行に耐えてきたのは、私にはこのパソコンしかなかったからである。

 このパソコンを購入してからこちら、私は単発的なアルバイトを除けばずっと無職だったし、時折得たあぶく銭もパソコンを購入するには全く足りなかった。その上私は余暇のほぼ全てをパソコンにつぎ込み、己の創作的な側面を全てそれに依存している。楽曲の製作も、イラストの制作も、小説の執筆も、勿論この雑文を書くのも、全てはパソコンで行っていることなのである。そのうちのひとつとして金になったことはないので、勿論全く趣味の範疇であるが、人はパンのみにて生くるものに非ず、パソコンがあったからこそ私が得られたものは大きい。

 そして今、私の愛すべきパソコンは息も絶え絶えに、断末魔を迎えんとしているように思われてならない。根拠はないのだが、強いて言えば、今までの細々としたトラブルは全て解決出来た。それなのに今回のトラブルはどんなに潜れども解決策が見えてこないのである。だからこそ、寿命が近いのではないかと思えるのだ。

 既に重要なデータはバックアップを取り、作業途中の作品も出来るだけ外部ストレージに保存するようにしているが、終わりがいつ来るかは分からない。願わくば、次のパソコンを用意するまでなんとか生きていて欲しいのだが。

 パソコンのない生活など考えられない。それがゲーミングPCだった場合、尚更である。そのくせ、昨今の半導体不足と物価高によって、きょうび中の中くらいのスペックのパソコンを買うと、当時より3割ほども高いのだ。腹立たしい。

 私は既にパンドラの箱を開けてしまったのである。時折無職をやめることを考えるのは、主にこういった理由からだ。刺激がなくてつまらないとか、そんなことでは断じてない。無職は何年だって続けていられるが、パソコンのない生活は1週間と保たないのだ。私はどうするべきだろうか!辞書で「路頭に迷う」と引けば、そこには私の名が書いてある。

2023年1月31日火曜日

ノー・ウェイ・アウト

 端的に言って、行き詰まっているのである。

 私の嫌いな作家の話になるので恐縮だが、かつて「書を捨てよ、町に出よう」と言った人がいた。嫌いなものの話をするのは厭なものだが、それを読まされる諸兄らも厭だろうからさっくりと話を進めたい。

 実際に、こうして雑文を書いたり、たまに真面目な創作をしていると気付くのだが、自分の頭の中にしかないことがそのまま作品として結実してくることは滅多にない。大抵は、下敷きとなる事実・現象があり、そこに尾ひれや肉をつけ、あるいはすっかり換骨奪胎してしまったりして、物語というものは生まれてくるのである。つまるところ、その生産工程においては、現実が主であり、物語が従である。それが逆転することはあり得ない。諸兄らがどんなに自分が異世界でチヤホヤされる物語を書いたところで、現実の諸兄らが取るに足りない吹けば飛ぶよな将棋の駒以下の存在であることに変わりはないのと同じである。

 しかしながら、生きているだけで社会というものから迫害され、また自身が社会に害をなしていると思い込んでいるが故に、まともにお天道様の下ァ歩けねえやくざ者というのはいるのである。私である。こう聞けばまるで座頭市のようだが、座頭市のように現実に即すのではなく思い込みに即してやくざ者を自称しているだけであるのでそれほどカッコのよろしいものではない。ナイフを持っただけで強くなったような気がするナイーヴな少年と同じ次元である。

 そのようなネガティブとっつぁん坊やにとって、世界と触れあうことは多大な困難と高い障壁を伴う。その壁の高さをおそらく本当の意味では知らなかった寺山修司の――あっ、名前出してもーた!――の言は、一種の生存バイアス、ないしマチスモのようなものを感じるので好きになれない訳だが、折に触れこの言葉が正しいことを認識せざるを得ないので困るのである。

 人に読んでもらえる文章を書くというのはやはり難しい。私は実際のところ、読者を想定せぬまま、ある程度まとまった文章を書くということをほぼしない。それは私がまとまった文章を発表するということに一種の美学を反影させているからだが、独善を恐れる心理が働いていることも否定出来ない。そのような自意識が私に道化を演じさせ、ある種のサービスとして、ユーモアないし読者の関心を惹くコンテンツを出力させているのだ。

 そうなってくれば、より面白いものを出力しようとするのが書く者の当然の使命であり、それによって私は日々摩耗していく心に立った些かの漣を必死に膨らませ、あの手この手で形を整えた上で、針小棒大に騒ぎ立てることになるのである。

 残念ながら、この手の行為のコストはかなり高い。冷静に考えてみて欲しいのだが、数時間をキーボードを叩くことに費やし、誰が読むとも知れない雑文を背筋と根性を直角にひん曲げて書き続けることは、これはちょっとまともな行いとは言えないのではないか。数時間という暇があれば、人間というのはもうちょっとまともなことが出来るはずである。意味もなくトイレットペーパーを全部引き出したり、食べきれる訳もない量のカップラーメンを戻し続けたり、隣家の犬を秘密裏に夜の闇へと解き放ったりなど出来るはずで、その手の行為にかけてもよいはずの時間と情熱を、ひたすら画面を埋める文字を増やすことに費やしているのだからこれはハッキリ言って異常である。

 そして、そのような異常な愛情を注いで出力した文章でも、面白くなるかどうかは全く保証出来ないのだから悲しい話だ。まるで殊の外大量に注がれたパパとママの愛情が、それでもまだ足らなかった諸兄らの育ちのようであるな。やっていることは事実上博打であり、書いている文章がどう転がっていくのか分からないまま書いているのだから、私が文筆業を生業にすることは適わないのである。

 その点、(あえて通俗的な書き方をしてみると)下敷きとなる事実・現象が"強い"ものであれば、それほど書き手が策を弄さずとも、出力される文章は興味深く、面白いものへと収束していく。勿論書き手にはそれなりの語彙と文章力が要求されるが、ない袖を秒間5千往復させ続けるような私の出力方法に比すれば、それほど高いレベルの技術が必要だとも思えない。それは「下敷きになる物事の面白さ」という頑丈な基礎が最初にあるためで、それをきちんと文章に起こすだけの能力があれば、その上に建つものは半ば自ずから高く壮麗な建築となっていくのである。

 そして、そうした"強い体験"を自室から出ずに得ることは、残念ながらほぼ不可能だと言っていい。面白いものは常に外部に、世界に転がっているのであり、自室と自分の頭の中にあるのは「何を面白いと思うか」という枠組みだけである。いくら巧言を用いて説明したところで、枠組みでは読者の興味は惹けないだろう。ワールドカップの大会要項を読む人などいないように、枠組みそのものの構造に興味を抱く者は建築学者くらいのものである。

 そのため、我々は渋々、町へ出ることになるのである。渋々町に出て、渋々面白エピソードを探すことになるのである。しかしながら世界というのは殊の外残酷なもので、興味を持ってくれる者にしかその価値を知らしめてくれない。誰にでもニコニコしてくれる、ハンバーガーショップの接客とは訳が違うのだ。社会を害し社会に害される、まるで豆腐で出来た鈍器の如き私には、おいそれとその素晴らしさを覗かせてくれたりはしないのである。

 すなわち、私のような人間が日常の中でそのような頑丈な基礎となり得る体験をすることは、これまた絶望的であるのだ。我々の日常は無味であり、空っぽであり、乾燥していて、全く八方塞がりである。何かに腹を立てることだけが生活と言っても過言ではない。そのような生を享受しておきながら、感性を瑞々しく、アンテナを高く保ち、怒りを覚えずにいることは、半ば苦行である。

 こうして私は得がたいものを得たいと願いながら、何も得られずに秒間5千回でない袖を振ることになる。探しているのがほうき星であればBUMP OF CHICKENにもなれただろうが、実際のところ血眼で探しているのは面白エピソードでしかないので、なれるのはせいぜい高周波振動子である。否、秒間5千回の振動、すなわち5kHzでは高周波振動子にもなれない。高周波振動子の出力は低いものでも15kHz程度が下限なのだ。5kHzという周波数は、音波にすれば人間の可聴域すら外れていない。

 妙に数字に細かい冗談はさておき、もはや私の感性は枯れかけつつある。日常の中にあって書けるものはもう書いたのではないかとすら思う。季節柄独りで外出することも減っており、外出したとて古道具屋で珍しいギターを見たとか、酷い運転の車に出会って腹が立ったとか、そういった経験しか得られない。

 面白エピソード入手の壁は、厚く高い。これを産みの苦しみと言うのであれば無理矢理にでも溜飲を下げるしかないのだが、寺山修司が草葉の陰で私をあざ笑っている気がするのでそれも難しいのである。

2023年1月8日日曜日

運気消失マジック

 おみくじを引いたのである。

 年始である。騒乱の内に師走は過ぎ去り、みかんだの酒だのといった季節性の飲食物が次々と着弾し、『ゆく年くる年』が除夜の鐘を高らかに打ち鳴らして2022年は過去のものとなった。

 昨年は11月頃からなんだかんだと諸事情が重なりあって、12月が特に早く過ぎ去ったように思えてしまう。何ならまだ11月のような気すらしている。もしかしてこれが噂に聞く老化だろうか。私はまだまだ若輩であるが、年長者はこれ以上のスピードで1年が過ぎ去っていくのだろうか。恐ろしいことである。もとより君のいない世界のスピードにもついて行けない私のこと。きっと気が付く間もなく老いさらばえて野垂れ死ぬことになるのだろう。

 さて、お祭り騒ぎが大好きすぎるあまり、信心も節操も数千億土の彼方へ投げ出して年がら年中馬鹿踊りをする我々一般的な日本人が、年明けにやることと言えばそう初詣である。初詣ったら初詣である。気合の入った連中は年の明ける前から寺社に並ぶそうだが、それに付き合わされる神々も、真夜中から大挙して訪れてくる氏子を名乗る馬の骨の相手をさせられてかわいそうである。これがかわいそうでないとして何だというのだ。訳の分からん風習のせいでやる羽目になる深夜勤務というものは、筋が通っていないだけに往々にして苛立ちが募るものである。もし私が神であったならば、夜も明けぬうちから住処にやって来て身勝手なことを捲し立てる氏子など、舌打ちして片っ端から神罰の優先執行権をプレゼントするところだ。

 実際のところは私は無神論者かつ合理主義者であり、ありとあらゆる類いの信仰を否定的な目線で見ている。民俗学的な意味での信仰のあり方にはそれなりに興味があるが、それはあくまで学術的興味に過ぎず、自分がその中に組み込まれることは想像しがたい。つまるところ、1月になれば寺社へ赴くのも、護符を買うのもファッションの一環なのだ。私は普段持ち歩く鞄やギターなどに厄除守をぶら下げているが、それらに何かしらの御利益を期待することはない。それがファッションだからである。しかしながら、それゆえに私は信心のあるふりをせねばならないのだ。なぜなら、往々にしてファッションをファッションだと覚られてしまうことは一番恥ずかしいことだからである。伊達酔狂でファッションをやるのも楽ではない。

 そんなわけで、私は最寄りの神社にやって来た。無信心なので勿論日も高くなってからである。三が日ですらない。無信心なので賽銭箱には10円玉を放り込んだ。財布の中にあった最も少額の貨幣だからである。無信心なので祭神が何かも知らない。無信心なので本当は参拝をするつもりもなかったのだが、私ほどドライな無神論者ではない家族が参拝しない訳にはいかないと言うので、仕方なく付き合ったまでのことだ。

 私の目的はあくまで護符を買うことと、おみくじを引くことにあった。無信心の合理主義者がなぜおみくじを?と思う向きもあるかも知れないが、これは所謂ご祝儀である。来年から護符を買う場所がなくなられても困るのだ。無論宗教法人である寺社はそうそうなくなったりはしないが、その程度の義理を通すくらいの融通は私にだって利かせられる。それに、きょうびのおみくじは何かしらの付加価値がつけられていることが大半である。勾玉だとか、金メッキの縁起物だとか、そういうチープな付加価値を愛でる気持ちは私にも備わっている。俗に収集欲とか、射幸心とか言われるようなものだ。

 私は今回、小さなホーロー引きの鈴がついたおみくじを選択した。代金を支払い、箱の中からガサガサと 1枚を引く。長い紙を広げてみると、まず最初に「大吉」という文字が目に入った。

 それなりに生きてきて、年始に大吉を引いたのは初めてである。終わりだ。今年の運を既に使い果たした。内心「これじゃ初詣じゃなくて終詣だよトホホ~!」などと唸りながら、その下に書かれている文言を読む。それは要約すれば下記のような内容であった。

「まあどちらかと言えば絶好調だけど、調子に乗ると全てを失う」

 これが大吉の内訳と言えるのだろうか。人の運勢というのは私が思っていたように使い果たすものではなく、そんなリスキーなゼロサムゲームなのか。だとすれば私の運は既にこのおみくじを引いたことで発揮されており、後はその帳尻を合わせるばかりではないのか。大体「どちらかと言えば絶好調」とは何だ。調子とはそんなにまだらでモメンタリなものだろうか。桃鉄ですらオルタネイト式のバフであったぞ、絶好調。

 よい内容のおみくじは持ち帰るもの、と聞いているので、とりあえず私はおみくじと鈴とをポケットに突っ込み、隣町まで買い物に行くことにした。途中で昼食をとり、帰ってきたのが4時間後だったのだが、家に着いてポケットを改めるとおみくじは既に消えていた。

 いくら無神論者と言えど、これはちょっと不吉なものを覚えざるを得ない。大体、いつ落としたのかも記憶にないのだ。ポケットに穴が開いているでもない。おみくじだけが忽然と姿を消してしまった。

 本当に、まるきり終詣である。頼みの綱は護符と、残った鈴だ。私としてはファッションのつもりだったのだが。年始から大吉を引く、という幸運を打ち消す小出しの不運に襲われ続ける予感に震えつつ、この雑文も終わっていくのである。