2023年9月17日日曜日

トウモロコシの帝国主義

 突然だが、私は映画が好きだ。基本的にはそのはずである。本邦の人口のうち、年に1本以上映画館で映画を観る人は50%に満たず、2~3ヶ月に1本以上のペースで映画を観る人はなんとたったの16%である。私は嗜好の幅が極端に狭く、なおかつ無職で自由になる金が心許ないため、年4本以上封切り映画を観ることはかなり稀であるが、それでも過半数の人々よりはずっと映画を観ている計算になる。随分と低く思えるハードルではあるが、一応映画好きの末席を汚す資格くらいは貰ってもいいだろう。

 さて、その映画好きである私には、実際のところ星の数よりも多くの嫌いなものがあるのだが、その中で今論いたいのは、今や映画館とは不可分と言ってもよいあのスナック、ポップコーンである。

 何を隠そう、私は物心つく前からポップコーンが嫌いだ。あのくしゃくしゃとした緩衝材を食んでいるかのような食感、酸化してつんと鼻を刺す油の臭い、乾いたスポンジのように唾液を吸収するくせに、更に分泌させて口中に水気を補充させるには足りない塩気、口の中にいつまでも残り続けるトウモロコシの皮。何を思い出してみても最低で、舌の両脇が酸っぱくなってくる。こんなものをありがたがる連中の気が知れない。

 ある時など、同行者が何の確認もなく人数分のポップコーンを買ってきやがったために無理に食べさせられることとなり、その結果私は鑑賞を中座してトイレで嘔吐する羽目になった。あの時はそもそも体調があまり優れなかったのもあるが、それを更に悪化させたのは言うまでもなくポップコーンである。私はこの時、例え家から遠く離れた出先の衆人環視の中にあっても、人間は両の鼻の穴から胃液が勢いよく噴き出すタイプの嘔吐が出来ることを知った。

 ここまで大々的にポップコーンのネガティブキャンペーンを張ってきたが、狭量な私とて、スナックやドリンクなどの飲食物のほうが映画そのものより利益率が良いことを知らない訳ではない。冒頭で挙げた統計でも分かるように映画人口は徐々に減少傾向にあり、また忌々しくもこの資本主義体制下においては利潤の追求は人間の至上命題である。好むと好まざるとに拘わらず、毟れるところから毟るのは当然だ。

 私も映画好きを僭称している以上、映画産業がゆっくりと経帷子を着て、墓場の方角へと徐行するのをただ手を拱いて見ているのは忍びない。映画産業の裾野は広くあってこそ、『フライパン殺人』を撮ったポール・バーテルのような奇才なのか変人なのか分からない人が出てくるのだし、商売として成り立つからこそ、まだ駆け出しだったポール・バーテルに『デス・レース2000年』を撮らせて後のキャリアを決定付けた、ロジャー・コーマンのような算盤づくの大興行師が一発当てにやってくるのである。映画産業の斜陽は、それら奇跡のような娯楽映画が生まれなくなることを意味する。まあ『フライパン殺人』も『デス・レース2000年』も、今日びまた生まれてこられたのでは困っちゃうような作品ではあるのだが。

 そこで、私は提案する。これ以上映画館から客足を遠退かせないためにも、ポップコーンは終売にすべきである。

 そもそも、映画を観ながら飲み食いをするのは行儀が悪いのではないか。映画館は無論映画を観るための場所であり、客は皆映画を観に来ているはずである。スナックをボリボリ貪ったり、既に空になった紙コップの底に溜まる僅かの水をズゴゴと音を立てて啜ったり、足を組み替えるたびに前の座席を蹴り飛ばしたりするための場所ではない。演劇やクラシックの演奏会などで同じことをやってもみたまえ。その後どうなるかは想像に難くない。大体、少し躾に厳しいご家庭であれば、今でも食事中にテレビや携帯を見ることはご法度とされているだろう。裏を返せば、テレビや携帯を見るときに食事をするのは無作法であるということになる。そのような行為が、「映画館だから」という理由だけで許されているのだ。

 これは由々しき事態である。いつの間にかこの瑞穂の国はシネコンによってアメリカナイズされ、我々の礼儀作法だとかマナーだとかモラルだとかいったものは地に堕ちた。そのくせAVの修正とピザやハンバーガーのサイズはいつまでもアメリカ並みにならないので全く情けない話である。

 昨今のカルトじみた憂国論風味の冗談はさておき、観客が映画館に映画を楽しみに来るのが当然である以上、映画館もその需要に対して真摯であってほしいと願うのは私だけではあるまい。映画館が観客に提供するのは映画だけでよいのである。それ以上のサービスは全て過剰であり、米帝的資本主義が夢見た「豊かな生活」の、もはや腐敗し白骨化してしまった名残である。

 映画を最大限楽しむために必要なものは何か?大きなスクリーンである。ご家庭では到底望むべくもない規模の音響である。最低120分程度は快適に座っていられる座席である。それだけだ。スナックやソーダスタンドは必要ない。

 考えてもみてほしい。誰しもが手元の端末ですぐに何でも望む映像を観られるようになった昨今、映画館に求められているのは「映画を観るしかない状態」にさせてくれる装置としての性格である。下世話な諸兄らが二次元のキャラクターを詰め込んでニヤニヤする、「セックスしないと出られない部屋」の亜種とみてもよい。「映画を観ないと出られない部屋」である。何かと情報も誘惑も過多で、ともすれば何もかもと中途半端な姿勢で向き合ってしまいがちな現代人には、これくらいストイックに何かに向き合うことを強制してくれる存在が必要とされているのである。

 映画は19世紀のフランスで生まれた。 アメリカの発明品ではない。それ故か、フランス人の映画に対する姿勢は真摯である。年に300本ほどしか新作が撮影されないのにも関わらず、国の映画産業に対する助成は年間約800億円に上るらしい。ちなみに本邦のそれは60億円/600本程度である。道理でフランス映画は難解で底が抜けているくせに金のかかった画面作りになっている訳だと膝を打つが、そんなフランスにはシネコンや鑑賞中に飲み食いすることへの反発から、飲食物を一切売らない映画館があるらしい。何と素晴らしいことだろう。

 以上のフランスの話は、本邦のどこかにはポップコーンを売らない封切館があるのではないか?という一縷の望みに賭けて検索したところ引っかかってきた記事からの受け売りである。なお、本邦においてそれを売りにしている封切館は見つけられなかった。悲しいことである。もしあったとしても、それらは大体独立系のミニシアターであり、信条よりも立地や物理的な条件から飲食物を売らないのであって、もしそれらの理由が何らかの形で解決を見ればすぐにでも飲食物を売り始めるであろうことは想像に難くない。

 私が扉を開けた途端に充満したポップコーンの臭いにやられないで済む映画館が本邦に現れるのは、一体いつになるのだろう。もしそれがいつまでも実現しないのなら、私は喜んで映画産業の野辺送りをせっつき、後押ししてしまうかもしれない。