『ハロウィン』(2007年-MGM/ディメンション・フィルムズ)
得点…45/100
(画像の出典:『Halloween (2007) - IMDb』)
まずお断りしておきたいのだが、オリジナル版『ハロウィン』(1978年-コンパス・インターナショナル・ピクチャーズ)は、『悪魔のいけにえ』(1974年-ブライアンストン・ピクチャーズ)が先鞭をつけた「奇怪な殺人鬼が暴れまくる大量殺人映画」というジャンルに、「殺人鬼の方から犠牲者を付け狙い追いかけてくる」という発想をプラスして今日的なスラッシャー・ムービーの素地を作った、という点で記念碑的な作品であり、公開から45年以上が経った今なお傑作の呼び声高く、本国ではアメリカ国立フィルム登録簿に記載されるレベルの映画史に残る作品である。
ジョン・カーペンターの意図的にスプラッタ描写を抑えた堅実な演出、デブラ・ヒルの多くを語らぬ脚本、監督自身の手による印象的な劇伴。そのいずれが欠けても、この完成度には到達しなかったであろう。若き日のショーン・S・カニンガムがこれを観て「俺ならもっと面白い映画が撮れる」と息巻き、のちにスラッシャーの一大フランチャイズとなる『13日の金曜日』(1980年-パラマウント映画)を撮ったのは有名な話である。
かように、オリジナル版はカーペンター御大にとっても奇跡的な映画だったのだ。そんな作品だからこそ、生半可な心構えではリメイクなど出来るはずもないのだが……何をどうやったのか、マサチューセッツから来たボンクラ、ロブ・ゾンビがメガホンを執ってリメイクが製作されてしまった。
確かに当時の『ハロウィン』フランチャイズはショック描写のネタも頭打ち、(3を除く)どの映画を観たところでマイケル君が出てきてはうろうろするばかりの低調さで、行き詰まっていた感は正直否めない。カーペンター御大も、自身のキャリアを決定付けたこのフランチャイズの凋落を見るに堪えなかったのかもしれない。しかしいざ出来上がってきたこのリメイクは、オリジナル版が重視した全てをうっちゃった、テケレッツのパァであった。
おでぶの小学生、マイケル・マイヤーズ君はいじめられっ子。家庭も絶賛崩壊中で、継父は無職のロクデナシ、姉ちゃんはクソビッチ。頼みの綱の優しい母ちゃんも、如何せん職業がストリッパーなのでそれが学校でいじめのネタになってしまう。マイケル君の数少ない心の拠り所と言えば、まだ物心もつかない赤ん坊の妹の存在と、小動物を切り刻むことだけだった。
ある日、いじめに耐えかねてついにプッツン来たマイケル君は、学校帰りのいじめっ子を追いかけて撲殺。ええいままよとばかりに継父と姉ちゃんと、ついでに姉ちゃんのボーイフレンドを手にかける。精神病院に収容されたマイケル君に、精神科医のルーミス医師がカウンセリングを試みるが、マイケル君が発作的に看護師をフォークでめった刺しにして何もかもがおじゃんに。そのことを聞かされて悲観した母ちゃんは赤ん坊の妹を残して拳銃自殺……と、ここまでは実録犯罪物を観ているような、言ってしまえば判で押したストーリーである。ここまでの描写は非常に不愉快で、オリジナルと比べて過剰にグロテスクで、そして何より退屈でつまらない。
実在の大量殺人者は崩壊家庭に育った者が少なくなく、ちょっと思い出すだけでも「ボストン絞殺魔」ことアルバート・デサルヴォ、「キラー・クラウン」ことジョン・ウェイン・ゲイシー、「サムの息子」ことデヴィット・バーコウィッツ、ホラー映画好きにはお馴染みのエド・ゲインもその内のひとりである。つまり本作は「マイケル君が如何にして殺人を犯すようになったのか」ということを、なんと上映時間の前半全てを使って長々と説明してみせたのだ。
これははっきり言って改悪以外の何物でもない。オリジナル版のマイケル君は如何にも中流階級らしいご家庭に育った豊頬の美少年で、最初の犠牲者となる姉も、少し奔放ではあるものの年齢相応と言ってよい程度の素行に過ぎない。少なくとも本作のおでぶちんボーイや、穴兄弟が山ほどいそうな尻軽女ではないのだ。当然オリジナル・マイケル君はそれなりに愛情を注がれていたのだろうし、ことの発端まで問題行動らしい問題行動を起こしていた素振りすらない。そういう平和なご家庭がある日突然、理由もはっきりとしないまま崩壊することにまず第一の恐怖があった。
比べて本作のご家庭の崩壊っぷりといったらどうだろう。確かに、殺人者のバックボーンとしてはリアルである。しかしこれだけくだくだしくやられてしまうと、あまりにも説明臭くはないだろうか。私には「こういう理由があるから人殺しになったって仕方ないんだ」という居直りのように思われた。
しかし、どんなに自己弁護がましく長広舌を振るわれたところで、少なくとも近代国家において人殺しになっていい理由などある訳がないのだから、実際には言い訳にすらなっていない。オリジナル版が製作された70年代ならともかく、これだけスラッシャー映画が膾炙した今日においては、そんなピントのズレた説明よりも割くべき尺があると思うのだが。
さて時は流れて17年後のハロウィンにマイケル君は晴れて精神病院を脱走し、つなぎにゴムマスクの"ブギーマン"ルックで手当たり次第に殺しまくる。ここまで来ればもういつもの『ハロウィン』なのだが……その演出も正直褒められる出来ではない。一番の問題は、安定したカメラアングルが殆ど存在せず、画面がほぼいつでもガクガク手ブレしっぱなしであることだ。
普通の映画人ならそんなシーンは手持ち撮影はしないだろ、と突っ込みたくなるようなシーンも全てガクガク手ブレ。ロングショットもクローズアップもガクガク手ブレ。気を抜くと画面酔いしてしまいそうで、まるで映研映画を観ているようだ。
加えて緊迫したシーンではそれぞれが数秒にも満たない細切れのカットが多用されており、目まぐるしく移り変わる画面に何が映っているのか追いかけるのが精いっぱいである。いや、時折それすら怪しい。あるシーンなど、ガクガク手ブレとぶつ切りカットの相乗効果によって、登場人物が前進しているのか後退しているのかすら分からなかった。それってよっぽどだぞ。
脚本に目をやると、これもまた色々と細かい詰めの甘さが目立つ。
まず、本作のマイケル君はかなり喋るのだ。ペラペラ喋りまくる。自身の凶行に関する記憶が抜け落ちている他は何だって喋る。ルーミス医師ともぼちぼちコミュニケーションが成立している。にも拘わらず、看護師を刺殺して17年の年月が経つと、マイケル君は唸り声を上げる程度で全く喋らない、ジェイソン君のような大男に変貌しているのだ。どうしてそうなったのか、説明らしい説明はない。マイケル君の殺人衝動に理由をこじつける一方で、おでぶちんボーイ・マイケル君がパブリック・イメージ上のマイケル君に変貌する理由の説明はうっちゃられている。その不均衡がどうにも気持ち悪い。多くを語らぬのと、説明不足なのとは違うのだよ。
また、ルーミス医師はルーミス医師で、にこやかにおでぶちんボーイ・マイケル君とカウンセリングをしていたのにも関わらず、看護師を刺殺して17年経ったほうのマイケル君に対しては悪魔だの災厄だのと悪辣に罵倒する。つまりここではパブリック・イメージ上のルーミス医師のキャラクターに寄せている訳だが、ここの繋がりもあまり丁寧に説明されておらず、前半部分と乖離しているように思えてしまう。
画作りの方にも触れておこう。
ロブ・ゾンビ演出の特徴は、とにかく作家性に乏しいことにある。どこかで観たようなカットやアングルや演出のオンパレード。タチが悪いのは、それを狙ってやっている感があるところだ。おそらく監督を横に座らせて本作を観れば、1カットごとに何の映画から引用したかを嬉々として語ってくれるだろう。
ただ、それが有名フランチャイズの仕切り直した新作に値するかと言えば、答えはNOである。ロブ・ゾンビの映画は、まるで完璧なコピーバンドによって完璧にコピーされた曲を聴いているようなもので、オリジナル曲の新規性は望むべくもない。
作家性が乏しいことが悪いのではない。オマージュが目的になっていることが悪いのである。どこかで観たようなシーンを寄せ集めて繋ぎ合わせる一方、過剰にグロテスクに仕立てることで逆に無二の作家性を獲得した、ルチオ・フルチのような監督もいるにはいるのだから。
本作にはオリジナル版にあった全てがなくなり、オリジナル版になかった全てが足されている。それ故にサービス精神は旺盛で、オリジナル版ではほぼ出てこないおっぱいがふんだんに出る。しかし、それだけである。こんなものをリメイクですと言われて出されたのではたまったものではない。
勿論、配給元のMGMはそんなこと理解していたし、『ハロウィン』フランチャイズのファンも理解していた。でも仕切り直しの新作だと宣伝したし、観に行った。その結果、本作は8000万ドル以上もの興行収入を記録してしまったのである。
賢明なMGMは続編からは手を引いたが、気を良くしたもう一方の配給元、ディメンションは即座に続編の製作を決断。だがジュリアン・モーリーとアレクサンドル・バスティロの両名に監督オファーを蹴られてしまったために、ロブ・ゾンビが続投して『ハロウィンⅡ』(2009年-ディメンション・フィルムズ)が製作され、こちらは見事にこけた。2匹目の泥鰌はいなかったのだ。
結果、ロブ・ゾンビは馬脚を現してすごすごとマサチューセッツへ帰っていったのである。その後も懲りずにどこかで見たようなタイトルのどこかで観たような映画を数本撮っているが、これらに関してはもう観る気も起きない。
『ウィッカーマン』(1973年-ケイブルホーグ)
得点…30/100
2020年、本邦を熱病のように『ミッドサマー』旋風が襲った頃の話である。私はこの映画がどうしてこんなにウケるのか理解に苦しんでいた。この映画は、21世紀も20年やろうかという今日においては、あまりにも恐怖の題材が古臭いからである。
これは簡単に言ってしまえば「クライスト的な主人公が、アンチクライスト的なものを恐怖する」という骨子の話であり、描き方如何によっては今日び重大な差別主義的モチーフを含むと批判されても致し方ない作りである。相手がフリーセックスラリパッパ殺人カルトだった(加えて基底にあるのはクライスト的なものだった)からいいようなものの、もしこれに特定の宗教を暗示するような描写がちらりとでも挟まっていればもう一発アウト、アンチクライストは全員人非人と思い込んでいるアメリカ以外ではビデオスルーになったに違いない。少なくとも、本邦では劇場公開はされなかったと思う。
だからこそ、私はこれが敢えてタブーに踏み込んだ映画なのだと思っていたし、逆説的に「いつの時代も人間は差別を娯楽として消費出来るのだ」と警鐘を鳴らすことに狙いのひとつがあったのだろうなあと考えていた(と、訳知り顔でこんなことを書いてはいるが、私自身が一番この推測を信用していなかったのも事実である)。一応私の感想を述べておくが、出来の悪いブラックコメディを観ているような気分になったと言えば、それ以上の言葉は蛇足というものだろう。
しかしこの度、この映画を鑑賞して私は知ったのである。なあんだ、パクリでしたあ。ちゃんとネタ元がありましたあ。
それほどまでに、この2つの映画はプロットが酷似している。何なら主人公格の登場人物が焼き殺されるラストシーンまで同じである。『ミッドサマー』が本作の影響下にあることは疑いようがない。敢えて古臭い題材を選んだのではなく、古い映画をパクったから古臭くなってしまったのである。この事実に気付いた私は、こんな映画を絶賛したアメリカと、本邦のtwitterユーザーというヤツは心底アホだと思った。
さて本作は、スコットランドはハイランド地方の離島に、本土から警官のハウイー巡査部長が颯爽と飛行艇で乗り付けるところから始まる。この私有地の島で、少女が失踪したと署に投書があったのだ。
閉鎖的な島民達に辟易しながらも調査を進めるハウイーが目にしたのは、島の領主が現代に復活させたケルト的信仰であった。彼らは生まれ変わりを信じ、子供達にはヤコペッティのエセドキュメンタリーにでも出てきそうな性教育偏重の教育が施されている。大人達は夜な夜な墓場で運動会。宿屋の娘はすっぽんぽんでミュージカル、夜通し歌って隣室のハウイーの睡眠を妨害する。
来る五月祭の準備に追われる島民達は雁首揃えて「少女は最近死んだばかりだ」と言い張り、領主はと言えば勝手に島の歴史を語りだす。曰く、先々代の統治時代に生贄の儀式を復活させてケルトに宗旨替えしたところ、島に豊作がもたらされたという。
少女が五月祭で生贄として捧げられるのではないかと疑いを抱いたハウイーは一旦本土に帰って応援を呼ぼうとするが、お約束通り飛行艇はオシャカになっており、独力で少女の奪還を目指すことを余儀なくされる。
宿の主を張っ倒して五月祭の衣装を奪い仮装したハウイーは祭りの行列に加わり、丘の上に立ったウィッカーマン像の下までやって来たところで、生贄として準備されていた少女を首尾よく奪還。少女の先導で逃げに逃げ、気が付けば海辺まで追い詰められていた。実際に儀式で捧げられる生贄はハウイーであり、少女は最初からハウイーを誘い込むための囮だったのである。
なんやかんやでハウイーはウィッカーマン像の中に押し込められ、火を放たれる。死を悟り聖書の一篇を唱えるハウイーに対し、島民達は来年の豊作を祈って歌い踊り、五月祭はクライマックスを迎えるのだった。
本作の一番大きな問題点は、演出がくだくだしく、脚本もテンポが悪いため、観ていてイライラすることである。上映時間は生意気に100分ほどあるが、その内の4割はそういった冗長なカットや台詞回しで占められている。もし本作をB級映画の帝王ロジャー・コーマン御大が編集したら、上映時間は50分を割り込むのではないだろうか。
また、アンチクライストの急先鋒として生きている我々平均的な極東のイエローモンキーには、主人公に一切感情移入が出来ないというのも残念な点である。私は「神は発明品である」と言い切って何ら憚ることのないタイプの無神論者であるが、それを差し引いても主人公たるハウイーはクライスト的過ぎるように思われる。清貧や禁欲(ついでに童貞も)を貫こうとするハウイーは現代を生きる我々の目から見れば殆どファンダメンタリスト、所謂狂信者としか映らない。こんな存在がニーチェ以後の世界にあっていいのだろうか。いや、実際に存在しているのだろうな。だからこの世から戦争はなくならないのである。
なお、本邦の神道は言うまでもなく多神教であり、生殖器信仰が各地に残っていることからも分かるように性に関しては割と大らかかつ開けっ広げなのが特徴である。つまり本作(勿論『ミッドサマー』でも)で怖がられている"アンチクライスト共"と、我々ジャップ共はバックグラウンドがほぼ共通するのだ。娯楽映画の構造に逐一目くじらを立てる趣味はないが、つまるところここで怖がられているのは他でもない我々である。
その構造が分かった上でこれらの映画を真っ当に怖がれるとも思えないので、本作はともかく『ミッド(以下略)』がヒットしたということは、まだまだ本邦の大多数の人々は自身を名誉白人だとでも思い込んで、脱亜論の甘い夢を貪っているということなのだろう。
ああ、こんな映画を面白がっているようじゃいけねえや。そんな調子では北方領土は返って来ない。こうして観た者を安易に憂国志士に成り下がらせてしまうような、そんな映画を褒めるのは本当に難しい。本当に難しいのである。