2022年5月22日日曜日

SDM

 (これははてなブログからの引っ越し記事です)

 ある休日の昼、どこかから帰ってきた父が、私の顔を見るなり「シングルドアマン面白かったよ」と言った。

 私は一瞬のうちにここ2週間ほどの記憶を総ざらいしたが、「シングルドアマン」などという単語に聴き覚えはなかった。何の前提もなしに口に出してきたということは、それは何かの作品名だと考えるのが妥当だろうが、であればこれまでのどこかのタイミングで、父はそれを鑑賞しに行くことを話題にしていたはずだ。

 それはさておき、「シングルドアマン」とは一体どんな作品だろう?父には観劇の習慣がないので、おそらくそれは映画だと思われる。

 私が思い出したのはジョン・ラッツの小説『同居人求む』を映画化した『ルームメイト』だ。あれも小説の原題は"SWF Seeks Same"だった。原題に含まれる「SWF」とはSingle White Female、すなわち独身の白人女性のことで、作中で主人公が同居人を探す際に出した新聞広告から採られているものだろう。

 「シングルドアマン」という響きから、私はまず、都会の人口密集地帯における傍観者効果とか、ひとつ隣のドアの中に誰が住んでいるのかも分からない不気味さとか、そういった視点を膨らませたサスペンス映画なのではないかと考えた。それは面白そうだ。私も観てみたい。

 しかしながら、「ドアマン」とはそもそも、高級ホテルやアパートメントの入口に立ち、ドアの開閉を含む雑務と警備を担う職業のことである。そこにわざわざ「シングル」とつけているのだから、これはもしかすると社会生活の孤独をちょっとハートフルな物語で演出する類いの、『マイ・インターン』のようなヒューマンドラマかも知れんぞ、とも考えた。

 私はもし鑑賞してしまうと自己嫌悪と自己憐憫があまりに大きくなるので、そういったヒューマンドラマの類いはあまり観ないのだが、父は年甲斐もなく時折そんな映画を観ては泣いたりしているので、その可能性は十分ある。ちなみに父はそんな映画の合間に『アウトレイジ』や『孤狼の血』のような血飛沫ヤクザ映画を喜んで観に行ったりもする。よく分からない人だ。

 だが、実態がそのいずれにせよ、私は『シングルドアマン』なる映画の特報を見聞きした覚えがなかった。

 以前書いたように、私は耳が良すぎるため、映画館の音響は強烈すぎ、三半規管にダメージを食らう。具体的には眩暈と頭痛、酷い場合は嘔吐である。

 また眼鏡がないと5cm先のものも見えない強度の近視のため、虹彩がうまいこと働かなくなっており、視界のコントラストが健常者に比べて異様に強調されている。つまり暗いものはより暗く、明るいものはより明るく見える眼なのだ。

 おまけに私はポップコーンが死ぬほど嫌いで、においを嗅ぐのもいっぱいいっぱい、というレベルである。

 つまり何が言いたいのかというと、私にとって映画館という場所は、五感の全てに強烈な苦痛を与えてくる空間なのだ(味覚と触覚については、売店で買う烏龍茶がおいしくない上にすぐ薄まることと、座席が柔らかすぎて映画を1本観ると尻や腰が痛くなることで計上して頂きたい)。

 それなのに、ああそれなのに、映画鑑賞そのものは好きなのだから始末に負えない。映画の特報や予告は割とアンテナを高く張って情報を集めているし、あの嫌悪されがちな、上映開始時間から20分は続く「近日公開映画情報」も楽しく観ていられるタイプなのだ。レンタルビデオの冒頭に入っている飛ばせない「近日レンタル開始映画」の広告も、存在そのものは別に嫌いではない。そのままシームレスに本編がスタートしてしまうことがあるのが嫌なだけだ。

 そんな私の全く知らない映画が公開されていたのか。ヒューマンドラマならばともかく、サスペンス映画であれば面白そうで、きっと興味を引いたはずなのに。

 と、私がここまで考えるのにはおそらく5秒と経っていなかったと思うのだが、会話のキャッチボールとしては完全に失敗している。ボールが転々と転がっている状態だ。パワプロの栄冠ナインでいうところの"魔物"が出たようなものだ。ところで性格が「内気」の球児を並べまくって魔物を出しまくれば甲子園優勝まで出来るって本当なんですかね。

 堂前アナの絶叫が聞こえてきそうな状況にあって、私は何を言うべきか困惑していた。父は私が聞き取れなかったと思ったのか、もう一度同じ台詞を繰り返した。

「『シン・ウルトラマン』面白かったよ」

 最初からウルトラマンの話であったのだ。そりゃまたブラボー、大変結構慶賀の限りであるなあ。ご存じのように私は例の監督(この映画では企画・脚本を務めているようだが)が好きではないので、誰が何と言おうと観に行くつもりはない。

 私は脳の回転にエネルギーを浪費したことを知って、口を半開きにしたまま「良かったねえ」とだけ答えると、長椅子に沈み込んだのだった。

2022年5月13日金曜日

ある中華屋の思い出

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 私が小学生の頃、近所に中華屋があった。

 その中華屋はいかにも町中華、といった趣で、メニューの半分がラーメンとチャーハンなどの飯もの、残りがほぼ定食で構成されており、これといって華のない店だった。メニューはべたつき、テーブルはぐらぐらし、店内には酸化した油のにおいが漂い、スピーカーからはAMラジオが流れている、という、どの町にも2、3軒はあるタイプの店を想像してもらえれば、概ね実態から外れたイメージではない。

 私がその店に初めて入ったのは、10月の雨がそぼ降る金曜日だったと記憶している。私は当時さるジュニアスポーツチームに所属しており、その練習が終わった後で迎えに来た母と、夕食が食べられる店を探して周辺を彷徨ったのだ。

 その日父は不在だった。おそらく飲み会か、会議か出張などでいなかったのだと思う。母も当時はまだ勤めに出ており、金曜の夜8時過ぎから夕食を作る気力はなかったのだろう、練習上がりのジャージを着た私を助手席に乗せて、市営体育館を出た。

 今でこそその周辺は一通り開けた感があるが、当時はまだ店も少なく、街道沿いを一本入れば住宅街と空き地が広がっていた。体育館を出た頃から降り始めた冷たい雨は、次第に勢いを増し本降りになった。私と母の乗った車はとにかく飲食店を探してその中をひた走っていた。

 最初に目をつけたのは、すぐ近隣にあるラーメン屋だった。しかし、この日に限って臨時休業だか既に営業を終えていただかして、ラーメンにありつくことは出来なかった。そのラーメン屋から、直線距離で言えば100mくらいのところにスパゲティ屋があったが、前日の夕食もスパゲティだったのであえなくこれもパスとなった。

 小学生だった私はおろか、母もあまりその界隈の飲食店に詳しくなかったため、私達は路頭に迷ってしまった。今のようにカーナビやスマートフォンが普及する前の話である。開いているのは居酒屋と思しき店ばかり。

 諦めてコンビニ弁当でも買って帰ろう――そう結論付けた私達は、家に向かう方向へとしばらく走ったところにあるコンビニに入ろうとして、その横に隠れるようにしてあった中華屋を見つけたのである。

 店内には既に客は誰もいなかった。ぱっと覗いた限りでは、もう店を閉めようとしているようにも見えた。こうなればダメ元で、と私と母はその店に突入した。後から知ったことだが、この店の営業時間は午後9時までであり、この時の私達は滑り込みの客だったことになる。

 店主らしき老夫婦が、メニューと水を持ってきた。色のあせた1枚きりのメニューの中に、私は興味深いものを見つけた。「カツカレーラーメン」である。

 私は興味本位で、そのカツカレーラーメンなるものを注文した。練習上がりで、とにかく腹が減っていたというのもある。どのような形のものであれ、カツとカレーとラーメンが構成要素であることに間違いはないはずだ。まるで男子小学生が考えた、小学生のためのメニューのようではないか。

 しばらくして、それはやって来た。おそらくカレーの色であろう黄色いスープのラーメンの上には、薄めに揚げられたトンカツが乗っていた。

 私はこの未知との遭遇において、どこから攻めるか考えあぐねた結果、スープを一口飲むことにした。それは味噌ベースの割と軽いスープで、かなりスパイシーだった。悪くない。

 次に麺を啜ってみる。この辺りでは一般的な中太縮れ麺を、口に入れて驚いた。先ほど感じたスープのスパイシーさはスッと鳴りを潜め、隠れていた野菜の甘みが引き立ってくるのだ。これも悪くない、いや、かなりうまい。

 最初に見たときは薄く思えたカツも、食べ進めるうちに、カツとして主張しすぎず、ベースのカレーラーメンを邪魔しない、「カツカレーラーメンの具」として非常に適切な厚さだということが分かった。細かいパン粉の衣も、スープを吸い過ぎることもなく、丁度いい塩梅だった。

 私が夢中になって食べていると、一緒に注文した焼き餃子が6個やって来た。やや大ぶりで皮は厚め、焼き色は薄いながら底面はしっかりパリパリとし、全体はもちもちとした食感である。餡の主体はおそらく鶏肉で、あっさりとした中にも野菜のうまみが詰まっており、ついついもうひとつ、もうひとつ、と箸が伸びてしまう。

 カツカレーラーメンのスープまで飲み干して、私はこの上ない幸福感を噛みしめていた。たまたま飛び込んだのが、こんなに素敵な店だったとは。

 それ以来私はその中華屋では、カツカレーラーメンと餃子ばかりを注文するようになった。しかしながら、本当ならば月に2、3回は行きたいところだったのだが、我が家は父が外食嫌いで、父が不在のタイミング、しかも外食に行く、と決めた時にしか「ここに行こう」と提案することが出来なかったため、多くて2ヶ月に1回、長いときは半年以上無沙汰、ということもあった。

 そうして、終わりは突如やって来た。

 当時中学生になっていた私は、夏休み期間中、昼食を食べに自転車でこの店にやって来たのだが、その時はシャッターが降りていた。仕方なく横のコンビニで弁当を買って帰った。定休日だと思っていたのだ。

 1週間ほどしてまた行ってみると、もう店はなくなっていた。看板は下ろされ、ガラス戸の中にはがらんとした空間が広がっているだけだった。何故か私はさほどショックを受けなかったと記憶している。もう1回餃子を食べておきたかったな、と思っただけだ。

 その後、その場所にはしばらくテナントが入らなかったと記憶している。何かの用事で前を通る度に、その中華屋と私の記憶の死骸が厳然と横たわっているのを見て、たまにカツカレーラーメンや餃子のことを思い出したりした。

 私は高校生になっていた。その頃、中華屋だったビルの一角にはおしゃれなパン屋が入っていた。

 高校3年間はあっという間に過ぎ去り、私は運転免許を取るため近所の自動車学校に通った。場内での教習が終わり、仮免許試験にも合格して、路上教習に出るようになった頃の話である。

 私は教官にルートを指定されながら、普段通らない道を教習車で運転していた。まだ寒い頃で、雪がちらついていた。ある坂道にさしかかったとき、私は「あっ」と声を上げそうになった。

 路肩に溜められた雪山の向こうに、あの中華屋と同じ屋号の店を見つけたのである。屋号だけでなく、オレンジ色の看板も、入口のガラス戸に掛けられた飾りもそっくりであった。

 あの店は閉店したのではなく、移転したのだ!

 私は運転席上で小躍りしそうになり、赤信号を見落として教官がブレーキを踏んだ。

 勿論その日帰宅してから家族にそのことを話したが、私はその1ヶ月後には仙台への進学が決まっていたため、その店が本当にあの店なのかを確かめる機会はなかなか訪れなかった。

 仙台での学生生活は何かと苦労が多く、帰省した折にも普段食べられない寿司や焼き肉などをたかっていたため、その中華屋のことは気になっていたが行くことが出来なかった。

 学校を出て里帰りしてからも、無職をやったり正社員をやったり心を病んだりまた無職をやったり、となかなか忙しく、店の所在地まで分かっているのに行く機会に恵まれなかった。

 その機会は突然訪れた。今日である。父は自分で買ってきたつまみで晩酌をすると早々に寝てしまい、これが絶好機だと思った私は母と示し合わせて、あの日を思わせる雨の中、この店へとやって来た。

 以前の場所より間口は広いはずなのだが、店は以前と何も変わらないように思える。私は年甲斐もなく、少し逸る気持ちを抑えながら、オレンジ色の暖簾をくぐった。

 厨房にはあの老夫婦がいた。色のあせたメニューも、ぐらつくテーブルもそのままだった。違う建物のはずなのに、あの頃と同じにおいがしていた。

 私は迷わず焼き餃子と、カレーラーメンを注文した。カツカレーラーメンはメニューから消えていた。その不在だけが以前との違いだったが、そんなことはもう些末なことだ。私もそれ相応に歳を取った。カツの浮いたラーメンなど、今となっては平らげる自信はない。

 そうしてやって来たカレーラーメンと焼き餃子を一口食べたとき、私は泣き出しそうになっていた。以前と寸分変わらない味がそこにはあった。なぜもっと早くこの店に来なかったのだろう、と思うほど、懐かしさで舌の上が焼けるようだった。

 AMラジオの音に交じって、雨が窓を叩く音が聞こえていた。私達の他に客はおらず、店内は静かだった。

 私はこのラーメンを、焼き餃子を、あと何回食べられるのだろう。

2022年5月10日火曜日

照明と蜘蛛の糸

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 電気屋に行ったのである。

 エー電気屋、電気屋でござい。電気、電気はいらんかねェ。オイ電気屋、電気1アンペアほどくれ!ヘイ毎度ありィ、旦那今日は景気が良いねェ!おっと手元がお留守だよ、活きの良い電気だからね、こぼしちゃもったいないよ。エー電気1アンペアで丁度40匁、1円50銭でさァ。なんだデンさん、まけてくんねえのかい――そんなことはない。従量課金制というのは電気の量り売りのことではないのである。いや実質量り売りではあるのだが、少なくとも電気屋というのは天秤担ぎのことではない。

 持って回った冗談はさておき、所謂電気屋、つまりは家電量販店に行ったのである。同居する父が加齢のためか居間が暗いと言いだし、新しい電灯を見繕う必要が生まれたためだ。

 電灯というのは、もうしばらく前からLEDの天下になっている。学研の学習のふろくについてきた九九マシーンで、何が楽しいのかと思うほどチカチカと安っぽく光っていたあのLEDがねえ、と思うと隔世の感がある。

 電気屋でもホームセンターでも、以前まではあんなに持て囃されていた蛍光灯は肩身が狭そうだ。白熱電球は既に死に体である。

 おそらく近い将来、全ての照明はLEDになるのだろう。私は環境問題について明るくないので、それがいいことかどうかは断言できない。しかしながら、私にもひとつだけ言えることがある。それはLEDの照明は思いの外暗いということだ。

 実際、照明器具の売り場には、「LED照明は部屋の畳数+2畳分の値の大きさを買いましょう」と書かれたポップが貼られていた。その前に、「8畳用」「14畳用」などと大書された照明器具が陳列されているのである。

 この「+2畳」という照明の選定法が一種のローカルルール、あるいは裏技のようなもので、照明器具のメーカーは推奨していない、というのであればまだ分かる。人間の知覚はいい加減なものだ。計器は同じ値を指していても、人間には違って見える――ということはザラに起こる。

 しかしながら、メーカーもそのことは了承しているが、数値上は同じであるため従前の畳数規格を貼って出荷している、というのであれば問題である。そんなことをやっているから「+2畳で買いましょう」などとポップを書かれてしまうのである。まあメーカーの側からすれば、人間の感覚という曖昧なものより計器が弾き出した数値のほうがずっと信用に値するだろうし、品質検査もしやすいという事情は理解出来るが。

 実はひっそりと「+2畳」分明るくして出荷しているメーカーもあるのかも知れないが、その場合はもう悲劇である。消費者はそんなこと知るよしもないわけで、セオリーに則って「+2畳」分大きなサイズの照明を買ってしまうこともあるだろう。するとそもそも「+2畳」分明るいものが更に「+2畳」分大きくなるので、合わせて「+4畳」分も明るくなってしまうのである。

 これはえらいことになる。格安系ビジネスホテルの客室ひとつ分くらいに相当する光量が一気に増えるのだから大変だ。溶接用の面体や煤をつけたガラスがなければ、天井を直視することも出来なくなるであろう。裸で身を横たえていれば日焼けも出来るかも知れぬ。裸族であればご自宅から一歩も出ることなく、健康的な小麦色の肌が手に入るというものである。LED照明のおかげで日焼けサロンは閑古鳥だ。廃業するものもあるだろう。LED照明の光量が上がったせいで、松崎しげるが日に日に白くなっていくのである。

 実際には、もちろんそんなことはない。なぜなら照明器具に用いられるLEDの殆どからは、紫外線がほぼ出ないからだ。日焼けサロンが廃業して血迷った松崎しげるが部屋の全ての平面という平面に巨大なLED照明を取り付けても、日焼けすることはないのである。

 ちなみに我が家はといえば、その構成員全員が血迷った結果、それほど広くもない居間のために、なんと22畳を満足に照らせるサイズの照明を買ってきてしまった。取り付けてみると居間が異様に明るい。

 分かりやすい例えで言えば、深夜の高速道路を走っていて、気がついてみたら記憶に2時間の空白があったとき並みの明るさである。確実に二の腕や首筋に何かが埋められているパターンである。怪しげな催眠術師が飛んできて、退行催眠で記憶の空白を埋めようと躍起になるだろう。そして二の腕に怪しげなものを埋めた"ヤツら"は、おおよそレチクル座のゼータ星から来ているのである。……分からない人はもう結構!

 居間の異様な明るさを見るにつけ、私は自室の照明の暗さが悲しくなった。夜も更ければ満足に文庫本も読めない暗さなのである。

 光源は勿論蛍光管だ。古式ゆかしいスイッチの紐が伸びているが、スイッチ函そのものがかなり劣化しているため、多少強く引っ張るとパリパリと割れたかけらがカバーの中に落ちる。あるときなど、紐がスイッチ函の根元で千切れてしまい、修理に大変難儀した。天井に設置されているものに対し、ピンセットを使って紐をくくりつけるのだから当然だ。勿論夜なので明かりそのものは点灯状態であり、考えてみれば恐ろしい話だった。

 溜息をつきながら自室に戻り、明かりを点ける。するとどうしたことだろうか、何故か普段よりも明るいのである。昨日の今日であり、別に蛍光管を替えたとかいうことはない。原因は居間の照明の消費電力が低下したこと以外に考えられない。我が家はどうも分電の具合がおかしく、しょっちゅうブレーカーが飛んだりするのだが、流石に居間と2階の私の部屋の電力系統は分かれている。なのにこれはいったいどういうことなのだ。分からぬ。全く何事も我々には分からぬ。

 実際多少明るくなって嬉しいは嬉しいのだが、実は電気屋に行ったついでに、もう自室のほうの照明の交換の算段もしてしまったのだった。こんなことならまだ3年は戦えたな。スイッチの紐の利便性を犠牲にした上での選択だったのだ。

 LEDの照明に足りないものがもうひとつあった。それは紐である。メーカーのほうも顔を洗って紐を垂らしてから出直して頂きたい。出来れば強度の高い紐にしてもらいたいものである。強度など高ければ高いほどいい。もうピンセットで感電しかけるような真似はごめんだ。

 蜘蛛の糸は切れたからこそ文学になったが、実際には蜘蛛の糸というのは非常に強度の高い繊維であり、カンダタ以下罪人が何人ぶら下がろうと決して切れはしないのだ。メーカーにはそれぐらいの気概を持って開発に当たってもらいたい。

 無限に連なる意識の集合体としてのあなたや私が地獄の釜であっぷあっぷしているときに、極楽から照明のリモコンが落ちてきたらどうするんですか。