2022年5月10日火曜日

照明と蜘蛛の糸

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 電気屋に行ったのである。

 エー電気屋、電気屋でござい。電気、電気はいらんかねェ。オイ電気屋、電気1アンペアほどくれ!ヘイ毎度ありィ、旦那今日は景気が良いねェ!おっと手元がお留守だよ、活きの良い電気だからね、こぼしちゃもったいないよ。エー電気1アンペアで丁度40匁、1円50銭でさァ。なんだデンさん、まけてくんねえのかい――そんなことはない。従量課金制というのは電気の量り売りのことではないのである。いや実質量り売りではあるのだが、少なくとも電気屋というのは天秤担ぎのことではない。

 持って回った冗談はさておき、所謂電気屋、つまりは家電量販店に行ったのである。同居する父が加齢のためか居間が暗いと言いだし、新しい電灯を見繕う必要が生まれたためだ。

 電灯というのは、もうしばらく前からLEDの天下になっている。学研の学習のふろくについてきた九九マシーンで、何が楽しいのかと思うほどチカチカと安っぽく光っていたあのLEDがねえ、と思うと隔世の感がある。

 電気屋でもホームセンターでも、以前まではあんなに持て囃されていた蛍光灯は肩身が狭そうだ。白熱電球は既に死に体である。

 おそらく近い将来、全ての照明はLEDになるのだろう。私は環境問題について明るくないので、それがいいことかどうかは断言できない。しかしながら、私にもひとつだけ言えることがある。それはLEDの照明は思いの外暗いということだ。

 実際、照明器具の売り場には、「LED照明は部屋の畳数+2畳分の値の大きさを買いましょう」と書かれたポップが貼られていた。その前に、「8畳用」「14畳用」などと大書された照明器具が陳列されているのである。

 この「+2畳」という照明の選定法が一種のローカルルール、あるいは裏技のようなもので、照明器具のメーカーは推奨していない、というのであればまだ分かる。人間の知覚はいい加減なものだ。計器は同じ値を指していても、人間には違って見える――ということはザラに起こる。

 しかしながら、メーカーもそのことは了承しているが、数値上は同じであるため従前の畳数規格を貼って出荷している、というのであれば問題である。そんなことをやっているから「+2畳で買いましょう」などとポップを書かれてしまうのである。まあメーカーの側からすれば、人間の感覚という曖昧なものより計器が弾き出した数値のほうがずっと信用に値するだろうし、品質検査もしやすいという事情は理解出来るが。

 実はひっそりと「+2畳」分明るくして出荷しているメーカーもあるのかも知れないが、その場合はもう悲劇である。消費者はそんなこと知るよしもないわけで、セオリーに則って「+2畳」分大きなサイズの照明を買ってしまうこともあるだろう。するとそもそも「+2畳」分明るいものが更に「+2畳」分大きくなるので、合わせて「+4畳」分も明るくなってしまうのである。

 これはえらいことになる。格安系ビジネスホテルの客室ひとつ分くらいに相当する光量が一気に増えるのだから大変だ。溶接用の面体や煤をつけたガラスがなければ、天井を直視することも出来なくなるであろう。裸で身を横たえていれば日焼けも出来るかも知れぬ。裸族であればご自宅から一歩も出ることなく、健康的な小麦色の肌が手に入るというものである。LED照明のおかげで日焼けサロンは閑古鳥だ。廃業するものもあるだろう。LED照明の光量が上がったせいで、松崎しげるが日に日に白くなっていくのである。

 実際には、もちろんそんなことはない。なぜなら照明器具に用いられるLEDの殆どからは、紫外線がほぼ出ないからだ。日焼けサロンが廃業して血迷った松崎しげるが部屋の全ての平面という平面に巨大なLED照明を取り付けても、日焼けすることはないのである。

 ちなみに我が家はといえば、その構成員全員が血迷った結果、それほど広くもない居間のために、なんと22畳を満足に照らせるサイズの照明を買ってきてしまった。取り付けてみると居間が異様に明るい。

 分かりやすい例えで言えば、深夜の高速道路を走っていて、気がついてみたら記憶に2時間の空白があったとき並みの明るさである。確実に二の腕や首筋に何かが埋められているパターンである。怪しげな催眠術師が飛んできて、退行催眠で記憶の空白を埋めようと躍起になるだろう。そして二の腕に怪しげなものを埋めた"ヤツら"は、おおよそレチクル座のゼータ星から来ているのである。……分からない人はもう結構!

 居間の異様な明るさを見るにつけ、私は自室の照明の暗さが悲しくなった。夜も更ければ満足に文庫本も読めない暗さなのである。

 光源は勿論蛍光管だ。古式ゆかしいスイッチの紐が伸びているが、スイッチ函そのものがかなり劣化しているため、多少強く引っ張るとパリパリと割れたかけらがカバーの中に落ちる。あるときなど、紐がスイッチ函の根元で千切れてしまい、修理に大変難儀した。天井に設置されているものに対し、ピンセットを使って紐をくくりつけるのだから当然だ。勿論夜なので明かりそのものは点灯状態であり、考えてみれば恐ろしい話だった。

 溜息をつきながら自室に戻り、明かりを点ける。するとどうしたことだろうか、何故か普段よりも明るいのである。昨日の今日であり、別に蛍光管を替えたとかいうことはない。原因は居間の照明の消費電力が低下したこと以外に考えられない。我が家はどうも分電の具合がおかしく、しょっちゅうブレーカーが飛んだりするのだが、流石に居間と2階の私の部屋の電力系統は分かれている。なのにこれはいったいどういうことなのだ。分からぬ。全く何事も我々には分からぬ。

 実際多少明るくなって嬉しいは嬉しいのだが、実は電気屋に行ったついでに、もう自室のほうの照明の交換の算段もしてしまったのだった。こんなことならまだ3年は戦えたな。スイッチの紐の利便性を犠牲にした上での選択だったのだ。

 LEDの照明に足りないものがもうひとつあった。それは紐である。メーカーのほうも顔を洗って紐を垂らしてから出直して頂きたい。出来れば強度の高い紐にしてもらいたいものである。強度など高ければ高いほどいい。もうピンセットで感電しかけるような真似はごめんだ。

 蜘蛛の糸は切れたからこそ文学になったが、実際には蜘蛛の糸というのは非常に強度の高い繊維であり、カンダタ以下罪人が何人ぶら下がろうと決して切れはしないのだ。メーカーにはそれぐらいの気概を持って開発に当たってもらいたい。

 無限に連なる意識の集合体としてのあなたや私が地獄の釜であっぷあっぷしているときに、極楽から照明のリモコンが落ちてきたらどうするんですか。