(これははてなブログからの引っ越し記事です)
いつもは書き出しに困ることなどあまりないのである。
それは何故かというと、普段は書き出しが固まってから書き始めるからである。ここ情報量ゼロであるな。
つまるところ私は典型的な「自己ルールに縛られて効率が悪いやつ」なので、本は1ページ目から読み始めねば気が済まないし、小問集合から解き始めねば脳の回転スピードは目に見えて落ち、午後から何か用事が入っていると午前中いっぱいは尻が落ち着かず何ひとつとして手につかないのである。物事は順序立てて説明してもらわないと何も納得できないお粗末なスペックのCPUであるからして、書き出しが決まることもなく本題に入ることなど出来ないのだ。
これまで数本の雑文を書いてきて分かったのだが、そういうときは適当に指をキーボードの上で動かすのがよい。何もフィンガーダンスをしろと言っているのではなく、文章としての体裁や起承転結、果ては主述の呼応すらあまり考えずに、ただ文字を打ち込むのである。すると思いの外するすると文字が出力されてくる。
勿論、それは単なる文字や言葉の羅列、良くて怪文書に過ぎないので、必要に応じて推敲を重ねなければならない。しかしながらいつでも脳がとろけたような仕上がりの私の雑文には、あまり必要はない工程とも言える。……そんなことはない。芸人の苦労自慢のようで甚だきまり悪いが、これでもある程度推敲は重ねてから公開しているのである。
前述のように元はただただキーボードの上で指を動かしているだけで形成される文章であり、タイプライターを叩くチンパンジーが偶然性によって執筆したものとそれほど相違はないのだ。シェイクスピアよりも私の雑文のほうがよっぽどレアリティが低く設定されているだろうから、おそらくチンパンジーを3頭ほど連れてくればすぐにでも相似の雑文が排出されるはずである。
生憎私にはチンパンジーを3頭飼う余力と資金すらないので、この雑文は全て私ひとりの手で執筆されている。よって諸兄が「この文章は人が書いたのか、チンパンジーが書いたのか」と思い悩む必要はない。もっとも、ここで文章を書いている「私」が、類人猿としては高度な教育を施されたがゆえに同胞を見下しているチンパンジーではないという保証はないのだが。
代筆といえば、私の文章は一見、流行りの人工知能というものにも執筆できそうであるが、私という天然無能の思考回路を再現するのは逆に難しいはずだ。人工知能というのは、シェイクスピアやダンテやトルストイや谷崎潤一郎などのきら星の如き作家達を読んで文章を学ぶのだから、筒井康隆やしりあがり寿や夢野久作を読んだ上でエログロナンセンス以外を出力している私の文章に近づくことすら出来ないだろう。複葉戦闘機は速度が遅すぎて、すばしこい単葉戦闘機での撃墜が難しい、みたいな話である。
とにかく、私にもし作家性というものが存在するなら、それは消しゴムやバックスペースによって担保されるのだ。まるで「消しゴムで書く」とまで言われた往年の安部公房のようではないか。書いている内容は天と地ほど、いやチューインガムと二眼レフくらいの差があるが。
これは余談だが、安部公房には『笑う月』という夢日記の体裁をとったエッセイ集がある。夢の話なのだから支離滅裂なのは当たり前として、あまりに突飛すぎて普通に文学として成立してしまっているのだからすごい。文豪は見る夢すら常人とは異なるのか、と当時中学生だった私は衝撃を受けたものだ。実際には私は常人以下の存在だったわけだが。私の夢はいつもいつも、「高校入試に滑る」という判で押した結末を辿る悪夢ばかりである。
私は消しゴム、否バックスペースとカット&ペーストで執筆している、と豪語しておきながら、時折文字数が数千字を数えるのはいかなることか、と思われる向きもあると思う。この答えは簡単である。話を薄めるのに原資はいらないからだ。
インスタントの粉末にお湯をかけて味噌汁を作るのは簡単だが、出来上がった味噌汁を粉末に戻すのは難しい。これと同じことが起こっている。機微の乏しい生活の中でほんの少しだけ立った感情の小波を、悪ふざけと余談を注入しまくって津波にするのは比較的簡単だ。今こうしてただキーボードの上で指を動かしているだけで、もう1700字ほどが出力されてしまった。
何だってそうだが、本当に難しいのは引き算なのである。料理の美学神髄は引き算である。建築の美学だって引き算である。ホラー映画の美学も基本的には引き算であるはずなのだが、どうも毛唐どもには理解できない概念、すなわち蛮族の蛮習らしいのでこの際どうでもよろしい。そうでなければCGでバンバン幽霊を合成したりゾンビを走らせたりしないはずなのである。それを許せないのは我々が蛮族だからだと、彼らはしたり顔で言うだろう。
実際のところ引き算が難しくないのは算数だけだ。引き算より掛け算のほうがよっぽど難しい。掛け算よりも難しいのは割り算で、それ以降はもう意味すら分からぬ。自慢ではないが、私はクラスで2番目に九九を覚えるのが遅かった程度には数が分からぬ。未だに24時間表示の時計が読めない程度には数のほうからも見放されておる。高校時分の学内模試では学年首位と同率最下位を同時に取ったことがある。前者は現国で、後者は数学だ。かくなる上は数学を刺して俺も死ぬ。
ちなみに、私が「自慢ではないが」という枕詞で話し始めた時は大抵本当に自慢ではないので、自尊心がおとうふの角より脆い諸兄達も安心して聞いて頂きたい。私は諸兄のサンドバッグである。殴ればいいじゃないのよ、それで満足するんでしょ。男子ってサイテー!フケツ!
谷崎の潤ちゃんが喜びそうな話はさておき話を戻すと、薄めきった話のどこを削るかはかなり、かなり深刻な問題なのである。こうしている間にもだんだん興が乗ってきた私はむやみやたらにキーボードを叩き、文章を生成している。厳密にはキーボードの電気的な接点も1回のタイピングでほんの僅かずつとはいえ摩耗しているし、私の睡眠時間や他の創作活動に充てられる時間だってどんどん削れていくのである。これはもったいないことこの上なかろう。そうやって生み出された文章を整理するのではなく削ってしまえば、キーボードの接点も私の時間も無駄死にである。
100を書いて1を世に出す、というのは創作論の鉄則だ。しかしながら私は数年に亘る無職生活と、それ以前の赤貧学生生活のために、貧乏性が骨身に染みついてしまったため、残りの99はどうなるんですか、とわめきながら、くしゃくしゃの原稿用紙を胸に抱えて地獄の釜に沈むのがオチなのである。隣ではキーボードの接点があっぷあっぷしておる。そしてはるか上空の極楽からは、糸の代わりに照明のリモコンが落ちてくる。諸兄らもご存じの通りである。
実際には削ってこれなのだが、ここまで既に2700字以上書いてきている。なお文中の文字数は決定稿に準拠している。とりとめのなさでいえばいつにも増して酷い文になりそうだ。待て待て、これはそもそも何の話であったか。
……そう、書き出しである。書き出しに悩んでいたのだ、私は。ところがどっこい、文字数は既に3000字に迫っており、ここまで来てから書き出しを悩んでいても仕方あるまい。既に文章は書き出されており、最早ここまでの何が本題だったのかも判然としないが、今の私にとって目下の悩み事はこの文章の結びである。結ぶとして一体何を結ぶのか。
書けば書くほどその分結びは遠のくが、海水1滴を樽一杯の真水で薄めてしまえばそれは真水にしかならないように、薄めるにしたところで限度というものがある。唐辛子の絞り汁を水で薄めていき、官能検査で辛さが感じられなくなったところを値として記録する辛さの指標、スコヴィル値を測っているのではないのだぞ。
昔、「終わらない歌を歌おう」と歌ったバンドがあった。実際にはこの曲は3分ちょっとしかなく、割とすぐ終わってしまうのだが、バンドは勿論この曲を歌い続けろと言っているのではない。あくまで精神性の話だ。かつて吉田拓郎は雨に濡れながら『人間なんて』を2時間歌っていたが、おそらくそういうことでもない。
音楽の精神性を重要視しないのは日本人の悪い癖である。昨今の流感によって、ライブからコール&レスポンスやモッシュがなくなってよかった、などという感想を目にしたときは白目を剥きすぎて眼球が後方宙返りするかと思ったものだ。
音楽の持つ精神性やライブ演奏の持つ当事者性、即時性を無視するのであれば、ライブなど行かずに家から一歩も出ず、ご自慢のオーディオシステムでハイレゾ音源などを聴いておればよいのだ。きょうび写真で見るミュージシャンと実際に見るミュージシャンにはそれほどの違いはない、というのが私の持論である。ただ動くミュージシャンを見るためにライブに行くことは、本質とは言えない。それは動物園で人混みに揉まれながら、檻の向こうのパンダを見るようなものだ。ライブに行くというのは、精神性を享受しに行くことなのである。
終わらない歌を歌おう。例え曲は終わろうとも。そしてこの雑文もまた蛇足に次ぐ蛇足で結びを遠ざけることをやめて、むやみにいいこと言った風にして終わっていくのである。ひどい話もあったもんだ。