2022年6月26日日曜日

『事故物件 恐い間取り』映画評

 (これははてなブログからの引っ越し記事です)

『事故物件 恐い間取り』(2020年/松竹)

得点…46/100

 亀梨和也(KAT-TUN)主演|映画『事故物件 恐い間取り』Blu-ray&DVDが2021年2月10日発売 - TOWER RECORDS  ONLINE

 "事故物件住みます芸人"こと松原タニシ氏のノンフィクション『事故物件怪談 恐い間取り』を原作としたホラー映画である。

 ノンフィクションが原作というと、ニューヨーク州はアミティビル、オーシャン・アベニュー112番地で起こったデフォー一家殺害事件とその後の騒動に題を採った『アミティビルの恐怖』(ジェイ・アンソン)を原作とした映画『悪魔の棲む家』(1979年/AIP)を思い出すが、ロジャー・コーマン御大が去った後のAIPの映画には見るべきものがなく、この映画とて例外でないので諸兄らは観なくてもよい。ちなみにジェイ・アンソンによる原作はかなり誇張されて書かれているらしいので、ノンフィクション物件ホラーなど基本的に眉唾なのだと言える。

 クズホラー愛憎家としては、原作の時点で「かなり怪しい題材を選んできたな」という懸念があったのだが、こちらの映画も残念ながらこの懸念を裏切ってくれるものとはならなかった。ちなみにこちらの原作であるルポもかなり、いや相当にテケレッツのパァな出来なので、諸兄らは読まなくてもよい。

 以下、本文中の著名人の敬称は省略する。勿論、ネタバレにも一切配慮していないので留意されたい。

 

 映画は売れない芸人・山野ヤマメ(亀梨和也)が、ある日相方の中井大佐(瀬戸康史)にコンビ解散を告げられるところから始まる。

 中井はコネで放送作家の卵となったものの、ネタも書けない山野は路頭に迷う日々。中井も中井で提出した企画が全て没を食らい、苦し紛れに出した案が「事故物件に住んでみる」というものだった。山野は半ばとばっちりを食らう形で、その企画を実行することになる。

 鑑賞を始めてまず最初に気にかかったのは、亀梨和也の眉がバッチリ決まりすぎていることだ。まあ一応は演じる役も人前に出るキャラクターであるし、当人はアイドルなのだから、もしかすると事務所の意向なのかも知れないが、ホラーの主人公には生活感というか、一種の隙のようなものが必要なのである。その描写が巧ければ、主人公が怪異に巻き込まれていく蓋然性というのも理解しやすくなり、鑑賞者は主人公と一心同体となる。

 細かい話かもしれないが、神は細部に宿るのですよ。ノンフィクション・実話怪談を標榜するのならば、細かなリアリティというのはなお蔑ろにしてはいけない部分ではないか。事務所の顔色を窺わなければならなかったのだとすれば、これはミスキャストだと言える。

 ちなみに、山野・中井のコンビ(ジョナサンズ)の当て馬としてブレイク中の芸人コンビというのが出てくるのだが、この片割れが加藤諒なので私は笑ってしまった。瀬戸康史と合わせてNHK Eテレ欲張りセットの如きキャスティングである。

 山野が事故物件に住み始め、最初の怪奇現象を録画するまでは特に特筆することもない。丁寧でもないが杜撰でもない、当たり障りのない展開である。

 ただし、「女が殺された」という触れ込みの部屋で、電話口から女の"笑い声"が聞こえるという怪奇現象が起こるのは、感情的に言えばやや矛盾している気がする。この些細な矛盾を更に積み重ねれば、より怪奇現象は解釈や理解を拒絶していき、恐怖を演出するのに一役買ったと思うのだが、これ以降特に(感情的に理解しがたい)怪奇現象が起こることはない。

 つまりこの挿話は、原作にあった電話にまつわる怪現象(よく分からない言語で捲し立てる留守電が入る)を映画にも突っ込みたいが故に創作された部分だというわけだ。そうなると鑑賞者には妙な引っかかりと居心地の悪さだけが残ってしまう。

 この時録画された映像(白い布のようなものが映り込んでいる)が、視聴率低下にあえぐバラエティ番組の1コーナーで放映されるとたちまち話題となり、山野の知名度も大きく上がることになる。中井は苦し紛れとはいえ自分の提出した企画が番組プロデューサーにかっさらわれる形になり、他の企画が通らない故に番組企画を外され、心中穏やかではいられず、山野の部屋に転がり込んで怪奇現象を録画する手伝いをすることを決めた。

 この成功の後、ジョナサンズ時代から山野のファンであり、メイクアップ担当見習いとしてTV局に出入りしていた小坂梓(奈緒)を誘い、山野と中井はささやかな祝賀会を開く。大阪らしくお好み焼きを食べながら、山野は自分が芸人を目指したきっかけを語る……のだが、この挿話が今後特に活かされたりしないのが残念だ。その内容も端的に言えば「人を笑わせたいから」以外のものはなく、芸人を目指す人間なら100人中101人は同じことを思ってるだろう、としか思えないのがよくない。最近の芸人達が何かにつけ語りたがる、判で押したように似たり寄ったりの苦労話を聞かされているようで、見え透いたお涙頂戴感が鑑賞者を醒めさせる。

 温かな食事は生の象徴であり、死や恐怖との落差を作るため、ホラー映画では殊の外多用される演出である。スラッシャーの古典『悪魔のいけにえ』(1974年/ブライアンストン・ピクチャーズ)では夕餉の食卓そのものが恐怖の現場になっていたし、同じ中田秀夫監督作品では、あのへなちょこサイコホラー『クロユリ団地』(2013年/松竹)でも、穏やかな朝の食卓に違和感をねじ込むことで戦慄を高めていた。このシーンは驚くほどレベルが高いのだが、それと同時に同作の中で唯一褒められる部分なので、時間を無駄にしたくない諸兄らは観なくてもよろしい。

 ところが本作の食事シーンは、"芸人の苦労話"を恥ずかしげもなく開陳する以外には、自然な流れで小坂を山野の部屋へと連れて行くための「つなぎ」としての機能しか持っていない。完全に使い方を間違えているというか、どうせこのシーンを入れなければならないのであれば、もっと作り手や原作者の感情が出ない構成にするべきだった。

 というわけで、中井と小坂の両名は山野と連れだって問題のアパートに来るのだが、ここで小坂が所謂「見える子」ちゃんであることが発覚する。具体的にはアパートの前の駐輪場で黒い人影を、部屋の前の廊下でバールを持った不審者を目撃してしまう。

 昔ながらのカメラワークやアングルの工夫で見せる後者はともかく、ハエがたかっているようなチープなCGで怪異を出してしまう前者は最悪だ。何の恐怖もない。そしてスクリームクイーンであるはずの奈緒の演技は大根そのもので、ホラーというより百面相を観ている気になってくる。演技に緩急がないのだ。最初からフルスロットルなのである。コロッケの顔面モノマネの方がよっぽど緩急がついている。

 ちなみに小坂が見たバールを持った不審者は殺人事件の加害者なのだが、何故加害者まで幽霊になっているのかというと、既に刑死しているからである。そう来たか。一応辻褄は合っているな、一応でしかないが。

 前回以降めぼしい怪奇現象が撮影出来ず焦った山野は、ふとした拍子に小坂が「見える子」ちゃんであることを知り、撮影のアタリをつけるために部屋へと招く。しかし小坂はカメラの前では何も感じ取ることが出来なかった。

 休憩中に小坂は殺人事件当時のシーンを"見て"しまうのだが、ここも演技が大根過ぎるあまり、乾いた笑いしか出てこない始末である。被害者役・加害者役の演技はなかなかいいのだが、如何せんヒロインがこれでは。これ以上奈緒の演技について論っても意味がないので、以下の文ではそれらは全て省略する。

 なんとというかやはりというか、ずっと回していたはずのカメラは途中で録画が途切れており、問題のシーンは一切映っていなかった。その後山野はアパートの駐輪場で、中井はTV局に向かう道すがらで、全く同じ姿をした赤い服の女と遭遇するのだが、この女というのがあまりにも存在感がありすぎて、昼日中に立っているともはやジョークなのである。せめて暗がりに立っていてくれればまだ見られる映像だったと思うのだが、おそらく適したロケーションがなかったのだろうなあ。

 赤い服の女の袖口から血がしたたり落ちるシーンもあるのだが、どんなに音響ではったりを利かせようと肝心の映像に恐怖感がないので、私は以前観た"細かすぎて伝わらないモノマネ"の『何が漏れてんのか知らんけど歌どころじゃない京都のストリートミュージシャン』というネタを思い出してしまった。「何が漏れてんのか知らんけど駐輪場でライブどころじゃない大阪のストリートミュージシャン」というタイトルが脳内で、「ピピン!」という効果音とともに例のフォントで被ってくる。それほどまでに映像に緊張感がないのである。関根勤も笑っているだろう。ちなみにこの後山野と中井は同時に車に轢かれる。

 1ヶ月後、山野はついにバラエティ番組レギュラーの座をもぎ取った。新たな事故物件を探すため、不動産屋に赴いた山野に横水(江口のり子)という社員が対応する。ここは江口のり子の怪演が光るシーンなのだが、亀梨和也の顔をどうしても画角に収めたいカット割りのせいで、平面的で奥行きのない画になってしまっているのが惜しい。そもそも本作は亀梨和也を背中から映すシーンが殆どなく、常にいつでも登場人物を横に並べて喋らせたがるので、それが基底に流れるチープさを補強してしまっている。どのシーンを観ても、書き割りの中で演じているようにしか見えない。いや実際書き割りなのだろうが、それを隠しもしないのではもはやドリフのコントである。我々は映画を観たいのだが……。

 殺人があったという部屋を即決した山野は、早速中井と共に移り住む。部屋に荷物を運び込んだ山野と中井の後ろからは、例の黒い影がぴったりとつけてきていた……のだが、ここではもう完全に黒マントの人物の形をしており、恐怖感は皆無である。しかもそのシーンにわざわざ2カットも使って長々と見せるので、とにかくテンポが悪い。こういうのは一瞬だけ、しかも遠方に見せるから怖くなるのであって、「はいこちら!」と明示してしまうとジョークになってしまう。

 この部屋も部屋で、目に見えるところに血痕が残っていたりして、もう遊園地のお化け屋敷のようなテイストである。事故物件怪談の題材を1軒に絞らない以上、手早く話を進めたいという制作陣の思惑が透けて見えるディテールのツメの甘さがここでも光っている。

 山野はついにルポ本(原作の『事故物件怪談 恐い間取り』のことである)を上梓し、講演も満員で売れっ子芸人の仲間入りを果たす。小坂はその山野の肩にふわふわとまとわりつくような髪の幽霊を見るわけだが、これもあまりにも実体感がありすぎるので怖くもなんともない。その後ジャンプスケア的演出が入るが、これも怖くないので論ずるに値しない。ジャンプスケアでジャンプできないって相当だぞ。

 一方、郷里の母が倒れたという知らせを受けた中井は、撮れ高を焦るあまり小坂を再び部屋に呼ぶことを提案する。山野は仕事の失敗で落ち込んでいる小坂を励ますふりをして部屋に招き撮影を開始するも、小坂は何も感じ取ることが出来ず、その挙げ句風呂場の敷居でこけた山野に押し倒されラッキースケベを食らう始末であった。私にはこのラッキースケベ演出が本当に唐突かつ作劇上必要があるとは到底思えず、もしかすると本作は亀梨和也のファン層に向けた追っかけ映画でしかないのでは?と疑い始めてしまったが、おそらくそれが真相なのだろう。

 山野が電話に出ている間風呂場に取り残された小坂は、この部屋のかつての住人であり、殺人事件の被害者である老婆の霊に、洗面台に顔を押し付けられて殺されかけるのだが……このシーンには複数の問題がある。まず、恐怖演出としてあまりに凡庸すぎるという点。老婆は「振り返ったらいる」というベタすぎる登場をするため、全く怖がれない。タイミングが把握できてしまうのだ。そういうひねりが本作には一切ない。本当に一切だよ。割り切った作りである。次に、奈緒の演技が……いや、この話は全て省略するのだったな。このシーンが特に最悪だとだけ書くに留める。次に進もう。

 山野が情報や状況証拠から推理した殺人のシーンは、被害者・加害者役の役者の怪演もあって鬼気迫るものがあり、正直言ってげんなりする。それはひとえに他のシーンがあまりに凡庸以下であるためで、1から10までこの調子で進んでくれればまだ見応えのある作品となっただろうに……と思わざるを得ない。

 小坂を送って山野が帰ってくると、中井が大急ぎで荷物をまとめていた。実家の工場で火事があり、父が生死の境を彷徨っているという。「誰かが死んでからでは遅い」と事故物件に住み続けることをやめるよう説得する中井に対し、山野は今更やめるわけにはいかない、と言って次の事故物件を探すのだった。

 3軒目は先月首吊りのあった部屋だった。ロフトでごろつく山野を見つめる黒マントの人。もうジョークでしかない。この緊張感のなさはなんとかならんのか。そのうち山野はロフトに上がるはしごの手すりに凹みがあることに気付く。それに触れた瞬間猛烈な頭痛に襲われ、ついには仕事を休んでしまった。ちなみにこのシーンでは再び気でも狂ったかのような音響効果がかかるので、鑑賞者も頭痛を引き起こしそうになる。いや、それ以前にも頭が痛くなるようなもの散々見せつけられましたけど……。

 前後不覚に陥った山野は自分の首に紐を巻き付け首を吊りかけるが、その身を案じ小坂が訪ねてきたことで間一髪救われる。小坂が事故物件公示サイトで調べたところ、この部屋では2人が死んでいたことが分かった。その理由は頭痛。いや、本当に頭痛から逃れるためだったと説明されるのだよ。

 ところで、目の奥や眼球を中心に周期的に激しい痛みの発作が起こり、日常生活に差し支えるほどになる群発頭痛という病気は実在する。海外ではその痛みの酷さ故に"自殺頭痛"とあだ名されることもあるそうだが、現代の医療では予防こそ出来ないものの対症療法は確立されており、適切な治療と服薬を行えば軽減することの出来る病気である。みんな病院行ってくれ。

 山野のコーナーは順調に数字を稼ぎ、ついに番組は全国ネットになることが決まる。山野もそれに伴い東京近郊の事故物件を探したところ、千葉市の2DKのアパートが引っかかってきた。恋人同士が無理心中を図ったのだという。

 小坂は間取り図だけからでも何かを感じられるのか山野を必死に止めようとするが、やっとスターダムへの切符を掴んだ山野には響かず袖にされてしまう。このシーンはメロドラマ崩れの破廉恥なBGMをはじめとした、「邦画のダメなところ」を寄せて集めて煮こごりにしたような出来だ、といえばそれ以上の説明はいらないと思う。中田秀夫のメロドラマ趣味がここで顔を出してしまった。

 上野駅に着いた山野は突然怪しげな男(高田純次)に呼びとめられる。高田純次は山野に悪霊が憑いていると言い、お祓いを勧めてお守りを手渡した。ちなみに700円である。このシーン、高田純次があまりに高田純次なので、私は戸惑ってしまった。ここは笑いどころかも知れないと思ったのだ。笑いどころであれば笑うべきだとも思ったが、それはここまでの低調な演出を笑っていたのとは別種の笑いだ。笑っていいのか悩ましい。まさかホラー映画を観ていて、売れない芸人のコントを観るような心持ちにされるとは思ってもいなかった。

 物件についた山野は、荷ほどきをする間もなく部屋の真ん中で突然倒れてしまう。私は不覚にもここで爆笑した。何もかも高田純次が悪い。高田純次の布石がなかったら、こんなに笑うことはなかったと思う。夜も更けてから、やっとインターホンの音で目覚めた山野は恐る恐る玄関を開けるも、勿論そこには誰もいなかった。

 大阪で仕事を続けている小坂は、中井から山野と縁を切るよう忠告される。中井は事故死した父の後を継ぐべく、放送作家の仕事を辞め、実家の工場に帰るのだという。そう忠告されたのにも拘わらず、なお小坂が山野の事故物件生配信を観ていると、画面の山野の顔が黒く歪んで映った。ここでも奈緒の演技が……いや、やめようこの話は。

 数日後、帰宅した山野が眠ろうとしていると、部屋の明かりが消え、何者かに足を掴まれる。見れば痩せこけた老人で、驚いて振り返れば、備え付けの冷蔵庫の中で太った女がバターを食っている。天井裏からサラリーマンが這い出し、押し入れから包丁を持った女が飛び出して板間にいる男を刺す……特に前触れらしいものは何もなく、いきなり百鬼夜行が始まってしまうのである。ここまで緩急の付け方がおかしいホラー映画は久しぶりに観た。勿論幽霊の皆様は極めて実体感がある。

 取り囲まれた山野が必死に高田純次から700円で買ったお守りをかざすと、幽霊の皆様はかき消すようにいなくなってしまう。すげえな高田純次。たった700円ですげえ効き目だな高田純次。スピリチュアル界のバルサンみてえだな高田純次。勿論このシーンでも私が失笑してしまったことは言うまでもない。

 その後は満を持して、黒マントの人の登場である。バルサン高田のお守りも粉砕されてしまう。すげえな黒マントの人。酸欠の金魚のように口をパクパクさせるだけの山野の耳に、インターホンと小坂の声が響く。……ここまで来たら、もう少しひねりがあるかと思った私がバカだった。ホラーの終盤で聞こえる声は偽物だと相場が決まっているぞ、と私は思っていたのだが、小坂は本当に来ちゃってるのである。本当に扉バンバン叩いて、最初に山野に会ったときに貰ったコントの小道具の傘で、窓を突き破って突入してくるのである。全くひねりがない。すごいでしょう?この割り切った作り。

 黒マントの人も負けじと山野と小坂を何らかのパワーで操り、無理心中を図った先住者になぞらえて互いを殺させようとする。このシーンの亀梨和也の大根っぷりも特筆に値するが、こんな映画出来れば観て欲しくはないのでおすすめはしない。

 そんな中、部屋に飛び込んできたのは中井だった。お前も来るんかい。割ともっさりした動きで2人を引き剥がそうとする中井。その間待っていてくれる黒マントの人。やさしい。

 中井は持参した魔除けグッズを黒マントの人にぶつけるが、どれも蛙の面に水である。中井は電話越しに横水の助言を聞きながら、線香の束に火をつけて真言を唱えその火を吹く。すると火花が飛び散り、黒マントの人を取り囲んだ。黒マントの人の動きが止まった間に、山野と小坂も正気に戻る。激おこ黒マントの人、一瞬隙が出来た中井をメンチビームで吹き飛ばす。中井が必死に火花を飛ばすも、黒マントの人はそれを周囲にため込んで弾き返そうとしてきた。……言い忘れていたが、このアパートは木造である。燃えるよアパート。黒マントの人の攻撃を、小坂が持ってきた傘で更に弾き返す山野。虚を突かれてぐにゃあっ……(©福本伸行)となる黒マントの人。

 ……うーん、これアレだ。ハリー・ポッターだ。さあ皆さんご一緒に、エクスペクト・パトローナーーーーーーーーーーーーーーム!!!!!!!!……観る側もこんなテンションでなければやってられないんだよ、この映画。

 なんとか脱出に成功した山野らは、部屋の前の廊下でへたり込んでしまう。その場所がちょうど部屋の窓(小坂が突き破ったところ)の真下なので、私は「ああ!窓に!窓に!」と思ったのだが特に最後っ屁の演出はなかった。ホラー映画に求むべきひねりがなさ過ぎて、鑑賞者のSAN値はガリガリ下がっていく……。

 さて無事大阪に帰った山野と小坂は、横水に同棲のための物件を見繕って貰っていた。しかしどこからともなくやって来た黒マントの人が横水に取り憑くと、横水はふらふらと店を出て、そのままトラックに轢かれてしまう。山野と小坂は、近隣のアパートの窓にぶら下がった首吊り死体と黒マントの人に見下ろされながら不動産屋を後にするのだった……このラストシーン、一切誇張していない。すごいでしょ?何これ?我々は何を見せられているのか。

 エピローグに出る松原タニシ氏の結びの言葉もよく分からないというか、本作の本旨から少しずれているように思われる。氏の文章力はその程度なので、本作を見た後で原作にあたることも決しておすすめしない。もし手に取るのなら、続編の『事故物件怪談 恐い間取り2』から読むことをおすすめする。こちらでは優秀な編集者がついたのか、それともゴーストライターでもいるのか、文章力に些かの向上が見られるからだ。

 

 さて長々と書いてきたが、以上がこの映画の全容とツッコミどころである。……もうね、酷い。この映画は全方位的に酷い。それでいて、なんだか仕様書通りには仕上がっている感じがあるのだ。先にも書いたが、これは亀梨和也のファンに向けた追っかけ映画の感がある。でなければ無意味にラッキースケベやシャワーシーンを盛り込んだりしないだろう。そういう本筋とずれたコンセプトありきで脚本が組み立てられている気がしてならない。芸人の起用も多く、映画全体が楽屋ネタと化してしまっている。

 この映画に恐怖はない。新奇性もない。全編を通じて「まあ及第点が目標かな」という投げやりな姿勢が目立ち、面白いものを作ろうという気概が全く感じられない。まともな役者は江口のり子だけである。しかしながらストーリーに壊滅的なほどのねじれはなく、一応まとまってはいるので、『犬鳴村』(2020年/東映)よりも高い点数をつけざるを得なかった。よって、大負けに負けてこの点数である。

 

 2020年はクズホラーの当たり年だね、と楽天家は言うだろう。その両者が、かつて一世を風靡した巨星の凋落した姿だったとしても。この映画評も既に文字数は9000字に迫り、冗長記事となっている。私ももはや恒例になってしまったフレーズを何の臆面もなく用いて、これを結びの言葉としたい。

私は悲しい。中田秀夫という巨星の凋落が。こんなものしか撮れないJホラーの凋落が。そして何よりも、この映画を観てしまったという現実が、私は悲しい。

2022年6月19日日曜日

怪談にいたる病

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 この度、しばらくぶりに映画評を書こうと思って映画を数本借りてきたのである。

 映画評を書くのは大変だ。その映画を観ていない諸兄らにも伝わるように分かりやすい解説を書き、トホホな部分を針小棒大に論い、いい部分は素直にいいと言う。全体の流れを何度も確かめ、ネタバレに無配慮だとピィピィ喚く輩達の口に石を詰め込んで歩く。こう書くと簡単そうに思えるが、その実結構精神力を使う作業なのである。それに私は映画評を書く場合、対象の映画を必ず2回以上は観ることにしている。勿論その時間もバカにはならない。

 つまり何が言いたいのかというと、映画評は一朝一夕に書こうと思って書けるものでもないのである。書くにしたところで、しばらく健康不安のために雑文の執筆をサボ……もとい、休んでいたので、リハビリが必要だ。

 というわけで、私はリハビリがてら書いた怪談話を2本ほど、再び投下する次第である。ネタがないからではない。「こいつ困ったら怪談書いてるな」と思った諸兄らは、そのままお口をチャックして頂きたい。さもなくば私は泣きます。いいんですか泣きますよ。それはそれは見苦しいですよ。いいんですか。

 雑な枕はさておき、本題に突入するとしよう。

 

「トンネル」

 これは父からつい先日聞いた話である。

 その日父は、高速道を2時間ほど走ったところにある温泉地に向かっていた。何分、仕事や家事などのするべきことより自由を謳歌するのが好きな性分である。その悪い面を私がそっくり遺伝で受け継いだことは言うまでもない。

 私達が住んでいる市の反対側に抜け、隣のO市、更にその隣のY町を経由する高速道に乗った父の車は、O市とY町の境にあるトンネルにさしかかっていた。

 何の変哲もない、至って普通のよくあるトンネルである。長くも短くもない。トンネル内が緩やかにカーブしているため、入口から出口を見通すことは出来ないが、入って少し走れば出口が見えてくる……という、その程度のトンネルだ。

 平日だったこともあり、高速道を走る車はまばらである。父の車の前には、かなり車間を開けて数台の車がいるかどうかだった。

 トンネルの出口が近づいてきた時だったという。前を走る車の向こうに、車道を横切る人影が見えた。

 トンネルを吹き抜けてくる風に、ゴワゴワとした上着の裾が翻っていた。その質感はトレンチコートか、雨合羽のようだったという。えび茶色の上着を着た人物が、トンネルを出たところからほんの数メートルばかりの距離を、左から右に横断していた。

 父は「あんなところを横断するなんて危ないな」と思ったが、すぐに思い返して違和感に気が付いた。ここは高速道である。歩行者の立ち入りは勿論許されていない。

 すぐに思い当たったのは、高速道への誤進入であった。特に老人に多いが、自転車や歩行者の誤進入は意外なほど頻繁に発生しているという。

 しかしながらその推理には弱点があった。このトンネルはちょうどサービスエリアや料金所などの中間に位置していて、人間が歩いて立ち入るのには無理のある場所なのだ。それに、高速道の真ん中をああして歩行者が右往左往していたら、サービスエリアや料金所などの侵入地点からもっと近い場所で通報され、既に確保されていそうなものである。

 えび茶色の上着の人物は、再び横断することもなく、道路の右端に立ち尽くしていた。行くでもなく戻るでもなく、ただ呆然と立っているように見えたという。

 父は万が一誤進入だった場合に、通報に備えて人物の風体を掴んでおこうと、人物から目を離さないようにしてトンネルの出口付近で少し速度を緩めた。

 しびれを切らしたのか、後続車が1台、父の車を猛然と追い越していった。すると、その車が通り過ぎた後には、あれほど目立っていたえび茶色の上着の人物が忽然と消えていたのだという。

 トンネルを出てからも、サイドミラーやルームミラーにあの人物が映らないか気をつけていたそうだが、問題のえび茶色の人物はトンネルの出口が見えなくなるまでの間、どこにも映らなかった。

 

 その日帰宅した父は、やや興奮気味に私にこの話を聞かせた。

「絶対人間だった。道路を左から右に横断してた。見間違いなんかじゃない」

 そう力説する父に、私は話を聞いている最中から引っかかっていたことをひとつ尋ねてみた。

「その人が着てたのって、本当にえび茶色のコートだった?」

「そうだよ。赤みを帯びた茶色だった」

「それってさ」

「何?」

「乾いた血の色だったりして」

 

 どうにも気になった私は、その近辺で死亡事故が起こっていないかどうか調べてみたのだが、ざっと調べた限りでは、その辺りでは死亡事故はおろか、交通事故そのものが起こったこともなかった。

 えび茶色の人物は、何を待って立っているのだろうか。

 

 

「窓」

 これは恥ずかしながら私の話である。

 しばらく前から、運動不足の解消も兼ねて深夜徘徊をしていた。大抵は夕食後、夜10時前後から、町をぐるぐる歩き回るのである。

 幸いにも我が町は治安がいいので、これまで何か危険な目に遭ったとかいうことはない。ただ、ほんの3メートルばかり前方から突然キツネが飛び出してきて、にらみ合いになったことならある。キツネとはいえ野生の動物である。エキノコックスのこともあるし、正直肝が冷えた。こちらが一歩動くと、キツネは弾かれたように駆け出して夜の闇へと消えていった。

 と、このようにして夜の町を歩いていると、気付くことがある。

 それは、夜間の家々は、意外なほど外部からの観察者に対して無頓着であるということだ。流石に1階のカーテンやブラインドが開いていることは稀だが、2階の窓や高所にある窓などは、煌々と内部の明かりを外部まで漏れさせていることが多いのである。

 あまりいい趣味とは言えないのでこんなことを書くのは心苦しいのだが、実は私はそのような窓々を眺めながら歩くのが結構好きで、私の中の下卑た野次馬根性をちょうどよく消化してくれるので重宝していた。

 念のため書いておくが、住人の着替えを窓越しに覗き見たり、干されている下着を探したりなどは一切していないし、またする気もない。私はただ、見えるものを見ていただけだ。例えばそれはしおれかけた観葉植物であったり、壁を埋める背の高い本棚であったり、あるいは猫や犬だったりする。私はただ、私以外の存在が生活している証拠を、窓越しに眺めるのが好きだったのだ。

 中には不気味な家というのもあり、通りに面した出窓をぎっしりぬいぐるみで埋めてあったりして、これを夜見るとかなり怖い。しかもぬいぐるみ達の顔は全て外を向いているのである。もう私のような不審者を怖がらせるためにやっているとしか思えない。

 あるいは、通りに面した窓という窓に時計が掛けられている家もあった。1枚だけ時計が掛けられているなら分かる。1階の窓に全て掛けられていたとしても、まだ分かる。よほど時間が気になる住人なのだと思える。しかし、窓という窓に時計が掛けられているとなると、これはかなり異常である。何せ2階の窓にまで時計が掛かっているのだ。手すりもベランダもない2階の窓に時計を掛けて、誰が見るというのか。釈然としない。

 とある切妻屋根の家の、屋根裏部分にあたる窓の縁から、巨大なE.T.のぬいぐるみが通りを見下ろしていることに気付いた瞬間もかなり怖かった。ご丁寧にも、我らがE.T.君には下から照明が当たっているという気合の入りようである。もし私が車の運転をしている最中にそれに気付いていたら、ハンドル操作を誤って事故を起こしただろうという自信がある。

 このように、ちょっと意識して見てみると、変な家や不気味な家は思いの外多く存在しているのだ。しかしそれはあくまで住人達の意思で行われていることであり、何かしら異常だったとしてもそれは住人のほうであって、家そのものが異常なわけではない。そう思っていたからこそ、私は深夜徘徊と窓々の観察をやめなかった。

 ある夜のことである。私は今まで足を踏み入れたことのない住宅街を徘徊していた。

 この住宅街というのは、国道と高速道、それなりに大きなバス通りに囲まれた三角地帯で、そのいずれからもやや坂を下ることになる立地にあった。早い話が、すり鉢のように一段くぼんだ土地に造成された区画だったのである。一辺を高速道が区切っているため、この区画に入るには国道かバス通りから行かざるを得ず、加えて片手で足りる数の道のいずれかを選択する必要があった。すなわち、区画全体がひとつの袋小路のようになっているのだ。

 私は行きと帰りで同じ道を通るのがあまり好きではない。学校や職場など、何か目的地がある場合は脅迫的なほど同じ道を通りたがるのだが、目的もなくぶらついている場合は、(より多くの窓々を観察するという意味もあって)なるべく違う道を選択したかった。よって、往路と復路で同じ道を選択しなければならない区間が多くなるこの区画には、足を踏み入れてこなかったのである。

 にも関わらずその住宅街を歩いていたのは、本当に単なる気まぐれだったとしか言いようがない。他の手近な住宅地は概ね探索してしまったし、目的もなくただ遠くへ遠くへと歩くと、帰ってくるときがしんどいのだ。

 とにかく私はその住宅地に足を踏み入れ、徘徊がてら窓々の観察を行っていた。

 実際のところ、2階の窓というのはどの家もそれほどバリエーションがあるわけではない。大抵は本棚や机などの家財が見えるだけのことが殆どである。だからこそ私は窓から窓へと視線を絶えず動かしながら歩いていたのだ。

 その住宅街の中でも最も海抜の低い位置、要はすり鉢の底に到達した私は、その交差点からいちばん急な坂を選んで登り始めた。この坂というのがかなり急で、かつ舗装が非常に荒れている。文字通り穴だらけであり、街灯もまばらな中では足を取られてしまいそうで、私の視線は自然とつま先に落ちた。

 坂の半ばを過ぎると、かつては生け垣だったのであろう低木が野放図に伸び、歩道を半ば覆い隠さんばかりになっている庭が目についた。坂のいちばん上には、それなりに大きな家があるらしい。

 坂をほぼ登り終えても、敷地が一段高くなっている上に低木がかなり生い茂っているため、家の全容は見えてこなかった。しかしながら、この家も例に漏れず、2階の窓から光が漏れていることはうかがい知れた。

 坂を上り終えた私は、その家の全容を見ようとして角を曲がった。そして、生け垣の切れ目から、それを見たのである。

 それは規模が大きいことを除けば、至って普通の家だった。黒っぽいガルバリウム鋼板の外壁に、白い窓枠が散っている。向かって右手にはカーポートがあり、そのすぐ左隣には簡素なポーチがあって、その奥には建物全体の印象からすればやや不釣り合いにも思える木製の玄関扉があった。家の前には庭があり、生け垣の切れ目からレンガが敷かれた短いアプローチがポーチまで続いていた。

 ここまでなら、どこの町にも1軒はある家かも知れない。しかし、この家は死んでいたヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

 カーポートの屋根部分に張られたポリカーボネートの板は破れており、ポーチの壁には表札が剥がされた跡が残っていた。庭は所々に鉢やレンガなどが覗いているからかろうじてそれと分かる程度には荒れており、レンガ敷きのアプローチにもその隙間を縫って草がぼうぼうに伸びている。

 この家に、住人はいない。誰が見ても明らかだろう。では私が見た2階の明かりは何だったのか?

 2階には家の正面に面した窓がなかったので、私は今登ってきたばかりの坂を少し下り、先ほど窓の明かりを認めたところまで戻った。

 人間の知覚というのは微妙なもので、家の全貌を把握した今となっては、生い茂った生け垣越しに、窓のある位置もなんとなく把握できてしまう。私は窓を見上げた。明かりはまだ漏れている。

 私は生け垣をそっと手で押しやってみた。生け垣の内側部分には殆ど葉が茂っておらず、細い枝の向こうに2階の窓が見え――それと目が合った。

 家の作りから推測するに、おそらく2階の廊下の突き当たりか、あるいは階段室にあたる部分に出窓がしつらえられており、明かりはそこから漏れていた。そして――その真ん中に、ぽっかりと顔が浮かんでいたのである。やや背筋を曲げて、窓に押し付けるように突き出された、うつろな顔があった。そしてその目は、真っ直ぐ私を見下ろしていた。

 私はもしかすると、短く叫び声を上げたかも知れない。それヽヽと目が合っていたのも、ほんの数秒に過ぎなかったと思う。私は生け垣から頭を引っこ抜き、一目散に今来た坂を駆け下りた。坂を下りきって振り返ったとき、私は家が私を見下ろしているヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽのを確かに感じた。その視線を背中に受けながら、私は最短距離になるはずの道を選んで家へと帰った。

 

 その後、私は結局深夜徘徊を行う勇気がどうしても湧かず、今では昼間に時間を見繕っては町を歩いている。近くにも行っていないので、あの家が昼間どうなっているのかは分からない。ただ、今でもその区画を見下ろす国道沿いを歩いていると、あの家があったはずの辺りから視線を感じることがあるということを書き添えておきたい。

2022年6月2日木曜日

本の回虫

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 困った困った。さて何に困っているかというと金欠である。

 良識のある皆々様は私が金欠だと言うと、代わりに社会の構造欠陥や政府の無策を嘆いてくれるだろうが、諸兄らはたった一言「働け」と言ってお終いにしてしまうだろう。知ってるんですからね。

 勿論私は無職である。働いていないので金がないのである。残念ながら本邦は社会主義を標榜する国家体制ではないので、職にあぶれているのである。かつての社会主義国では3ヶ月間職にありつけないと拘禁を食らったりしたそうだが、私は当局にバレれば一発で5回の終身刑を言い渡されるレベルで無職である。

 何かになりたくて無職なのではなく、何にもなりたくないから無職なのである。かつては私にも夢があったし、それなりに努力もしたが、その過程で精神を病みかけて何もかも失敗し、失意の中帰郷して縁故就職した会社で陰湿な嫌がらせとセクハラを受け、私は完全に社会を信頼することをやめた。

 いや、別に恨みつらみをここで開陳したいわけではないのである。今となってはそれも昔のこと。一時は地下鉄のホーム柵を乗り越えてしまえばとまで思ったが、恨みつらみもやっと薄れてきた。今では、雨が降れば前職の職場が沈めばいいと願ったり、雪が降れば前職の職場が雪害で倒壊すればいいと願っているだけである。うむ、遺恨は根深いな。

 実家に寄生して生きている回虫のような生活ゆえ、職のあるなしが生き死にには直結しないからこそ危機感が薄いのである。起きて飯を食い、クソして寝る生活をしているうちに数年が経っていた。他人の人生など心底どうでもよいので、友人や同期達がどうなっているかなどには興味もない。そもそも友人と呼べる人は片手どころか腕の数で足りるほどしか残っておらず、同期達に至っては学校を出てから連絡したこともないから、例え興味があったところで知りようがないのである。

 話を元に戻そう。なにゆえ金欠なのかである。

 3、4、5月は全般に出版ラッシュであり、新生活で通勤通学時間に暇が出来た人々を狙い撃ちするため、出版社は手軽な文庫本や新書で魅力的なラインナップを次々ぶち上げてくる。入手難が続いていた海外作家の作品が新訳版で再発されたり、人気作家の短編集が書き下ろし込みで出版されたり、暖かくなってきておそらく気の触れかかったのであろう編集部が、奇書中の奇書と呼ばれる本を再発したりするのである。

 文庫本は手軽である。ポケットにも収まるサイズで、町中や電車内で読んでいても別に怪しまれない。少しおしゃれですらある。これが電話帳だったり広辞苑だったりしてみたまえ、それは立派な不審者である。辞書を持ち歩いている人物は残念ながら不審者と見なされるのである。

 生憎、かつて家に他に読むものがなかったため電話帳や辞書を持ち歩き、時には人目のある場所で読んでいた私は既に不審者の側であるので、これ以上怪しまれるような行為は避けたい。二宮金次郎が歩きながら本を読んでいたのだって、子供だから美談にされたのである。私は勿論二宮金次郎に憧れたわけではなく、ただ活字以外の情報を目に入れたくないあまりに、歩きながら文庫本や新書や四六判のハードカバーや地図帳や電話帳や漢和辞典を読んでいたわけだが、それが許されたのも私が子供だったからである。今考えると恐ろしい。よく車や自転車やキックボードや散歩中の犬に轢かれなかったものだと思う。

 それなりの歳になってしまった今、道を歩きながら本を読んでいるところを万が一誰かに目撃でもされたら、間髪入れずに通報されてしまうだろう。そういうときに限って読んでいる本が『殺戮にいたる病』だったりするので最悪である。背負ったバックパックにたまたま包丁が入っていないとも限らない。そうなってしまえばもう言い逃れは出来ない。

 私がいつもバックパックに護身用と称して出刃包丁を忍ばせて歩いているタイプの不審者かどうかはさておき、私は屋外で腰を据えて本を読むことをあまり好まない。

 仙台に住んでいた頃の話なのだが、中心街の古本市で買ってきた文庫本を、アパートの最寄り駅そばにある自然公園のベンチに座って読んでいたことがあった。季節は梅雨前で、仙台の街がいちばん過ごしやすい季節である。少し肌寒かったが、私は本の内容が気になるあまりアパートの部屋に帰る間も惜しんで、そこで読書を始めてしまったのだ。

 活字の小さな古本だった。それを1/3程度まで読んでいたので、1時間かそれ以上はベンチに座っていたことになる。私は鞄に入れた飲み物を取り出そうとして本から目を上げ、そしてぎょっとした。

 公園には他にもベンチはあるというのに、同じベンチ、つまり私のすぐ隣に、いつの間にか見知らぬ老人が座っていたのである。座っているだけならまだいいのだが、老人は私の顔を凝視していた。禿頭に汚れのようなシミが飛び散り、張りのない皮膚が骨張った頬に垂れ下がっている。薄い唇を半開きにして、落ちくぼんだ目は真っ直ぐ私の顔に向けられていた。

 いつ座ってきたのかも分からない老人が、それなりに無理のある姿勢で隣に座っている私の顔を凝視している、という構図に不気味さを覚えないのであれば、それはもはや人ではない。

 あまりのことに脳が機能不全に陥った私は、本を読んでいた姿勢のまま、弾かれるようにベンチを立った。そのまま駅のほうに向けて歩き出し、公園を出るところで元いたベンチを振り返ろうとして思いとどまった。振り返ってまた老人と目が合うようなことがあったら、絶対にあの生気のない顔が今夜の夢に出るからだ。いやそれよりも、もしも振り返ってすぐそばに老人が立っていたら、私はおしっこを漏らす自信があった。

 そのまま(不安からちょっと回り道をして)私は帰宅したのだが、幸いにも仙台に住んでいる間にその老人と会うことは二度となかった。

 そんなことがあった手前、私は屋外で本を読むことは避けている。もしそうせざるを得ない場合は、ひとり掛けの席か角っこに座るようにしているくらいだ。少なくとも公園のベンチで本を読むことはもうない。

 ……また話が大きく脱線してしまった。

 つまり何が言いたいかというと、春先は面白そうな文庫本の出版が重なるため、1冊数百円だからと軽い気持ちでホイホイ買ってしまってから泣きを見るのである。現に泣きを見ている。

 週刊連載の漫画なども春先に単行本が出ることが多く、それらもちまちま買うとそれなりの値段になる。ミリタリー畑の資料本や手記などの出版が相次いだのも痛かった。この辺りの本はあるとつい買ってしまう。ビールの横に売られている豆菓子じゃないんだぞ。

 どだい、本好きという人種はみんなどこかヘンなのである。おっかしいのである。

 本好きという人種の部屋では、本棚の入居率が100%を超過していることなど日常茶飯事である。私の文芸書用本棚などはさながら立体テトリスの如き詰め込まれ方をしており、おそらくではあるが入居率は既に400%を超えている。かつての九龍城のような惨状である。だいたい、何か本を探したりなどしてひとたび本棚から十数冊本を取り出してしまうと、元あったはずの棚に本が戻っていかないのだ。さながら四次元本棚である。

 ちなみに、この本棚は背が高い上に、部屋の構造上出入り口のすぐ横に配置されており、すなわちもし巨大な地震が起これば、本に出入り口を塞がれて私は自室で餓死することになる。

 また本好きというのは、たまに珍しく本を処分したり売却したりして本棚にほんの僅かの間隙が出来ると、喜び勇んで処分した量の3倍にあたる本を買ってきてしまったりなんかしちゃったりするのである。オーバードーズでぶっ倒れて矯正施設に入れられた挙げ句、出所した際に「やった!キレイになった!これでまたドラッグが出来る!」と放言したキース・リチャーズのような話である。まあキース・リチャーズは定期的に血を入れ替えないと死んでしまう奇病であるので仕方ない。仕方ないことがあるか。

 そんなわけで、私は今日も人ひとりの命を奪うには十分過ぎるほど大量の本に埋もれてカカカと笑っているのだ。……うーん、不審者であるな。どうにかして不審者予備軍で踏みとどまろうと思ったが、我ながらぐうの音も出ないほど不審者であった。

 ぐうの音も出ないほどの不審者はおとなしく部屋にこもる以外に処世訓が存在しないのであるからして、私が無職を卒業するのも、金欠が解消されるのも当分先のことになりそうである。

 かつて、「同情するなら金をくれ」と言ったTVドラマがあった。先述のように私は同情される余地は少なく、反対に無職である分、他者に同情する余地は多分にある。いっそこれからは「同情するから金をくれ」だ。他者にむやみやたらに同情してさしあげて、そのお代を頂くのだ。同情をビジネスに出来る時代はそこまで来ているはずなのだ。

 ……そんなことを標榜してオンラインサロンなんかを開催すれば、濡れ手で粟を掴むように銭が手に入ったりしないかねえ。

2022年6月1日水曜日

打鍵するチンパンジーの人工知能

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 いつもは書き出しに困ることなどあまりないのである。

 それは何故かというと、普段は書き出しが固まってから書き始めるからである。ここ情報量ゼロであるな。

 つまるところ私は典型的な「自己ルールに縛られて効率が悪いやつ」なので、本は1ページ目から読み始めねば気が済まないし、小問集合から解き始めねば脳の回転スピードは目に見えて落ち、午後から何か用事が入っていると午前中いっぱいは尻が落ち着かず何ひとつとして手につかないのである。物事は順序立てて説明してもらわないと何も納得できないお粗末なスペックのCPUであるからして、書き出しが決まることもなく本題に入ることなど出来ないのだ。

 これまで数本の雑文を書いてきて分かったのだが、そういうときは適当に指をキーボードの上で動かすのがよい。何もフィンガーダンスをしろと言っているのではなく、文章としての体裁や起承転結、果ては主述の呼応すらあまり考えずに、ただ文字を打ち込むのである。すると思いの外するすると文字が出力されてくる。

 勿論、それは単なる文字や言葉の羅列、良くて怪文書に過ぎないので、必要に応じて推敲を重ねなければならない。しかしながらいつでも脳がとろけたような仕上がりの私の雑文には、あまり必要はない工程とも言える。……そんなことはない。芸人の苦労自慢のようで甚だきまり悪いが、これでもある程度推敲は重ねてから公開しているのである。

 前述のように元はただただキーボードの上で指を動かしているだけで形成される文章であり、タイプライターを叩くチンパンジーが偶然性によって執筆したものとそれほど相違はないのだ。シェイクスピアよりも私の雑文のほうがよっぽどレアリティが低く設定されているだろうから、おそらくチンパンジーを3頭ほど連れてくればすぐにでも相似の雑文が排出されるはずである。

 生憎私にはチンパンジーを3頭飼う余力と資金すらないので、この雑文は全て私ひとりの手で執筆されている。よって諸兄が「この文章は人が書いたのか、チンパンジーが書いたのか」と思い悩む必要はない。もっとも、ここで文章を書いている「私」が、類人猿としては高度な教育を施されたがゆえに同胞を見下しているチンパンジーではないという保証はないのだが。

 代筆といえば、私の文章は一見、流行りの人工知能というものにも執筆できそうであるが、私という天然無能の思考回路を再現するのは逆に難しいはずだ。人工知能というのは、シェイクスピアやダンテやトルストイや谷崎潤一郎などのきら星の如き作家達を読んで文章を学ぶのだから、筒井康隆やしりあがり寿や夢野久作を読んだ上でエログロナンセンス以外を出力している私の文章に近づくことすら出来ないだろう。複葉戦闘機は速度が遅すぎて、すばしこい単葉戦闘機での撃墜が難しい、みたいな話である。

 とにかく、私にもし作家性というものが存在するなら、それは消しゴムやバックスペースによって担保されるのだ。まるで「消しゴムで書く」とまで言われた往年の安部公房のようではないか。書いている内容は天と地ほど、いやチューインガムと二眼レフくらいの差があるが。

 これは余談だが、安部公房には『笑う月』という夢日記の体裁をとったエッセイ集がある。夢の話なのだから支離滅裂なのは当たり前として、あまりに突飛すぎて普通に文学として成立してしまっているのだからすごい。文豪は見る夢すら常人とは異なるのか、と当時中学生だった私は衝撃を受けたものだ。実際には私は常人以下の存在だったわけだが。私の夢はいつもいつも、「高校入試に滑る」という判で押した結末を辿る悪夢ばかりである。

 私は消しゴム、否バックスペースとカット&ペーストで執筆している、と豪語しておきながら、時折文字数が数千字を数えるのはいかなることか、と思われる向きもあると思う。この答えは簡単である。話を薄めるのに原資はいらないからだ。

 インスタントの粉末にお湯をかけて味噌汁を作るのは簡単だが、出来上がった味噌汁を粉末に戻すのは難しい。これと同じことが起こっている。機微の乏しい生活の中でほんの少しだけ立った感情の小波を、悪ふざけと余談を注入しまくって津波にするのは比較的簡単だ。今こうしてただキーボードの上で指を動かしているだけで、もう1700字ほどが出力されてしまった。

 何だってそうだが、本当に難しいのは引き算なのである。料理の美学神髄は引き算である。建築の美学だって引き算である。ホラー映画の美学も基本的には引き算であるはずなのだが、どうも毛唐どもには理解できない概念、すなわち蛮族の蛮習らしいのでこの際どうでもよろしい。そうでなければCGでバンバン幽霊を合成したりゾンビを走らせたりしないはずなのである。それを許せないのは我々が蛮族だからだと、彼らはしたり顔で言うだろう。

 実際のところ引き算が難しくないのは算数だけだ。引き算より掛け算のほうがよっぽど難しい。掛け算よりも難しいのは割り算で、それ以降はもう意味すら分からぬ。自慢ではないが、私はクラスで2番目に九九を覚えるのが遅かった程度には数が分からぬ。未だに24時間表示の時計が読めない程度には数のほうからも見放されておる。高校時分の学内模試では学年首位と同率最下位を同時に取ったことがある。前者は現国で、後者は数学だ。かくなる上は数学を刺して俺も死ぬ。

 ちなみに、私が「自慢ではないが」という枕詞で話し始めた時は大抵本当に自慢ではないので、自尊心がおとうふの角より脆い諸兄達も安心して聞いて頂きたい。私は諸兄のサンドバッグである。殴ればいいじゃないのよ、それで満足するんでしょ。男子ってサイテー!フケツ!

 谷崎の潤ちゃんが喜びそうな話はさておき話を戻すと、薄めきった話のどこを削るかはかなり、かなり深刻な問題なのである。こうしている間にもだんだん興が乗ってきた私はむやみやたらにキーボードを叩き、文章を生成している。厳密にはキーボードの電気的な接点も1回のタイピングでほんの僅かずつとはいえ摩耗しているし、私の睡眠時間や他の創作活動に充てられる時間だってどんどん削れていくのである。これはもったいないことこの上なかろう。そうやって生み出された文章を整理するのではなく削ってしまえば、キーボードの接点も私の時間も無駄死にである。

 100を書いて1を世に出す、というのは創作論の鉄則だ。しかしながら私は数年に亘る無職生活と、それ以前の赤貧学生生活のために、貧乏性が骨身に染みついてしまったため、残りの99はどうなるんですか、とわめきながら、くしゃくしゃの原稿用紙を胸に抱えて地獄の釜に沈むのがオチなのである。隣ではキーボードの接点があっぷあっぷしておる。そしてはるか上空の極楽からは、糸の代わりに照明のリモコンが落ちてくる。諸兄らもご存じの通りである。

 実際には削ってこれなのだが、ここまで既に2700字以上書いてきている。なお文中の文字数は決定稿に準拠している。とりとめのなさでいえばいつにも増して酷い文になりそうだ。待て待て、これはそもそも何の話であったか。

 ……そう、書き出しである。書き出しに悩んでいたのだ、私は。ところがどっこい、文字数は既に3000字に迫っており、ここまで来てから書き出しを悩んでいても仕方あるまい。既に文章は書き出されており、最早ここまでの何が本題だったのかも判然としないが、今の私にとって目下の悩み事はこの文章の結びである。結ぶとして一体何を結ぶのか。

 書けば書くほどその分結びは遠のくが、海水1滴を樽一杯の真水で薄めてしまえばそれは真水にしかならないように、薄めるにしたところで限度というものがある。唐辛子の絞り汁を水で薄めていき、官能検査で辛さが感じられなくなったところを値として記録する辛さの指標、スコヴィル値を測っているのではないのだぞ。

 昔、「終わらない歌を歌おう」と歌ったバンドがあった。実際にはこの曲は3分ちょっとしかなく、割とすぐ終わってしまうのだが、バンドは勿論この曲を歌い続けろと言っているのではない。あくまで精神性の話だ。かつて吉田拓郎は雨に濡れながら『人間なんて』を2時間歌っていたが、おそらくそういうことでもない。

 音楽の精神性を重要視しないのは日本人の悪い癖である。昨今の流感によって、ライブからコール&レスポンスやモッシュがなくなってよかった、などという感想を目にしたときは白目を剥きすぎて眼球が後方宙返りするかと思ったものだ。

 音楽の持つ精神性やライブ演奏の持つ当事者性、即時性を無視するのであれば、ライブなど行かずに家から一歩も出ず、ご自慢のオーディオシステムでハイレゾ音源などを聴いておればよいのだ。きょうび写真で見るミュージシャンと実際に見るミュージシャンにはそれほどの違いはない、というのが私の持論である。ただ動くミュージシャンを見るためにライブに行くことは、本質とは言えない。それは動物園で人混みに揉まれながら、檻の向こうのパンダを見るようなものだ。ライブに行くというのは、精神性を享受しに行くことなのである。

 終わらない歌を歌おう。例え曲は終わろうとも。そしてこの雑文もまた蛇足に次ぐ蛇足で結びを遠ざけることをやめて、むやみにいいこと言った風にして終わっていくのである。ひどい話もあったもんだ。