(これははてなブログからの引っ越し記事です)
突然だが、私は自分のことをあまり美化しない。
こう書いてしまうと、諸兄らはきっと首を捻ることだろう。「自分を美化しない」と言い切る手合いは、大抵「自分が定義する自分」と「実像の自分」との間にあるギャップに気付けないほどの大馬鹿野郎であることが殆どだからだ。
それであれば、いっそ自分を美化しきっている方がよっぽどよい。美化された自分という自己認識があればこそ、人はその姿を保つ、あるいは近付かんとして努力をするのである。そういう一種のノブレス・オブリージュがあってこそ、人は真に社会的存在たり得るのだ。著名人が社会奉仕をするのも、お笑い芸人が何かにつけ苦労話をするのも、インターネット上の漫画絵描きがすぐに「描かないと人権がなくなる」などとほざくのもその一環であり、詰まるところ第三身分、プロレタリア、消費者、底辺、諸兄ら、などと好きな言葉で呼べばよいが、そのようにノブレスではない者は「はっは、抜かしおる」と鼻でもほじりながら肘枕で寝転がっておればよいのである。
その点、自分を美化しない人間は厄介である。何といっても担保される自己認識がないので、責務もなければ上昇志向もない。いわば無敵の人である。
このように、私があまりに上昇志向を捨てきっているのは、何度か書いているように大部分は育ちのせいである。
私は両親や親戚縁者など、本来であれば身近であるはずの大人たちから、努力そのものを褒められた記憶がない。当世風に言えば、褒められが発生するのは常に「成果」があった時だけであり、どれほど努力しても「成果」が伴わなければ必ず怒られが発生していた。更には両親の教育方針として、例え「成果」が伴ったとて、努力に報酬が支払われることはなかったのである。
一般によく見られる話のように、テストで何点以上取ればお小遣いが貰えるとか、欲しかったものをひとつ買ってもらえるとかいった現物報酬は、規模の大小を問わず、我が家には一切発生していなかった。無論、勉強は小遣いや物欲を満たすためにするものではない。勉強は自分自身のためにすることであって、そこに外的動機付けを必要とするのはおかしな話である。それは全く正論であるし、その厳しくも公正な姿勢を20年弱に亘って貫いた両親の胆力には賞賛を送るものであるが、それはそれとして、一般にガキというものは、そこらの犬畜生よりも堪え性において劣る存在だということを、どうも我が親愛なる両親は知らなかったらしい。
私は何度となく、ありとあらゆる交渉材料を用いて月々の小遣いアップを目論んだものだが、それらは両親という大蔵省の前では全て蟷螂の斧に過ぎなかった。
努力しようがしまいが給料が変わらないとなれば、人は一体どのように振る舞うか?勿論、これは歴史が証明していることであるのでここでは子細を述べないが、それと全く同じ現象が我が家でも起こっていた。両親は私が可愛いあまり、私が彼らの子供である以前に人間である事を失念していたのである。
共産主義はいつだって正しい。間違っているのは常に人間である。だから、人類は共産主義の敵なのである。共産主義の理想に殉じたければ、人類を敵に回して闘争するより他にないのである。かといって共産主義が殉死者に微笑み返してくれることなどない。悲しいなあ。
さて、以上が今回の枕だが、既に冗長であるし、なんだかひがみっぽい。ちなみに、私が嫌いな言葉は「自己責任」である。言うまでもないが、こちらには常に自己責任からの自己批判からの自己逮捕からの自己刑死をする覚悟があるのだ。そこな並み居る凡骨どもとは気位が違う。共産主義も喜んで私を手駒にすることだろう。
この度、ずっと以前に作ったギターを押し入れから引っ張り出してきたのだ。
この雑文置き場でしか私を知らない諸兄ら(などというものが殆ど存在していないのは勿論知っているが、存在していないからといって説明を省けばそれは内輪ネタに伍してしまうのだぞ)には初耳かも知れないが、実は私はエレキギターやエレキベースを一通り製作出来るだけの教育と実習を受けている。それらの内容には大抵のリペア作業も含まれており、自宅にそれが出来るだけの設備や工具を買い集めることをしていたりもする。このギターは、その教育の過程で私が作った十数本の内の1本だ。
ここで少しシビアな話をすれば、実際のところ、自分で作ったギターが使い物になることはそう多くない。きちんとしたテンプレートと工作機械を使い、規格立てて作業を行える環境であればまだしも、実習の一環なのだから、大体は毎回のように異なった仕様のギターを、基本的な工作機械と手工具で製作することになる。
ギターというのは事実上精密工芸品であり、その設計も、一部でも仕様が異なれば全体の改設計を余儀なくされる場合もある程度には繊細である。つまり、同じギターという楽器を作っているようでも、要求されるスキルは毎回多少なり異なるのだ。
これでは、何本何本も全く同じギターを作る、というちょっと現実的でない選択肢以外で、年限の限られた実習期間のうちに技術を習熟することは望めない。また、基本的にたったひとりの手で製作しているため、クオリティの向上にも限度がある。提出の締め切りだって設定されているのだ。勿論、作業自体に得手不得手の濃淡も存在する。
その結果、大方の場合において出来上がってくるのは、ギターの形をした死んだ木なのである。素材にはきょうび個人で取引することは難しくなってしまった木材なども含まれていたりするのだが、彼らがその本懐を遂げているとは言いがたい。木材マニアが見れば泣いて地団駄を踏み、ついでに馬謖もKILLすることだろう。諸葛亮だって馬謖をKILLするときは半笑いだったと思う。
しかしながら、本当に時折(工作機械に全面的に頼り製作の手間を極力惜しむという私の巧みな設計手腕によって)、少々まともな出来になるギターがある。それがこのギターだったというわけだ。
ここは読み飛ばして貰っても構わないが、ちょっとギターに詳しい諸兄らのためプレイアビリティに関わる部分だけ説明してみると、メイプル平行段付き、フェンダーで言うところのCグリップのデタッチャブルネックに9″Rのロングスケール22F指板、フレットはミディアムジャンボでボディ材はマホガニー極薄塗装、ブリッジはハードテイルでPUはハム2発、という完全にヘヴィ系の音楽をやる仕様になっている。
このギター、提出後の評価も相応にめでたかったと記憶している。実際ボディシェイプやプレイアビリティの高さも気に入っており、機会があればいずれ同じような仕様でもう1本……と思っているギターのうちのひとつだ。
転居などもありしまい込んでいたのだが、ひょんなことから存在を思い出し、埃と黴にまみれたギターケースの中から引っ張り出したのである。先述のように塗装が薄いため、ギターケースを覆う黴に気付いた時はかなり焦ったが、内側には侵食しておらず一安心であった。ギターケースは無論捨てた。
さて、いざ調整をして弾いてみると……これが思いの外良くはないのである。弦が死んでいるせいかと思い新しいものに張り替えたが、それでもだめなのである。様々試した結果、これはフレットのすり合わせが必要だという結論に達した。
フレットのすり合わせという作業がどのようなものかは諸兄らが各位で検索でもしてもらうとして、これはあまり簡単な作業とは言えない。手間もかかるし、やり直しのきかないシビアな作業である。こればかりは経験値がものを言う。
私にも一応、経験値というものは存在している。この数年、すり合わせを行うための工具や環境も整えてきた。万一やり過ぎてしまっても、フレットを打ち直すことが出来る環境すらある。
それらを十分に勘案した結果、私は素直に外注することにした。つまり、リペアショップに持ち込むことにしたのである。
諸兄らは問うだろう。何故己で落とし前をつけぬのかと。それはそれは口汚く罵るのだろうね、この私を。分かってますよ。
何故自分でやらないかといえば、それはひとえに私が自分のことを美化せぬ無敵の人だからである。私は己の知らざると、足らざるを知っている。具体的には、慎重さと丁寧さと頭の中身が足りていない。うるさいよ。
勿論、かつてこのギターを作ったのも知らぬ足らぬの私である。更には口も減らぬので三重苦である。さて、物作りなどをする諸兄らにはまだ理解の余地が残されているものと信じるが、物作りの現場において、往々にして最も信用ならぬのは自分自身である。ギター作りの三重苦を抱えた私が作ったギターなど、到底信じられたものではない。先述した仕様ですら、本当に正しいかどうか分からないのである。なお、少なくとも塗装の薄さだけは事実である。レンチを滑らせて目立つ傷をつけたからだ。
私が贔屓にしているリペアショップはそう遠くなく、アクセスも悪くない。技術も確かだと知っている。そして、諸兄らが見ているインターネットでは到底言えないような、まさに価格破壊と言って差し支えない工賃で大抵の作業を引き受けてくれることも。
私はリペアショップに直行した。リペアマンにギターを引き渡す際、これを自分が作ったという事実は伏せておいた。どのような形であれ、軽蔑を差し向けられるのは好まない。私がギター作りを学んでおきながら、すり合わせひとつ面倒くさがってやらないような輩なのだという軽蔑に、私は耐えられない。事実の指摘は時に人を傷付けるのだぞ。諸兄らは知らないかもしれないが。
すり合わせは1晩で済んだ。リペアショップから返ってきたギターは、もう見違えたように弾きやすいものとなった。
何においてもまず頼るべきはプロの腕である。私はプロになりそこなった、腐乱した卵に過ぎないのだから。腕が(頭も)足りないこと自体は、決して恥ずかしいことではないはずだ。腹を括って、素直に他者を頼ればよいのである。諸兄らもくだらない意地を張っている暇があるなら、さっさと開き直って楽になった方がよい。私はそうした。
自分を美化せずに生きることの、何と都合のよいことか。ついた嘘を覚えておく必要こそあれど、その他は全く気楽なものだ。尤も、その嘘の重さが私を苛むことも多少なりあるのだが。諸兄らも、是非この底辺の気楽さを体験してみて欲しい。