2022年10月4日火曜日

台所の宇宙

(これははてなブログからの引っ越し記事です)

 今日、畑をしまった。

 我が家では猫の額ほどの裏庭に、これまた鼠の額ほどの菜園を作って野菜を育てているのだが、天気予報が気温の急落を告げたため、今年の野菜たちを始末することにしたのである。

 思えば今年は我が家史上最も収穫量に恵まれた年であった。初夏にはサラダカブや二十日大根などがゴロゴロと穫れたし、盆前にはハラペーニョとナスがなり始め、盆過ぎにはイタリアントマトが大量に赤い実をつけた。ミツバと大葉、バジルとパセリは時期を問わず、使いたい時にすぐもいで使えたため大変重宝した。

 一方でミニトマトと中玉トマトはふるわなかったが、生育に肝心な時期と生活が慌ただしかった時期とが重なって適切な管理が出来なかったためであり、こればかりは仕方がなかったと言える。ミニトマトで作るセミドライトマトのオリーブ油漬けが作れなかったのは残念ではあるが。

 さて、畑をしまうにしても、ただ引っこ抜いて捨てればよいというものではない。ナスもトマトもハラペーニョも鈴なり状態であるし、バジルはもう茂るにいいだけ茂っている。これらを食べないという手はない。

 まずバジルである。食用に向かない硬い葉や茎、花茎などを取り除いたのち、片っ端からミキサーに放り込んでパルメザンチーズとオリーブオイルとニンニクと松の実を突っ込んでぶん回し、所謂ジェノバソースを作る。大きめの瓶で2本の量になった。冷蔵庫に入れておけばしばらく保つので、これで食べたい時にジェノベーゼが食べられるという寸法である。ミニトマトとプロセスチーズを豚ロースの薄切り肉で巻いて焼いたものにかけてもうまい。

 次に取りかかったのはハラペーニョだ。私が推す消費方法は湯むきしたトマトとニンニク・タマネギと合わせて作るサルサなのだが、そう毎日サルサをタコスにかけてテキーラを流し込み、ギターを弾いている訳にもいかない。我々は陽気なメキシコ人ではないのである。

 ところで、我々がメキシコ人と言って思い出すのはあのつばの広くて尖った麦わら帽、ソンブレロを被ったステロタイプであるが、実はソンブレロはメキシコの人々にとっても古臭いものであって、実際にはパーティグッズと同格の扱いをされているという。本邦でいうところのちょんまげのヅラのようなものであるな。メキシカン農場主はソンブレロを被ったりなどしないのである。我々も紋付袴にちょんまげで出社したりはしない。勿論その自由はあるが、翌日から机はなくなることだろう。自由には責任が伴うのだぞ、グリンゴ。

 話を戻そう。辛味の弱い品種であるとは言っても、ハラペーニョは立派な唐辛子である。私自身はそのあまりの気高さゆえ、時折内省が行きすぎたあまり自己総括が始まってしまうことがよくあり、そういった場合に一種の自傷行為として辛いものを貪るように食べたくなることがあるのだが、同居する家族はそうでもないため、ハラペーニョ単体を食べる料理はちょっと出すことが出来ない。よって、何に合わせてもいいようにピクルドペッパーを仕込むことにした。なにせ、2本でも十分な量のサルサが作れる唐辛子が20本近くも穫れたのだ。10倍だぞ10倍。

 ハラペーニョはヘタを丁寧にそぎ落とし、さっと湯がいてから爪楊枝で穴を開け、保存瓶に入れて合わせ酢を注ぐ。酢とカプサイシンの効果によって、ちょっとびっくりするくらい日持ちするピクルドペッパーが出来上がる。今回は合わせ酢には極力香り付けを控えたので、漬け上がれば肉に合わせてよし、スパゲッティと合わせてよし、勿論ピザやホットドッグに乗せてよしの万能リフレッシュとなる。

 残すはナスである。大小様々なサイズが15本ばかりあったが、今回は大ぶりなものを選んで夕食のサラダにすることにした。皮を縞目に剥き、適当な厚みの輪切りにしてさっと油通ししたナスを、刻んだタマネギとバジル、酢とオリーブ油などで和えて冷やして食べる。これがまたうまいのである。

 なにせさっきまで土から生えていたのだから、ナスは新鮮そのものである。揚げ油に入れると、その実の緑色がもやの晴れるように濃くなる。その翡翠の如き色があまりに美しく見事であるので、この瞬間の感動はちょっと筆舌に尽くしがたい。油を切り、調味料と合わせると、酢の力で皮の色が鮮やかな茄子紺へと変わり、流れ出た色でタマネギが淡く薄紫に染まる。そこにバジルの濃い緑が散るのである。

 このサラダは、私が作ってきた料理の中でも格段に色の美しいもののひとつだと思う。完成した姿が美しい料理というのは数多くあるが、作っている最中の姿が最も美しい料理というのはなかなか珍しいのではないだろうか。

 私は別に自然派だとか印象派だとかいった手合いの人間ではないが、植物や、大局的に言えば自然が見せる色彩の美しさに時折はっとさせられることがある。また、それそのものが美しいことも無論あるが、人の手が加えらた時に初めて顔を覗かせる美しさというのも確かに存在しているだろうと思うのだ。

 それらの美について考える時、私は究極的に、人間に生まれついたことを感謝する。人類が根源的に持つ、美という得体の知れぬものへの探究心が自身にも流れていたことを感謝する。

 「例え世界が滅んだとて、人間は美を求め、美しいものを作ろうとするはずだ」とは『マッドマックス』を撮ったジョージ・ミラーの言であるが、この盲目的とすら言えかねない人類への賛歌を、私はナスを食べながら実感するのだ。かたや映画であり、かたや台所での一幕であって規模感はまるで違うが、こうした精神的、もはや霊的といってもよい、突然もたらされる感動という現象そのものは全く同じである。

 そしてそういった感動に自覚的であればこそ、世界は我々に長い腕を伸ばして、その内幕を見せてくれるのではないかと思う。美は感動によって見いだされ、そして感動が色褪せても美そのものは不変であると私は信じる。感動をもって世界を解釈することで、我々の眼前には無限の精神の沃野が広がるのである。

 さて、ある程度消費したとはいえ、残りのナスと真っ赤に熟れたハラペーニョ、十数個のトマト達はまだ台所に転がっている。トマトは加熱調理用の品種であるので、すり潰してケチャップを作る予定である。前回トマトを収穫した際に作ったのだが、これが本当にうまいのだ。このケチャップを用意し、卵を焼き、あとはソーセージなどを温めパンを軽くトーストすれば、他にはもう何もいらない食事が出来上がる。あまりにうまいので、一瓶空けるのに数日しかかからなかった。

 感動というのはそこここに物言わず転がっている。または物陰に隠れている。それを拾って集めることが出来るのは、我々が美を追い求め続ける人間だからである。願わくば、それに対して真摯であり続けたいものだ。