『テレビ放送開始69年! このテープもってないですか?』(2022年/BSテレビ東京・テレビ東京)
得点…60/100
(画像の出典:『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか? | テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式)』)
2022年末にBSテレ東にて放送され、各所で(色んな意味で)話題沸騰となったフェイクドキュメンタリー(いや、フェイクバラエティと表現するのが適切だろうか)だ。この度、私が契約しているサブスクリプションサービスにて見放題配信が開始されていたので鑑賞してみた次第である。
さてフェイクドキュメンタリーといえば、本邦でも有名なのは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年/アーティザン・エンタテインメント)であろう。今や円盤のジャケットにも用いられている、登場人物のクローズアップシーンは数多のパロディを生んだ。もう少し年嵩の諸兄は、『食人族』(1980年/ユナイテッド・アーティスツ)やグァルティエロ・ヤコペッティの"残酷"シリーズを思い出すかもしれない。本邦にも『ノロイ』(2005年/ザナドゥー)等の例がある。
これらのBC級映画に共通するのは、劇映画であるのにも関わらず、「実際にあった!」と銘打つ宣伝である。つまり壮大な嘘をついているのだ。『ブレア・ウィッチ・プロ(以下略)』が公開に際し、映画の舞台となる土地のオカルティックな情報をまとめたサイトや書籍、ドキュメンタリー番組などを予め用意したことは有名である。
嘘は大きければ大きいほどバレにくくなる、という言もあるが、虚実を如何にないまぜにするか、あるいは逆転させるか、ということにメタフィクション作家や映画監督達は心血を注いできた。だからこそ、続編で完全な劇映画に舵を切ってしまった『ブレア・ウィッチ(以下略)』は結局テケレッツのパァなのであるし、演出があまりにも陳腐かつ露骨すぎてスタートラインにも立てていない『パラノーマル・アクティビティ』(2007年/パラマウント映画)などは論ずるに値しないのである。
それではフェイクドキュメンタリーには佳作などないのかといえば、無論そんなことはない。演出の手腕ひとつでこの手のジャンルは大化けするのだ。例えば前述の『食人族』では、物語の中盤で銃殺刑を写したフィルムを上映して「これはやらせだ」と喝破するが、実はこのフィルムこそが本物なのである。全編を通じて鑑賞者の真偽の判断を麻痺させ、荒唐無稽な話にグイグイと引き込んでいくルッジェロ・デオダートの演出は本当に巧みで、今観ても学ぶべきところの多い作品に仕上がっている。その内容はともかく。
また、途中までフェイクドキュメンタリーの手法を採っておきながら、終盤にガラリとその様相を変えて鑑賞者をアッと言わせる映画というものもある。『ジャージー・デビル・プロジェクト』(1998年/FFM Production)がそれだ。このパクった感マシマシの邦題からは星の数ほどある亜流作のうちのひとつのようにも思えてしまうが、実はこちらのほうが劇場公開が1年早く、肝心の出来は『ブレア(以下略)』よりも数段上である。
この2作は内容がある程度似通っている上に公開時期も近いため、「どちらがパクったか」がしばしば(不毛な)論争になる。が、しかし、私は内心『ブ(以下略)』が本作をパクったのだと固く信じている。そう信じたくなるくらいには劇的などんでん返しが用意された本作は、(決して後味は良くないものの)鑑賞後に「なんだかすごいものを観たぞ!」という深い感銘と余韻を齎してくれること請け合いだ。
かように本作は間違いなく佳作なのだが、商業的成功はしなかった。それ故に、現在本邦で鑑賞する手段は国内版中古VHS(しかもプレミアがついて妙に高い)くらいなのが歯痒いところである。ちなみに主人公の吹替は駆け出し時代の平田広明氏が務めており、氏のファンであるという人にもお勧めできる(実は2022年にもなって唐突にBlu-rayが発売されたが、原語版のみの展開であり、リージョン規制もあるため購入・鑑賞は現実的ではない)。
ほんの余談のつもりが、ついつい長くなってしまった。
さて、3日間にわたってテレビ放送されたことからも分かるように、本作『このテープもってないですか?』は映画ではない。純然たるバラエティ番組の体裁を持った映像作品である。よって私が通常書く映画評のように、ストーリーを追いながら逐一ツッコミを入れていくスタイルは採りにくい。加えて1話あたり25分程度であるし、現在は鑑賞も比較的容易くなっているため、今回は無理に時系列に沿った解説に固執せず、全編を通じて私が覚えた感想を列挙することとする。
毎回警告しているが、私はネタバレには一切配慮しない。以下、本文中の著名人の敬称は省略する。
本作は完全に「深夜帯にありがちな低予算バラエティ番組」として始まる。副調整室のコンソールをバックに、いとうせいこう、井桁弘恵、水原アナウンサーが並び、フリップを用いて「かつてこんな番組があったが、社内にはその映像データが残っていないので視聴者から放送を録画したテープを募集した」という企画の概要が説明され、中でも3回分の提供を受けた『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』(1980年~85年放映)を放送する、という案内の下、該当番組(無論劇中劇である)が放送される。
『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』(以下『ミッパラ』)は如何にもなセットと如何にもな出演者、如何にもなフォントを使った、まあ平たく言えば『11PM』をオマージュした番組である。ぎらついたおっさんホストが女子アナやゲストにセクハラを飛ばしながら進行する、あの時代にありがちな構成だ。
しかしながら、既に画面に違和感がある。どうも"当時感"が足りないのだ。私もあまりテレビという媒体に親しくはないので言語化は難しいのだが、何というか、現代の感覚を持ったままで当時を形だけ真似ようとした結果とでも言えばいいのか、昔のテレビはもっとドギツかった、という印象だけを覚える。
あまり自信がないので煮え切らない書き方にはなるが、まずカメラアングルが当世風である。かつてのブラウン管テレビは解像度が低かったため、出演者の顔をロングで抜くことは稀だったと記憶している。出演者をひとり抜く場合、最低でも胸が写るかどうかという程度にはアップショットにしていた。そうしないと顔の造作が潰れて分かりにくいからだ。
また、スタジオ背景の大理石風の柱の模様や机の手前に据えられた花の造形が見て取れるのもあまりリアルではないように思える。当時のテレビカメラの分解能がそこまで高かったとも思えず、なおかつこれは「一般視聴者が生放送番組を録画したもの」という設定の映像なのだ。確実に録画の時点でもっと映像は荒れているはずである。いや、もしかすると録画媒体がHi-Bandベータだったのかもしれない(実は作中でしっかり「VHS」と明言されているので、これは誤った推理である。ちなみにVHSの高画質規格媒体であるS-VHSが発売されたのは1987年なので、 1985年に終了した番組を録画出来たはずはない。我ながら重箱の隅をつつくような話であるな……)。
寡聞にして知らなかったのだが、どうやら『ミッパラ』に入る前に『当時のニュース』として紹介された映像に表示されていた、テロップの明朝体フォントの時代考証も少し雑なようだ。繰り返すが、当時の番組は解像度の低いモニターで観ることが前提だったので、横画が細く潰れやすい明朝体を用いること自体がほぼなかったはずである。モニターの解像度が飛躍的に向上した現代でも、テレビでは基本的に「テロップ明朝」などと呼ばれる横画の太いスタイルの明朝体が用いられている。私の前提知識としてはその程度で、やや違和感があるな、くらいにしか思わなかったのだが、この評を書く前に少しだけ調べてみたところ「写研書体を使え!」という声がちらほらあった。みんなよく観てるのねえ。
尤も、今挙げた映像の造作に対する違和感自体は必要悪であるとも言える。あまりにも高いクオリティで当時を再現してしまうと、予算だって嵩むだろうし、妙な勘違いをする輩が現れないとも限らない。見る人が見れば作りものだと一瞬で分かる作りが求められるのが、オーソン・ウェルズ以後のメディアの在りようである。私の母など、つい先日まで『TAROMAN』が1972年当時実在した特撮番組だと思い込んでいた。こういうことが起こり得る以上、一定の線引きはせねばならない。そこがテレビというメディア特有の、映画にはない窮屈さだと見ることも可能であろう。
この『ミッパラ』内の視聴者ビデオ投稿コーナーから怪異はスタートする。他愛無い投稿映像達の中に、終始不気味な映像が1本紛れているのだ。
古い長屋のような建物の玄関前で、坂谷に自身の方向音痴の悩みを淡々と相談する男。この映像がトリガーとなり、全てが狂い出していくのだが……。
怪異の発端となるこの映像は、率直に言ってお粗末な作りである。チープかつありがちな映像加工に加えて、最早時代遅れを通り越して時代錯誤とも言えるサブリミナル・メッセージ風の演出が乗っかっており、お世辞にもホラーとして興味深いものではない。これに類する映像なら、YouTubeを覗けばウン千ウン万と見つかる。
これは持論に過ぎないが、ホラーの発端というのは、些細なものであればあるほどよい。古い雑誌の広告。端の剥がれかけた壁紙。恋人とのドライブ。見知らぬ番号からの着信……そういったものに覚えてしまう好奇心、人間が誰しも持つそのちょっとした好奇心が、あれよあれよと転がり続けて雪だるま式に肥大し、思いもよらなかったような破滅的な結末を迎える。そうであればこそ、ホラーは生活の中の様々な心の隙間に芽吹き得るのだ。
そういう意味で言えば、この映像は異常過ぎた。男が訳の分からぬことを淡々と、かつ繰り返し述べる異様な光景をロングショットで撮っているだけで、発端としては十分に怖いはずである。なのに、そこに陳腐な映像加工やサブリミナル・メッセージ風のあからさまな演出が乗ってきてしまうので、鑑賞者は「あっ、ハイハイ、そういう感じね」と身構えてしまう。せっかく面白い題材と最高に不穏なシチュエーションを揃えているのに、これでは勿体ないことこの上ない。
ちなみに、ここまでが第1夜の中盤ほどである。本作が3夜にわたる連続放送で、なおかつ1本の尺は25分に過ぎないと分かっていても、流石に飛ばし過ぎだったのではないかと思ってしまう。確かに、予め架空の番組をひとつでっち上げ、ダラダラと古い時代のテレビのノリを鑑賞者に見せつけておいたほうがその後の流れがより自然になるとは思うが、何かしら理由をつけて番組部分をカットし、もう少し丁寧にホラー部分を描くことは出来なかったのだろうか。また発想を逆転させれば、3回分の尺を生かしてあえてダラダラと番組部分を続け、発端の映像そのものが持つ異物感を高めることも選択出来たはずである。最初からトップギアに入れて発進したら、エンストしますよ。
続く第2夜は、もうのっけから様子がおかしい。『ミッパラ』ホストの坂谷は挙動不審であり、ビデオ投稿コーナーには夏の恐怖特番で見るような、あからさまな恐怖映像ばかり流れる。次第に他の出演陣にも意味不明な発言が目立つようになっていき、ついにはその狂気がモニターで『ミッパラ』を観るいとうや井桁にも伝染する。当初坂谷のセクハラ気質を露骨に嫌がっていた井桁が『ミッパラ』を称賛し始めたり、いとうが尋常ではない目つきのまま無言でカメラが切り替わるなどの異様な演出が挟まり始める。
……何度でも言っていこう。質の悪いホラーは、主としてブレーキが壊れているのである。緩急の付け方に失敗していると言うべきか、恐怖の割合をアナログ的にではなく、いきなりデジタル的かつ過剰に増やしてしまっているので、第1夜でダラダラと番組パートを見せた意味が霧散した。私はこれらを連続して鑑賞したが、実際には一晩ごとの放送だったのだからより始末が悪い。連続性の構築にここまで失敗していると、リアルタイムで鑑賞した者は軽く置いてけぼりを食ったのではないだろうか。
そして迎える第3夜。いとうらも『ミッパラ』も、狂気に支配されて連綿と言葉遊びを続けるだけの存在になっている。物語はここで完全に破綻した。第2夜が地獄の超特急だとすれば、第3夜は地獄のリニアモーターカーである。こうなってしまうと、そこには恐怖もクソもへったくれもない。内容にしたって一見では全く理解が追い付かないので、面白さも皆無である。さっぱり理解出来ない異様な映像が25分流れ続けるだけと形容してもよく、端的に言ってやり過ぎだ。不条理劇のほうがまだ明快である。どのみちゴドーは来ないのだから。
今この評を書くために再び本作を観直しているが、いい加減うんざりしてきたので、本作が映像作品として抱える問題点をいくつか洗い出しておきたい。
1.メタフィクション/フェイクドキュメンタリーと、投げっぱなしの脚本の相性の悪さ。
冒頭でも書いたが、虚実をないまぜにし、その境界線を滲ませることで、初めてメタフィクションは仕掛けとして成立する。それがホラーである場合、実際性を担保に恐怖を描いていると言い換えることも出来るだろう。その前提が破壊されてしまうと、恐怖だけがあからさまな異物として周囲の現実と断絶されたまま存在することになってしまう。これはメタホラーというより、むしろパニックホラーや、モンスターホラーなどといった文脈に近しい。
即ち、(人間に理解出来るかどうかは別として)恐怖にも何らかの因果律が存在し、何らかの理屈に則って動いているのだ、ということがほんの僅かにでも明示されない場合、それはメタホラーにおいて、恐怖を描いたことにはなり得ないのである。
ところが本作の脚本は、基本的に投げっぱなしだ。まずあり得ないことが起こり、順を追って起きたことだけが列挙され(初手からあり得ないことが起こっているので、ここで起こることも総じて無茶苦茶だ)、手掛かりこそ与えられている気配はあれども、その解釈は一切明かされない。
私はこの構造に強い既視感がある。それは主に2000年代から2010年代初頭まで、2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)上に花開いた、所謂「2ch怪談」文化だ。
携帯電話をはじめとした小型の情報端末が爆発的に普及したことで、怪談は「聞くもの」から「体感するもの」へと変貌を遂げた。現在進行形で奇妙な体験をしていると称する人物が実況スレッドを立て、それを不特定多数の人々がリアルタイムで読み書きし、怪異を疑似的に体感する。そのような中で生まれた怪談の代表は『消えたとてうかぶもの・?』(初出:2002年)『きさらぎ駅』(初出:2004年)などだろうが、これらの怪談にはサゲがない。基本的に語り手はどこかで書き込みをやめてしまうか、スレッドがコメント上限に到達していなくなってしまう。
つまりこれらの怪談の恐怖とは、起点となる出来事からエスカレートしていくものではなく、それ同士の関連性すら担保されぬままに乱発されていく「単体の変事」であり、現実と地続きであろうとして描かれるものではない。ここで物語のメタ性を担保しているのは、語り手が今まさに書き込みを続けている(あるいは、書き込みをやめてしまった)という即時性だけなのだ。意地悪な表現をすれば、それを発表する場の構造に全面的に依拠して、本来メタフィクションがメタフィクション足り得るために割くべき労力すら軽んじ、疎かにしていると言ってもよい。
人間の恐怖の正体とは、突き詰めてしまえば「理屈付けを拒否されること」の一点に限られる。我々は訳の分からないものを恐れる。だからこそ物事に名前を付け、理解しようとし、対策を立てようとする。 ホラーとはその過程を描くエンターテインメントであって、即ち「理屈は分からないが、何かがそこにある」という主題は、到達点ではなく出発点でなければならない。
要するに、本作のように"2ch的"な「理屈は分からないよ」という開き直った到達点を持つホラーは、そもそもホラーというジャンルに必要とされるストーリーテリングから逸脱しているのである。即時性に担保された恐怖というものも、インターネット上の書き込みやテレビ放送などとの相性はいいのだろうが、それがコピペ化したりソフト化・配信されたりすると同時にメタフィクションとしての足場が崩れ、輝きを失ってしまうのだ。
2.即時性に担保された恐怖と、再鑑賞を前提としているとしか思えない演出の相性の悪さ。
繰り返すが、本作は3夜連続でテレビ放送された映像作品である。そのコマーシャルは慎ましやかで、ちゃんと読めばある種異様ではあったものの、事前の宣伝だけでは本作がフェイクドキュメンタリーだと気付けない人がいたとしても何らおかしくはない程度のものだった。つまり、制作陣は本作を予備知識なしに鑑賞する人がいる可能性に気付いていた、むしろそのような鑑賞者を求めていたと言ってもよい。
そのような鑑賞者が本作を観た場合、仕掛けられているフックや伏線、手掛かりを一見のうちに気付くのはほぼ不可能だと断言できる。そのような演出をふんだんに取り入れている、つまり再鑑賞を前提にしているのにも関わらず、脚本は前述のように即時性が担保する恐怖に大きく依存しているため、そのミスマッチがどうにも居心地悪く、ちぐはぐな印象を覚える。
何度も鑑賞して推理を組み立てる必要がある映像作品が悪いとは言わない。しかし、本作はフェイクドキュメンタリーであることに拘る余り、(本作の録画すらしていなかったであろう)一見の鑑賞者を蔑ろにしてしまった。カタルシスを求めて第3夜まで観たところで、何ら解決を見ない底の破れた脚本である。彼らの頭にはクエスチョンマークがぎゅうぎゅうに詰まっていたことだろう。
もしこの作品自体が、あえてカタルシスを提供しないことで、見逃し配信サービス等へ誘導するためのマーケティング戦略だったとしたら……それは流石に悪辣な手腕だと言わざるを得ない。まあこんな推論は半分陰謀論に過ぎないのであって、私も普段であれば"ハンロンの剃刀"の例えを引いて一笑に付しただろう。だが、放映後の外部サービス・SNSへの露骨な誘導を鑑みると、ひょっとして、ひょっとすると、ないセンではないのかも……と思えてしまうのが、一度芽生えた疑念の恐ろしいところである。制作の人そこまで考えてないと思うよ……多分。
3.放映後の騒動に見るコンプライアンス意識の低さ。
これは本作の出来とは直接関係のない話だが、放映当時ちょっと炎上していたのも記憶に新しいので、軽く触れておかざるを得ない。
その顛末はこうだ。第1夜の放送終了直後、Wikipediaに『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス』項が作成されていたのである。勿論『ミッパラ』は本作のために考案された架空の番組であり、実際に放映されていた事実はない。おそらくメタフィクションとしての箔付けのために作成したのだろうが、架空の番組の情報が特筆性の基準を満たす訳もなく、項は即時削除された。同じ項はニコニコ大百科にも作成されており、いずれも番組がフィクションであることを一切明記しない状態だったために、大いに批判されてしまったのである。
その後、ニコニコ大百科に作成された項は第3夜放送終了後に白紙化されたが、フォーラムでの議論を経ないでの白紙化もポリシーに反する行為だったため、再び批判されることになった。
メタフィクションの箔付けとして実際にサイトや掲示板を立ち上げるのはよくある手法で、前述のように『ブ(以下略)』は本編の他にドキュメンタリー番組まで撮影していたし、本邦でいうと(テレビゲームだが)『SIREN』(2003年/ソニー・コンピュータエンタテインメント)が発売前に掲示板や考察サイトを立ち上げていた。最近のところで言えば、書籍『変な絵』(雨穴、双葉社/2022年)の作中にて取り上げられる奇妙なブログは実在している(著者本人が数年分の記事を執筆したらしい)。
しかしながら、自社で用意したドメインならまだしも「営利目的の使用がポリシーで禁じられている外部サービス」を使ってプロモーションを打つというのはあまり、というか全く褒められた行為ではない。よく考えないで使ってしまったのだろうか。外堀を埋めておきたがる癖も大概にしておくべきである。
以上が、本作が抱える問題点である。
単純に意識の低さに起因するのであろう3はともかく、1と2で挙げたような脚本と演出の二律背反は一体何によるものなのだろうか。
私が思うに、それは構成を担当した梨と、演出統括・プロデューサーを務めた大森時生の作風のミスマッチが原因だったような気がする。
梨は2ちゃんねるにルーツを持つ作家であり、言葉は悪いが投げっぱなしのストーリーを多く書くらしい(私は姓名の別のないペンネームを使うホラー作家をあまり信用していないので、詳しくは知らない)。作品のメタ演出として、外部サイトを用いた外堀埋めを行うこともあるようだ。
大森時生はこれ以前にもフェイクバラエティ番組を手掛けた経歴があるようで、そちらは(外部サービスによる配信だったようだが)解決編とでもいうべきパートが存在しているらしく、前述した定義に照らせばメタフィクションとして守るべきラインはしっかり守っていたように思える。その一方で「番組の割と早い段階から不自然な編集が目立ち、フェイクであることが露呈していた」という感想もちらほら目についた。これは第二のオーソン・ウェルズを生み出すまいとするテレビ的倫理観によるものではないだろうか。
つまり、本作は「連続性・因果律よりも変事そのもののインパクトを重視し、作品単体での実際性の担保をおざなりにしがちな脚本家」と「一見の視聴者にもこれがフィクションだと理解してもらえるようわざと粗い作りにはしたいが、ある程度筋を通したい演出家」の、それぞれの悪いところが出てしまった悲しきマリアージュだったのである。
2000年代のインターネットは、まさに未来だった。清濁併せ呑む混沌の滾る、無限の沃野だった。"Web2.0が夢の跡"を生きる現代の我々が振り返れば、眩しく思えるような時代──その特性を色濃く反映して生まれてきた種々の怪談達と、それらに覚える憧憬には私も敬意を表したい。
しかしながら、そのストーリーテリングの手法を語るとき、時代性というものに無関心ではいられないはずである。 かつて我々が恐怖した怪談は、その場に相応しい形だったからこそ恐怖を保てたのだ。その在りよう、作話法が万能論である道理はない。果たして我々は「恐怖の作り方」をアップデート出来ているだろうか?
恐怖とは、人間の最も根源的な感情のひとつである。それ故に直接的なアプローチは殊の外容易い。箸にも棒にもかからないような出来のクズホラーが、星の数ほども存在している理由はこの辺りにある。手っ取り早く人間を揺さぶろうと思ったら、安直に恐怖をぶつけてやればよいのだから。
そのようなホラーの鑑賞は、基本的にとても空しい。制作陣の「どうだ、怖いだろう」という悲鳴じみた空威張りが聞こえるだけで、ホラーはおろか、娯楽としても失格と言わざるを得ないような頓珍漢な作品にも時折ぶつかることがある。このような味のないナタデココをわんこそば方式で食べるかの如き、膨満感ばかりが募る体験は、決して質の良いものとは言えないだろう。同じ金を払うのなら、量より質を求めたいと思うのは当然だ。
つまり裏を返せば、直接的アプローチにNoを突き付け、あくまでもアプローチを工夫し探求することこそが、ホラーをホラー足らしめる基本にして神髄、恐怖を正しくエンターテインメントに仕立て直す魔法なのである。本作がブラフのテーマに据えていた「昭和の昔と現代の対比」に寄す訳ではないが、いつまでも平成の残り香を追い続けるようなメタホラーの在り方には疑問を呈したい。そして現代に即した形のメタ演出とは、Wikipediaを広告塔に使うようなものではないはずだ。まあ今回のことで制作陣も懲りたであろうし、次回はそのような失態はないだろう。多分ないと思う。ないんじゃないかな。まあ、ちょっと覚悟はしておけ。
テレビ放送でフェイクドキュメンタリーを制作しようという気概は手放しで評価したい。繰り返すが、テレビはその性質上第2第3のオーソン・ウェルズを生み出しやすいのだ(例えば、エイプリルフールにフェイクドキュメンタリーとして制作された『第三の選択』《1977年/アングリア・テレビジョン》は放送日がずれ込んだこともあり、放送直後から視聴者の問い合わせが殺到したらしい。本邦では翌78年にフジテレビが深夜帯で放送したが、こちらも視聴者の問い合わせが殺到したという)。
不穏なビデオ映像を主軸に物語を展開させる、という発想も悪くないだろう。『女優霊』(1997年/ビターズ・エンド)『リング』(1998年/東宝)などの例を引くまでもなく、VHSの荒れて白飛び・黒潰れした画面に、ホラーの演出として代えがたい魅力があることは認めざるを得ない。
しかしながら、全編を通じて演出の緩急の付け方がおかしく、題材の良質な不穏さをカタルシスの望めない脚本が生かせているとも言い難い。演出がヒートアップすればするほど、鑑賞者の心は離れ、醒めていく。矢継ぎ早に異様な光景を見させられたところで、募るのは膨満感ばかりであり、そこに恐怖はない。取り合わせは良かったのにねえ。全ての現象に「既に狂気に取り込まれているから」という理由をこじつけてしまうホラーは、夢オチ爆発オチに次いで酷い作りであると自覚してもらいたい。それがリアリティラインの設定に気を遣うべきメタフィクションであれば尚更である。本当に残念でしたなあ。