(これははてなブログからの引っ越し記事です)
私は例によって、また例のスーパーへ買い物に来ていたのである。この度の買い物は生姜と甜麺醤であった。
夕間暮れのスーパーの出入り口には、焼き鳥屋が店を張っていた。今風に言えばキッチンカーとでもなって一気にオシャンティでハイソな存在となり、おつむの軽そうな女子やおつむの軽そうな女子を主食にする前髪が異様に長い男子などが集っていそうだが、有り体に言えば軽トラの荷台が焼き鳥を焼いて陳列する空間になっているだけの代物なので、そのようなオシャンティないしハイソはそのあまりの生活感、あまりの所帯じみたうらぶれという無反動砲の前に粉砕されるものである。おつむの軽そうな女子は酒飲み達のローキック一発でその針金のような足をやられ、おつむの軽そうな女子を主食にする前髪が異様に長い男子はそのご自慢の前髪をバリカンで刈られるのである。ついでに眉毛も剃られる。そんなことはない。
私も以前職にありついていた頃は、帰宅時の降車駅のそばにあったスーパーの前で焼き鳥をよく買ったものだった。我が家はといえば私の他にまともに料理の出来る者はなく、すなわち私が帰宅してから夕食を作ることがしんどい日は軒並み外食か弁当を買う、という生活であったので、私が焼き鳥を買って帰っても特に文句を言われた覚えはない。
しかしながら、1日中神経をすり減らして仕事をしやっと帰ってきた、となれば、食うことや飲むことに縋り、日々の鬱憤や恐怖や深い悲しみから逃れようとするのが人のサガである。私もご多分に漏れずそのクチであったので、週末ともなれば焼き鳥をとんでもない本数買い、安くはない酒を湯水のように飲み、ぐでんぐでんに酔っぱらっては2階の窓から下の道路へゲロを撒き散らしたりなどしていたため、実家に住んでいたくせに毎月の貯蓄はほぼゼロであった。何かの間違いで(した記憶のない残業手当がついていた場合など)少し貯蓄が出来ても、それを全額叩いて新品の単車が買える値段のギターを買ったりなどして、文字通り宵越しの金は持たない主義を気取っていたのである。
もっとも貯蓄が出来ないのは、私が資本主義の神に見放されているせいもある。私が何か思い切った買い物をすると、早いときは数日後、遅くとも数ヶ月以内には、廉価版が発売されたり、値崩れが起こったり、安価で高性能な普及版が出るのである。私はやや意外なことにたかだかウン十ウン年しか生きていないため、まだ思い切った買い物は両手で足りるくらいしかしていないのだが、その全てでそうなった。
こうなってくると、己が如何に資本主義の神と険悪なのかと答えの出ない問いをむやみに始めてしまいそうである。一体前世でどんな罪を犯せばかような業を背負うのであろうか。もしや私は前世ではトロツキストだったのであろうか。そうでもなければこのような非道が許されていいはずがない、悔しいです、痛恨の極みであります、かくなる上は資本主義を刺して俺も死ぬ、などとトロツキーを前にした佐野碩のように下唇を噛みながら焼き鳥屋の前を通り過ぎようとすると、何やら怒声が聞こえた。
私はその時左側に75度ほど傾きながら歩いていたので、すわ資本主義の刺客であるな、思想の自由を踏みにじる気か、予防拘禁など以ての外だ、一生「汝姦淫するなかれ」と言いながら薄汚く肥え太った神の足でも舐めているがよい、と思ったのであるが、それも束の間、その怒声は焼き鳥屋――すなわち軽トラの荷台から聞こえてきていることに気付いたのである。
如何に焼き鳥屋の屋台と化していると言えど、その実態は軽トラである。つまり店舗部分の大きさもかなり狭苦しいのであって、カウンターの間口からその全てが見通せるほどだ。人が1人乗れば、もういっぱいいっぱいといったところである。事実、私が焼き鳥をよく買っていた屋台や、他のスーパーの前などで見かけた屋台なども、店舗部分に乗っているのは常に1人であった。
しかしながら、その屋台には2人乗っていたのである。店主らしきタオルを頭に巻いた男と、その細君らしきエプロン姿の女が、その狭苦しい店舗部分の内部で何やら言い争いをしているのである。
おそらく亭主の稼ぎが少ないことでも詰っているのであろう、やや肥満したエプロンの女は頬と顎の下を波打たせながら、まるで駄々っ子のように肩をいからせ地団駄を踏んでいた。対してその亭主はといえば、これも日頃の鬱憤が溜まっているのだろう、売り言葉に買い言葉と言った調子で細君を怒鳴りつけていた。その声が屋台の外にまで聞こえてきていたのである。
その2人の様子と言ったら、それはそれはもうすごい剣幕であった。顔が真っ赤になるほど頭に血を上らせ、激情に目のつり上がった人間が2人、お互いの鼻息が吹きかかるほどの距離に顔を突き合わせて喧嘩をしているのである。その姿は壮絶を通り越してシュールであった。
雄牛には角があるからそれを噛み合わせて喧嘩も出来るが、人間の頭はつるんとして何もないから、互いの物理的距離がここまで接近してもまだ十万億土の彼方に轟きそうな鳴き声を出すしかないのであるな、などと、その姿を横目に私は考えていた。もっとも、この場合は片方は雌であったのだが。
しかしうらぶれた屋台の焼き鳥屋とはいえ、あくまで客商売である。怒声が飛び交う屋台で焼き鳥を買おうなどとする、心臓が起毛素材の猛者はそうそういるものではないだろう。彼らは今稼ぎが少ないあまりに言い争っているが、そのために却って稼ぎが減っていくのである。実際のところ、私は屋台を目にした瞬間には、帰りがけにねぎま串の数本でも買おうかと思っていたのだから。そのあまりの所帯じみた光景に、私のねぎま串への情熱も見事にぶち壊されてしまっていた。
私は手短に生姜と甜麺醤を買うと、そそくさとスーパーを退店した。買い物を済ませた私が車に乗り込む間まで、屋台からは怒声が漏れていた。まったく資本主義というのは恐ろしい。資本主義のために彼らは喧嘩をし、また資本主義のためにより生活が苦しくなっていくのである。コラ又どう云う訳だ、世の中間違っとるよ~と植木等も歌っておるのだ。
私は買いそびれたねぎま串のことをあまり考えないようにして帰路についた。私がもし資本主義の土手ッ腹を刺すとすれば、それはねぎま串の竹串によってである。