(これははてなブログからの引っ越し記事です)
11月20日である。
この日が何の日かというと、そうイタリア王妃マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァの誕生日である。ちなみに本邦では、その名を冠した料理であるところのピッツァ・マルゲリータと関連付けてピザの日とされている。
以上は年に一度あるかないかのこよみ雑学であって、今日はこのページを開設してから2周年の節目である。
いつの間にやら2周年である。休止期間もあったし、内容や方向性も未だ定まっているとは言いがたい当ページであるが、基本的に私には歳を取った以外の変化がないので驚く。
驚いてばかりもいられないが、実際のところそうなのだから仕方あるまい。当初は純然たる日記としてスタートしたこのページは、運営者たる私が勝手にコンテンツの存在価値に悩み、記事の完成度というハードルを上げたせいで見事に機能不全に陥った。
何しろ無職の生活は本当に変化というものがない。感情の些末な機微は勿論あるが、無視できるレベルの大きさでしかあり得ない。なので、そんな人間が日記を書いたところで「くそしてねた」以上のものにはなり得ないのである。当たり前の話だ。
そして以前書いたように、私は特に何も考えることなく日々を生きている。何も考えていないのだから何も書くことがない。これまた当たり前の話である。ない袖は振れぬ。心は今もノースリーブである。
私は殊勝にもそれではだめだと考えたのだから、インターネットの末席を汚す者としての、その気高さにも似たストーリーテラー的自己認識に一片も疑いの余地がないことは、諸兄らにもお分かりいただけると思う。
私という店子は、大家たるインターネットにコンテンツを提供することで住所を保てるのである。その代わり、インターネットは店子のことには知らぬ存ぜぬを突き通して極力触れぬし、私とて時には大家の悪口を吹聴する。そこに賃貸契約以外のいかなる関係もない。それが理にかなった陣地確保の仕方である。英国王室とロンドン市民の関係のようなものだ。
すなわちインターネットにコンテンツを提供出来なければ、我々に与えられる陣地は極小となる。ラッシュアワーの電車よりも酷い。この契約を履行する限り、少々のデメリットがあるのも致し方ないことである。何も大家は、ご近所さん達と仲良く付き合えと強制しているわけではないのだ。気が付けばそこら中の押し入れや床下から知らぬ顔が次々と我が物顔で這い出してくる、『椿三十郎』のワンシーンのような事態になりかねない。
さて話を元に戻すと、私の高邁な理想を現実のものとする上での問題は、いざひとかどのコンテンツたり得ようとしてみると、あまりに割かねばならないリソースが多かったことである。
諸兄らも存じているだろうが、一度はギターいじりをコンテンツ化しようとしたことがある。
言うまでもないことだが、ギターをいじるためには元手がいる。パーツだって買えば高い。ネジが10本で1000円ほどもする狂気の世界である。まあ、ネジくらいならそこらのホームセンターを根気よく探せば同等品が(1/10ほどの値段で)買えてしまうが、ブリッジやピックアップなどのハードウェアではそうはいかない。
それに、きちんと記事にするためには作業の前後や経過などの写真が不可欠である。このブログサービスにもデータの上限というものが存在する以上、あまりバカ丁寧に写真を添えることも出来ない。いちいち見苦しいものや諸般の事情でお見せできないものを画角から外して撮影することも手間である。そんなセッティングをしている時間があるなら、さっさと作業を終えてしまいたいのが人情というものだ。
分かりやすい写真やキャプションのことを考えるあまり、手元がおろそかになり作業途中にギターに傷をつけたので、私はこれをコンテンツ化することを見限った。だいたい、本職のリペアマンでもない人物(一応専門教育は受けているが)が行ったギターの改造記録など、誰が読むというのだろう?私以外にそんな奇特な人物がいるとは到底思えない。
次に私が考えたのは、映画評をコンテンツ化することだった。幸いにして、私の好む映画というのは限局されており、かつニッチである。名作と呼ばれる映画を網羅的に観ていなくても、ニッチなジャンルばかりを挙げ連ねておけば、あとは量を書きさえすればコンテンツたり得るだろうと思ったのだ。
しかしながら、いざ映画評を書いてみると、これがなかなか難しいのである。簡易的に映画のあらすじとツッコミどころを併記した文章では、ほどよく軽妙に書けても字数が稼げない。映画の時系列に沿って丹念にツッコミどころや解説を書くと、これはもう完全にネタバレであるし、第一冗長である。
字数が多ければいいとか、ネタバレにはあくまで配慮すべきとか、そういうことは私自身は全く考えたことはないのだが、このふたつはインターネット上のコンテンツにおいて試金石のような扱いを受けているファクターであるので、一応考慮に入れざるを得ない。マスに受けたければマスと同じ感性を持て、とはかの藤子・F・不二雄御大の言である。
実際のところ私自身は、映画評というのは短かろうと長かろうと、ネタバレを含もうと含まざると、本当ならば読んでいて面白いのが一番いいというスタンスであるが、インターネットに渡すショバ代としてのコンテンツたり得るためには、そう表立ってマスのことを蔑ろには出来ないものだ。私の一存で、読んでいて面白いのが一番、といったある種の売り上げ至上主義に走ってしまうのも、映画そのものに誠実ではない気がしてきた――というか、インターネットにそう突っ込まれても何ら反論できないな、と思った――のもある。
また、映画評を書いてそれなりに話題性を持たせるためには、新作映画の批評なども行う必要がある。私は過去一度だけそれをやったが、これはかなり散々な経験となった。
何しろ、きょうび映画館というのはどこにでもかしこにでもあるものではない。封切り館となれば尚更である。本邦の一般的な諸都市においては、都心部のミニシアターか、かなり郊外に位置するシネコン以外に選択肢がないというのもザラだろう。私の住む町も例外ではなく、私はバスと電車とまたバスを乗り継いでこの近辺では1軒だけになったシネコンに向かい、満額料金で映画を1本観る羽目になったのである。
その結果、私は帰りの運賃を除けば素寒貧、全くのオケラと化し、飲み物やスナックすら買うことが出来ず、映画評を書くための手がかりになるパンフレットも買えないために、上映時間中瞬きすら惜しむようにして映画の1分1秒を記憶することに努める羽目になった。
今思えば鑑賞中にメモくらい取れば良かったのかも知れないが、いくらスクリーンの光があるとはいえ暗い中で取ったメモが後から読めるとは限らず、携帯などを開くのは無論マナー違反になるため、こうするより他になかったのである。
これはかなりつらい経験だった。言ってしまえば貶すためだけに観ている映画のために私は数千円を失い、書いた映画評は8400字以上の冗長記事になって、そしてそれほどの話題性はなかった(尤も、このページのコンテンツの中では有意にアクセス数が多い記事ではある)。
私はこの映画評を書いた後で自問した。映画館に払う金というのは、その殆どが「映画館で映画を観る」という体験に対する対価ではないのか。2時間の上映中、飲み物もなく、帰ってからどんな風に感想をまとめるかだけを必死に考えながら、帰りのバスの時間に尻を焦がされながら観ている映画は、体験としてはあまりに貧しいものではなかったか。
そもそもの話、私はあまり封切り映画に興味はない。私が好むタイプの映画というのは近年公開数が減ってきており、ビデオスルーになることのほうが多いのが実情だ。それに封切り映画の批評を書いてもそれほど話題性がないなら、尚更興味を持つ意味が薄いのである。近年の邦画には観るべきものは全くなく、私の住む田舎の町で上映されるような洋画も、ガキ好みのケレンをCGでベタベタに塗り固めただけの同工異曲に過ぎない。
封切り映画に払う数千円があれば、近所のレンタルビデオ店で旧作を数十本借りられるのである。得るべき体験をスポイルしながら封切り映画を観るよりも、かつての話題作や映画史に残る名作、ビデオ直行便になったへなちょこ映画を好きなだけ繰り返し観られるほうがよっぽど有意義だと思うのは、私の心根が賤しいからばかりではあるまい。
こうして限られた資金を有意義に使うべく、私の映画評は旧作に偏ることになったわけだが、今度は再びコンテンツとしての存在意義に疑問符がつくことになった。
映画評は、それが新作だから意味をなす側面が少なからずある。批評や感想を数本読んでから、その映画を観るかどうか決める、という人も決して少なくはないはずだ。ましてや1本観るごとに数千円が飛ぶのなら尚更である。私だって出来ればそうしたい。
対して、旧作の映画を借りる前に批評を読む、という人は殆どいないだろう。たかだかほんの数百円で借りられるのだから、映画評を読んで意志決定をするより先にいっそ観てしまったほうがよい。旧作映画を観る前に批評を読むような人は、おそらくその映画をあえて観たりはしない。
つまるところ、旧作の映画評には「同じ映画を観た人が何を思ったかを知りたい」という下世話な野次馬根性的需要しかないのであって、その分インターネット事故のリスクが大きいのである。
人は理不尽にも、自分と違う感想や解釈を目の当たりにすると、得てして腹が立つものだ。自分から探して読んでおいて「それは違う」と吹っ掛けてくるとは随分と虫のいい話もあったもんだが、実際のところ我々はインターネットにショバ代を払っているという意味で同類であるので、その辺りに拡張した自意識の履き違いがあるのも、致し方ないことである。
先に書いたように、映画評を1本書くのもなかなかどうして難しい。ともすれば電子の海の彼方から、履き違えた自意識という浮遊機雷や誘導魚雷が流れ着かないとも限らない。かといって「どうせこれを読むのはこの映画を観た奴だろうから……」という姿勢を見せることは、私としては少し抵抗がある。事実上内輪ノリで回っているこのページに、別種とはいえ更なる内輪ノリを追加して内輪ノリの濃度を上げるのは心苦しいのだ。インターネットが明るく清潔なものへと変貌しようとしている今、内輪ノリは石持て追われる存在である。望むと望まざるとに関わらず、教条主義の潔癖症は世界を席巻しつつあるのだ。
ギターいじりも駄目、映画評も駄目、そこで私が思いついたのは、かつてのインターネットにいた雑文書き達をリスペクトし、時に拡張した自意識として自虐を入れながら、愚にもつかない雑文を書き連ねることであった。どのみち話題性が確保出来ないなら、私の生活の上で発生する些細な感情の機微を多少針小棒大に書いても誰も困りはしまい。この過程は最初の雑文に書いたので、今更長々と語ることはしない。
実はこのような更新形態に着地したのは今年の4月のことなので、本当の意味ではまだ1周年すら迎えていないのだが、はてなのダッシュボードを開いて開設年月日が目に入ってしまったのが運の尽き。私は何か書こうと思い立ってしまった。そのためにこよみ雑学も仕入れてしまったのだ。よって、今日の私は冒頭のこよみ雑学を披露した時点でかなり満足してしまっている。
本来であれば、日付に執着せずとも人間は生きていける。少なくとも私はそうだ。日々更新される生活のタスクの前では日付など無意味である。ましてや根拠の薄弱な占星術や六曜を意識することなど不要なのだ。生活は続くのである。逃げても逃げても、朝はこの窓にやってくるのである。親兄弟の誕生日すら覚えていないのも、そういう理由だということにしておこう。実を言えば自分の誕生日すら危うい。
しかしながら、日付に執着するのがマスの行いというものである。繰り返すが、インターネットにショバ代を納める以上、マスの行いを通り一遍はなぞっておくべきだ。いくら社会不適合者とはいえ、別に好き好んで社会から落伍しているわけではない。勿論マスに受けたいと思っているのではないが、マスから排斥されたくもないのである。そうでなければ長々と5000字以上もぶち上げた意味がない。
そんなわけで、3年目はこの殆どが蛇足で構成された冗長記事で幕を開けることになる。願わくば、3周年も無益に浪費したいものであるな。