(これははてなブログからの引っ越し記事です)
チーズケーキを焼いたのである。
何を隠そう、私はそこそこ菓子作りが好きなのだ。簡単なケーキや焼き菓子などをちまちまと作っては食べている。これで本当に脇目も振らずハマりこんでしまえば私のクオリティ・オブ・ライフも些か向上するだろうが、それほどドツボにハマるような真似が出来ないからこそ私は未だに無職を続けているのである。尤も、そのようにしてドツボにハマれば私の身体とて(主に横幅が)無事でいられるはずがないので、これくらいでいいという見方も出来るのだが。
今回焼いたのは、所謂バスク風チーズケーキというやつである。主にフランスとスペインの国境に跨がるバスク地方で作られる、表面をしっかりと焦がしたチーズケーキだ。私が参考にしたレシピには「フランスの伝統菓子」と書かれていたが、バスク地方と呼ばれるエリアはどちらかと言えばスペイン側に偏っており、更にはこのケーキの元祖とされる店はスペインにあるらしく、より厳密に言えばスペイン菓子なのではないかと思うが、この辺りはつつくとろくでもない蛇が飛び出しかねないので、迂闊なことを書く訳にはいかない。私にも失うものというのはあるにはあるのである。
さて、バスク風チーズケーキの特徴は、何と言ってもその簡素さにある。クリームチーズと砂糖と卵、あとは生クリーム程度しか必要としない。薄力粉やコーンスターチなどの粉類を入れることもあるが、それらを入れたとて片手で足りる構成材料である。
菓子作りというのは材料の数が少なくなれば少なくなるほど失敗しにくくなる傾向にあり、このバスク風チーズケーキというのもレシピを調べてみると大抵は「簡単!」とか「手軽に!」といったような惹句が並んでいる。それくらい、世間には簡単だと目されているケーキなのである。
朝早く起き出し、卵と生クリームを常温に戻す。クリームチーズは前日の夜から常温に戻している。ちなみに朝早く起き出して準備をするのは、ケーキを昼前までに焼き上げ、我が家に1台しかないオーブン兼用電子レンジを昼食の準備に使えるようにしておくためである。型などの下準備をして、オーブンの予熱を始める。
生地の準備は簡単……ではなかった。全卵と卵をすり混ぜ、練って滑らかにしたクリームチーズに混ぜる……混ぜるのだが、このクリームチーズが異様に固かった。とにかく固かったのである。一晩常温に置いておいたとは思えないほどカッチカチである。今回、輸入食品の店でしこたま買い込んだ外国産のクリームチーズを使ったのだが、それがよくなかったのかも知れない。数十秒電子レンジにかけて柔らかくしようかとも思ったが、その頼みの綱の電子レンジは今オーブンとして既に予熱が始まっている。
泡立て器では埒が明かず、私はゴムべらを手に取った。細い金属で出来た泡立て器より、鉄心の入っているゴムべらの方がまだしも馬力があると踏んだのだ。ゴムべらで切り混ぜ、押し潰すようにしてなんとかクリームチーズを練り混ぜようとするが、クリームチーズはボロボロと細かくなるだけで一向に滑らかになってくれない。
私は泣きそうになった。少々水気を与えた方が滑らかになるかと思い、卵液を少しだけ入れて混ぜてみたが、混ぜれども混ぜれども完全に分離している。卵液の海に細かなクリームチーズの島が無数に浮いていた。傍らにはクリームチーズの大陸が控えている。手軽で簡単とは何だったのか。
泡立て器でも駄目、ゴムべらでも駄目、となると、もう私の貧弱な経験と発想から導き出される結論はただひとつである。文明の利器を使うのだ。
私は電動ハンドミキサーを手に取った。諸兄らは何故最初からそれを使わなかったのかと非難するだろうが、この電動ハンドミキサーは私の祖母の代から使われており、軽く勤続30年を数える大ベテラン選手である。よってあちこちにへたりが来ており、固くて重たいクリームチーズを練り混ぜるのには荷が勝るのだ。当面の間買い換えをするつもりもないため、私の腕っ節でどうにかなる作業であればあまり使いたくはなかったのである。なにせ卵白を泡立ててメレンゲを作る程度の作業でも、周囲にはモーターの焼ける臭いが漂うのだ。
スイッチを入れると、ハンドミキサーは猛獣のような唸りを上げてクリームチーズに食ってかかった。痩せても枯れても、腐っても鯛である。あれほど固かったクリームチーズはすぐにバラバラにちぎれ、すり潰され、細かくなっていった。安心した私は他の材料を次々と加え、ついに生地は仕上がった。濡らしたオーブンシートを敷き込んだ型に流し、予熱を終えたオーブンで40分ほど焼き上げる。
オーブンの扉を閉じて、私は椅子になだれ込んでしまった。菓子作りというのは大抵想定外が起こるものだが、これほど簡単だとされるレシピですら想定外に襲われるとは思わなかった。調理台にはその格闘の跡がそのまま放置されている。焼き上がりを待つ間に片付けもしなければならない。
しかしまあ、このような固いチーズを、電動ハンドミキサーもない時代から人力で練り混ぜ続けてきたバスク地方の人々は一体どれほど怪力なのだろうか。幼少よりクリームチーズを練り混ぜ続けた結果、彼の地の人々は利き腕だけがムキムキになっていてもおかしくはなかろう。諸兄らも彼の地に旅行する際は気をつけて欲しい。うっかり現地の人々と握手をしようものなら、中手骨を粉砕されかねないのだ。
……このようなことを書いていると、また怒られが発生してしまう。ケーキ自体はしっかりと焦げた表面が香ばしく、濃厚な味わいに仕上がった。諸兄らも私なんかに目くじらを立てるのをやめて、このチーズケーキを作ってみて、そのうまさを体感しどうか矛を収めてほしい。もしかすると、諸兄らも菓子作りのドツボにハマるかもしれないしな。もしそうなれば、私はクリームチーズの練りすぎで利き腕だけがシオマネキのように膨れ上がった諸兄らを呼んで、私のクリームチーズを練ってもらうことにしよう。