2022年12月27日火曜日

"ガイジン"サイズのギターで

 実のところを言えば、ここもほんの繋ぎ程度にしか考えていないのである。

「雑記日記」がこの世に出現したのは、2年ほど前の11月のことである。あまりにも唐突な始まりで、その出だしから、私自身は唐突な始まりというものが好きではないこと、しかしながらそうでもしなければド大層な能書きを垂れ流し、勝手にハードルを上げ過ぎて日記というものを次第に書けなくなるのではないかということを書いている。 

 実際には日記の記録はそれなりに続いた後で長い休止期間があり、迷走期を経た後このような体系にまとまった。その後1年ほどははてなブログで愚にもつかない雑文をコンテンツとして出力し続けてきたのだが、今年の(おそらく)12月初旬頃から、モバイルブラウザで閲覧した場合、はてなが文中に勝手に広告を貼るようになってしまったことに気付いたため、怒髪天を衝いた私は、一部の記事や再現の難しい記事を除いた雑文にカテゴライズ可能な記事をこちらに(手作業で)ベタ移植した次第である。

 そもそも、我々はただ何も考えず文章を書いているわけではない。与えられたお題から小咄を生成する人工知能とは違うのである。言葉選びのひとつひとつ、漢字の開く開かないにも、程度の濃淡こそあれ、我々のアティテュードというものは反影されている。それは勿論改行、改段落にも及ぶ。勿論、賢明な読者の殆どは広告など固より眼中になく、又はユーザーの知る権利を阻害する広告などはブロックしているものと思うが、勝手に広告を差し挟まれ、予期しない空間を文章中に無理矢理こじ開けられた上に、これをよしとする筆者がどこにいるというのだろうか。

 広告の位置を調整する、ないし一切を排除するために、有料プランを契約するのも馬鹿らしい。これでは敵の術中に嵌まったも同じである。つまるところ、これは我々が今まで出力してきた、またはこれから出力するコンテンツそのものを人質に取った恫喝なのであって、世界がほんの少し愉快な空間になればよい、という慈愛に満ちた無私の奉仕を行う私のような善良なる雑文書きに対する卑劣極まりない行為なのである。

 かような卑々劣々たる行為に、我々が取る対抗手段はいつもひとつである。断固としてテロリストとは交渉しない。はてなよさらば!と椅子を蹴り堂々退場するのだ。

 松岡洋右の如く大見得を切った私がしたことと言えば、後継サービス探しである。往々にして、堂々退場する者は実際には孤立している。今更世界史の例を引くまでもなく、私もきょうび雑文をただ書き連ねるだけのサイトをどこに置くか非常に迷った。

 はてなからの移住先と言えばnoteが一般的だと思うが、私は諸般の事情によりこの運営に対してあまりいい印象を持っておらず、出来れば使いたくはなかった。デザインも非常に「Web2.0が夢の跡」を感じさせる角丸のUIであり、こんにちでは硬派とも言える「本当にテキストだけで構成されたテキストサイト」にはそぐわない。FC2には既にブログを1名義持っており、アカウントを切り替えるのが面倒くさいのでこれは選外である。各種マイクロブログサービスはそもそも長文を書くものではない。有名ブログサービスでありながら触れられていないものがひとつあるが、名前を書くのも億劫なのでそれは諸兄らと私の間の秘密としておこう。

 つまるところ必然的に、ここしか残らなかったのである。実はBloggerにも既にブログを1名義持っていたのだが、他のブログとの切り替えが一瞬で可能である点で他の追随を許さない。はてなブログに比べるとテキスト編集画面で出来ることは限られるし、そもそもデザイン上、長い和文を書くためにも読むためにも作られていないことは明らかではあるが、他を見回してもはてなとBloggerしか手を挙げない状態なのだから選択の余地はない。

 しかし。しかしである。美人は三日で飽きるがブスは三日で慣れる、という本意がどこにあろうときょうび口にするだけでもヒヤヒヤする慣用句があるが、私にはどうもこれが事実だとは思えないのだ。使い勝手の悪いサービスは、三日経ったとて慣れたりはしないのである。私も目の前のブスにかまいもせず、未だ釣り落とした美人のことばかりを考える生活だ。これ以上ブスだの美人だの言うと文脈を読み違えた輩から理不尽に怒られそうなので控えるが、如何せんBloggerの使い勝手は悪い。なまじ本邦の企業が運営する(ほぼ)邦人のためのサービスであったはてなとは違い、こちらには身体に合わない国際規格に無理矢理袖を通しているかのような居心地の悪さがあるのは事実である。

 この居心地の悪さが限界に達した時、私は再び椅子を蹴り、堂々と退場するのだろう。退場した先に安寧がないことは世界史が証明しているが、そもそも我々は流浪の民だったはずである。ひとつどころに定着するから厄介ごとに巻き込まれてしまうのだ。ハンガリーの受難のようであるな。

 ここがほんの腰掛けになるか否かは、私を含めて誰にも分からない。