2023年9月17日日曜日

トウモロコシの帝国主義

 突然だが、私は映画が好きだ。基本的にはそのはずである。本邦の人口のうち、年に1本以上映画館で映画を観る人は50%に満たず、2~3ヶ月に1本以上のペースで映画を観る人はなんとたったの16%である。私は嗜好の幅が極端に狭く、なおかつ無職で自由になる金が心許ないため、年4本以上封切り映画を観ることはかなり稀であるが、それでも過半数の人々よりはずっと映画を観ている計算になる。随分と低く思えるハードルではあるが、一応映画好きの末席を汚す資格くらいは貰ってもいいだろう。

 さて、その映画好きである私には、実際のところ星の数よりも多くの嫌いなものがあるのだが、その中で今論いたいのは、今や映画館とは不可分と言ってもよいあのスナック、ポップコーンである。

 何を隠そう、私は物心つく前からポップコーンが嫌いだ。あのくしゃくしゃとした緩衝材を食んでいるかのような食感、酸化してつんと鼻を刺す油の臭い、乾いたスポンジのように唾液を吸収するくせに、更に分泌させて口中に水気を補充させるには足りない塩気、口の中にいつまでも残り続けるトウモロコシの皮。何を思い出してみても最低で、舌の両脇が酸っぱくなってくる。こんなものをありがたがる連中の気が知れない。

 ある時など、同行者が何の確認もなく人数分のポップコーンを買ってきやがったために無理に食べさせられることとなり、その結果私は鑑賞を中座してトイレで嘔吐する羽目になった。あの時はそもそも体調があまり優れなかったのもあるが、それを更に悪化させたのは言うまでもなくポップコーンである。私はこの時、例え家から遠く離れた出先の衆人環視の中にあっても、人間は両の鼻の穴から胃液が勢いよく噴き出すタイプの嘔吐が出来ることを知った。

 ここまで大々的にポップコーンのネガティブキャンペーンを張ってきたが、狭量な私とて、スナックやドリンクなどの飲食物のほうが映画そのものより利益率が良いことを知らない訳ではない。冒頭で挙げた統計でも分かるように映画人口は徐々に減少傾向にあり、また忌々しくもこの資本主義体制下においては利潤の追求は人間の至上命題である。好むと好まざるとに拘わらず、毟れるところから毟るのは当然だ。

 私も映画好きを僭称している以上、映画産業がゆっくりと経帷子を着て、墓場の方角へと徐行するのをただ手を拱いて見ているのは忍びない。映画産業の裾野は広くあってこそ、『フライパン殺人』を撮ったポール・バーテルのような奇才なのか変人なのか分からない人が出てくるのだし、商売として成り立つからこそ、まだ駆け出しだったポール・バーテルに『デス・レース2000年』を撮らせて後のキャリアを決定付けた、ロジャー・コーマンのような算盤づくの大興行師が一発当てにやってくるのである。映画産業の斜陽は、それら奇跡のような娯楽映画が生まれなくなることを意味する。まあ『フライパン殺人』も『デス・レース2000年』も、今日びまた生まれてこられたのでは困っちゃうような作品ではあるのだが。

 そこで、私は提案する。これ以上映画館から客足を遠退かせないためにも、ポップコーンは終売にすべきである。

 そもそも、映画を観ながら飲み食いをするのは行儀が悪いのではないか。映画館は無論映画を観るための場所であり、客は皆映画を観に来ているはずである。スナックをボリボリ貪ったり、既に空になった紙コップの底に溜まる僅かの水をズゴゴと音を立てて啜ったり、足を組み替えるたびに前の座席を蹴り飛ばしたりするための場所ではない。演劇やクラシックの演奏会などで同じことをやってもみたまえ。その後どうなるかは想像に難くない。大体、少し躾に厳しいご家庭であれば、今でも食事中にテレビや携帯を見ることはご法度とされているだろう。裏を返せば、テレビや携帯を見るときに食事をするのは無作法であるということになる。そのような行為が、「映画館だから」という理由だけで許されているのだ。

 これは由々しき事態である。いつの間にかこの瑞穂の国はシネコンによってアメリカナイズされ、我々の礼儀作法だとかマナーだとかモラルだとかいったものは地に堕ちた。そのくせAVの修正とピザやハンバーガーのサイズはいつまでもアメリカ並みにならないので全く情けない話である。

 昨今のカルトじみた憂国論風味の冗談はさておき、観客が映画館に映画を楽しみに来るのが当然である以上、映画館もその需要に対して真摯であってほしいと願うのは私だけではあるまい。映画館が観客に提供するのは映画だけでよいのである。それ以上のサービスは全て過剰であり、米帝的資本主義が夢見た「豊かな生活」の、もはや腐敗し白骨化してしまった名残である。

 映画を最大限楽しむために必要なものは何か?大きなスクリーンである。ご家庭では到底望むべくもない規模の音響である。最低120分程度は快適に座っていられる座席である。それだけだ。スナックやソーダスタンドは必要ない。

 考えてもみてほしい。誰しもが手元の端末ですぐに何でも望む映像を観られるようになった昨今、映画館に求められているのは「映画を観るしかない状態」にさせてくれる装置としての性格である。下世話な諸兄らが二次元のキャラクターを詰め込んでニヤニヤする、「セックスしないと出られない部屋」の亜種とみてもよい。「映画を観ないと出られない部屋」である。何かと情報も誘惑も過多で、ともすれば何もかもと中途半端な姿勢で向き合ってしまいがちな現代人には、これくらいストイックに何かに向き合うことを強制してくれる存在が必要とされているのである。

 映画は19世紀のフランスで生まれた。 アメリカの発明品ではない。それ故か、フランス人の映画に対する姿勢は真摯である。年に300本ほどしか新作が撮影されないのにも関わらず、国の映画産業に対する助成は年間約800億円に上るらしい。ちなみに本邦のそれは60億円/600本程度である。道理でフランス映画は難解で底が抜けているくせに金のかかった画面作りになっている訳だと膝を打つが、そんなフランスにはシネコンや鑑賞中に飲み食いすることへの反発から、飲食物を一切売らない映画館があるらしい。何と素晴らしいことだろう。

 以上のフランスの話は、本邦のどこかにはポップコーンを売らない封切館があるのではないか?という一縷の望みに賭けて検索したところ引っかかってきた記事からの受け売りである。なお、本邦においてそれを売りにしている封切館は見つけられなかった。悲しいことである。もしあったとしても、それらは大体独立系のミニシアターであり、信条よりも立地や物理的な条件から飲食物を売らないのであって、もしそれらの理由が何らかの形で解決を見ればすぐにでも飲食物を売り始めるであろうことは想像に難くない。

 私が扉を開けた途端に充満したポップコーンの臭いにやられないで済む映画館が本邦に現れるのは、一体いつになるのだろう。もしそれがいつまでも実現しないのなら、私は喜んで映画産業の野辺送りをせっつき、後押ししてしまうかもしれない。

2023年3月24日金曜日

人類機嫌

  近頃、怒りっぽくなってきたのである。

 仔細は述べないが、実際のところこの半年の間に私は多くのものを失い、加えて無職であるのにも関わらず貯えのほぼ全てを使い切ってしまった。端的に言って余裕がなくなってきたのである。

 私もただ徒に無職というモラトリアムの惰眠を貪っていたわけではないのだが、それでも私の精神が安定していたのはそのモラトリアムのなせていた業であって、その終わりが地平線の上に見えてきたとなれば焦りもするし怒りもするし、心から余裕というものがなくなっていくのも無理のない話だと思う。

 今の私はもう毎日が大変だ。朝起きて目覚ましが鳴るよりも早く起きてしまったことを呪い、一丁前に腹が減ることを恨めしく思い、何か予定が入っていれば(というより目覚ましをかけている時点で確実に何か予定が入っているのだが)その時間まで尻が落ち着かず胃が痛くなり、いざ一日が終わってみればこの手に何も残っていないことに絶望している。感情は常に生活に振り回されっぱなしで、ジェットコースターという形容ではもはや生易しい。これがジェットコースターであれば、既に死人が出ていても何らおかしくない設計だ。入園者と退園者の数が合わない恐怖のテーマパークへようこそ。

 びんぼうソフトが開発したゲームのようなテーマパークはさておき、インターネットでは「自分の機嫌は自分でとる」というお題目が金科玉条のように振りかざされるようになって久しい。久しいのだが、未だにインターネットは何かに怒っているのが常である。誰も自分の機嫌を自分でとったりなどしていない。

 そもそも、こういったマインドフルネス的な手合いが信用ならないのは、自律の文脈で他責をやりやがるところである。「自分の機嫌は自分で」と言えば聞こえはよいが、実際にやっていることは「自分の機嫌も自分でとれないなんて!」と他人を非難することだけだと言っても過言ではない。少なくとも私の肌感覚ではそうである。

 往々にしてマインドフルネスというものは、その性質上、それぞれの自尊心をブクブクと飼い太らすことに遠慮というものがない。そして自尊心を手っ取り早くムチムチパンパンのワガママ腸詰ボディちゃんにするためには、他者を見下すことが一番なのである。

 実際にはそれ以外の方法もあるだろうし、そちらのほうがより推奨されているのだろうが、見えている近道を無視してあえて険しく長い道を進むというのは、どうやら人間には難しい行いのようだ。頑なに近道をしないのは、この世でアリンコくらいのものだろう。よく仕事にうつつを抜かす様をして「俺なんて働きアリだよ」などと宣う輩がいるが、隙さえあれば体よくサボろうとする我々人間がアリンコを僭称するとはなんとも不遜な話である。我々はそのあたりの誠実さにおいてはアリンコ以下であることを強く胸に刻んでおいてもらいたい。

 やっている側が大方そんな姿勢である上、一聴には聞こえのよいマインドフルネス的思想を正面切って批判する勇気のある者は多くないがために、これらの人類見下し健康法はあまりにも無邪気に人口に膾炙しているのである。 そのため彼ら彼女らの元々厚い面の皮は更に厚くなっており、叩いて伸ばせばその面積はテニスコート3面分にも及ぶとされる。

 人間が他人の心の在り方を自由にしようなんておこがましいとは思わんかね……と本間先生がギリギリ言っていそうで言っていないセリフを引用しそうになるが、自分の心を守るために他人を見下すことは、無論それだけでは犯罪ではない。それで守れるものがあるなら、別に悪いことでもないとすら思う。しかしながら、それを美辞麗句で粉飾し、あたかも善行のようにして推奨・強制するのは人道に反するだろう。一見して素晴らしい行動指針も、よく考えてみれば特定の集団を排斥する目的が隠れていたりすることはよくある話である。分かったかいマックス。

 他人の不機嫌を外力によって矯正する社会の果てに、住みよい世界が広がっているとは私には到底思えない。かつてキレる若者達と呼ばれた人々が歳を重ねた結果キレる中年達になっている今、他者の感情を矯正しようとするのは不可能であり、不可能でなければならないことを今一度認識しなおしたいところである。

 以上、キレる無職の雑文であった。

2023年2月5日日曜日

30億のデバイスで走る憂鬱

 大変なのである。

 先月の末頃から、パソコンの調子がおかしいのである。具体的には開いているウィンドウのフォーカスが勝手にはずれ文字入力が吹っ飛んだり、省電力状態から勝手に復帰したり、タスクバーが立ち上がらなかったりする。

 諸兄らも十分存じているように、私は日常の割と大きな比率をパソコンの前で過ごす無職である。もしかすると無職ではないかもしれない諸兄らのために補足しておくと、無職の日常は無職なりに忙しい。なまじ実家に寄生している場合、何かと気を揉むことも多く、発言権を拡大するには不断の努力と地道な根回しが必要になる。一つ屋根の下に暮らす血を分けた家族であるにも関わらず、対等なパワーバランスはそこに望むべくもない。

 長々と書いたが、別に私はこの雑文で無職の待遇改善を訴えたいなどと大逆無道なことはこれっぽっちも考えていない。これを書くのは、ひとえに前提知識として知っておいて欲しい、という動機でしかないのである。大体、私は他の無職達と比較すればかなり待遇がいいほうだ。欲を言えばキリがないが、そんなこと口にするのもおこがましい身分である。

 しかしながら、残念なことに、人が無職と見れば暇だろう退屈だろう働けなくてかわいそうだろうと思い込む向きは未だに根強い。いっそここではその答えを書いてしまおう。そんなことはない。そんなことはないのである。無職であるが故の種々の制約は勿論あるが、日々はそれなりに忙しく、それなりに充実しており、なにより大体楽しいのである。仕事の覚えが悪いために何をやっても怒られ、それに起因する自己否定との間に板挟みになり、毎日のように晒されるセクハラまがいの物言いに背中を押されて駅のプラットフォームフェンスから身を乗り出しそうになっていた日々とは雲泥の差だ。無職を退屈でつまらないものだと思う人は、おそらく恵まれた職場に勤めているのだろう。私はそうではなかった。それだけの話である。

 さて、このパソコンはまだ社会人だった頃の貯金が少しだけ残っていた時に購入したものである。もう数年前のことであり、当時はこの長引く半導体不足や物価高など勿論微塵の気配もなく、だからこそ私の少ない蓄えでも、所謂ゲーミングPCというやつを購入出来たのだ。性能的には、当時で中の中か下くらいのものだったと記憶している。

 それからというもの、細々としたトラブルを多数対処しながら使ってきた。曰く、液晶ペンタブレットが動かない。動いても動作が安定しない。クーラーファンから異音がする。ゲームがハングアップする。やっと動いたかと思えば終了出来なくなる。実際にはメモリには十分な余力があるにも関わらず、ブラウザを使っているだけでメモリ不足のアラートが出る。突然一切の入力を受け付けなくなる。モニタが全く映らなくなったこともあった。

 ……こうして書き出してみると、まともに動いていた時間の方が短いように思えてくる。実際のところはそうでもないのだろうが、体感としてはずっと癇癪持ちの気まぐれな生き物をなだめすかしながら扱ってきたような気分だ。それでもずっとこのような苦行に耐えてきたのは、私にはこのパソコンしかなかったからである。

 このパソコンを購入してからこちら、私は単発的なアルバイトを除けばずっと無職だったし、時折得たあぶく銭もパソコンを購入するには全く足りなかった。その上私は余暇のほぼ全てをパソコンにつぎ込み、己の創作的な側面を全てそれに依存している。楽曲の製作も、イラストの制作も、小説の執筆も、勿論この雑文を書くのも、全てはパソコンで行っていることなのである。そのうちのひとつとして金になったことはないので、勿論全く趣味の範疇であるが、人はパンのみにて生くるものに非ず、パソコンがあったからこそ私が得られたものは大きい。

 そして今、私の愛すべきパソコンは息も絶え絶えに、断末魔を迎えんとしているように思われてならない。根拠はないのだが、強いて言えば、今までの細々としたトラブルは全て解決出来た。それなのに今回のトラブルはどんなに潜れども解決策が見えてこないのである。だからこそ、寿命が近いのではないかと思えるのだ。

 既に重要なデータはバックアップを取り、作業途中の作品も出来るだけ外部ストレージに保存するようにしているが、終わりがいつ来るかは分からない。願わくば、次のパソコンを用意するまでなんとか生きていて欲しいのだが。

 パソコンのない生活など考えられない。それがゲーミングPCだった場合、尚更である。そのくせ、昨今の半導体不足と物価高によって、きょうび中の中くらいのスペックのパソコンを買うと、当時より3割ほども高いのだ。腹立たしい。

 私は既にパンドラの箱を開けてしまったのである。時折無職をやめることを考えるのは、主にこういった理由からだ。刺激がなくてつまらないとか、そんなことでは断じてない。無職は何年だって続けていられるが、パソコンのない生活は1週間と保たないのだ。私はどうするべきだろうか!辞書で「路頭に迷う」と引けば、そこには私の名が書いてある。

2023年1月31日火曜日

ノー・ウェイ・アウト

 端的に言って、行き詰まっているのである。

 私の嫌いな作家の話になるので恐縮だが、かつて「書を捨てよ、町に出よう」と言った人がいた。嫌いなものの話をするのは厭なものだが、それを読まされる諸兄らも厭だろうからさっくりと話を進めたい。

 実際に、こうして雑文を書いたり、たまに真面目な創作をしていると気付くのだが、自分の頭の中にしかないことがそのまま作品として結実してくることは滅多にない。大抵は、下敷きとなる事実・現象があり、そこに尾ひれや肉をつけ、あるいはすっかり換骨奪胎してしまったりして、物語というものは生まれてくるのである。つまるところ、その生産工程においては、現実が主であり、物語が従である。それが逆転することはあり得ない。諸兄らがどんなに自分が異世界でチヤホヤされる物語を書いたところで、現実の諸兄らが取るに足りない吹けば飛ぶよな将棋の駒以下の存在であることに変わりはないのと同じである。

 しかしながら、生きているだけで社会というものから迫害され、また自身が社会に害をなしていると思い込んでいるが故に、まともにお天道様の下ァ歩けねえやくざ者というのはいるのである。私である。こう聞けばまるで座頭市のようだが、座頭市のように現実に即すのではなく思い込みに即してやくざ者を自称しているだけであるのでそれほどカッコのよろしいものではない。ナイフを持っただけで強くなったような気がするナイーヴな少年と同じ次元である。

 そのようなネガティブとっつぁん坊やにとって、世界と触れあうことは多大な困難と高い障壁を伴う。その壁の高さをおそらく本当の意味では知らなかった寺山修司の――あっ、名前出してもーた!――の言は、一種の生存バイアス、ないしマチスモのようなものを感じるので好きになれない訳だが、折に触れこの言葉が正しいことを認識せざるを得ないので困るのである。

 人に読んでもらえる文章を書くというのはやはり難しい。私は実際のところ、読者を想定せぬまま、ある程度まとまった文章を書くということをほぼしない。それは私がまとまった文章を発表するということに一種の美学を反影させているからだが、独善を恐れる心理が働いていることも否定出来ない。そのような自意識が私に道化を演じさせ、ある種のサービスとして、ユーモアないし読者の関心を惹くコンテンツを出力させているのだ。

 そうなってくれば、より面白いものを出力しようとするのが書く者の当然の使命であり、それによって私は日々摩耗していく心に立った些かの漣を必死に膨らませ、あの手この手で形を整えた上で、針小棒大に騒ぎ立てることになるのである。

 残念ながら、この手の行為のコストはかなり高い。冷静に考えてみて欲しいのだが、数時間をキーボードを叩くことに費やし、誰が読むとも知れない雑文を背筋と根性を直角にひん曲げて書き続けることは、これはちょっとまともな行いとは言えないのではないか。数時間という暇があれば、人間というのはもうちょっとまともなことが出来るはずである。意味もなくトイレットペーパーを全部引き出したり、食べきれる訳もない量のカップラーメンを戻し続けたり、隣家の犬を秘密裏に夜の闇へと解き放ったりなど出来るはずで、その手の行為にかけてもよいはずの時間と情熱を、ひたすら画面を埋める文字を増やすことに費やしているのだからこれはハッキリ言って異常である。

 そして、そのような異常な愛情を注いで出力した文章でも、面白くなるかどうかは全く保証出来ないのだから悲しい話だ。まるで殊の外大量に注がれたパパとママの愛情が、それでもまだ足らなかった諸兄らの育ちのようであるな。やっていることは事実上博打であり、書いている文章がどう転がっていくのか分からないまま書いているのだから、私が文筆業を生業にすることは適わないのである。

 その点、(あえて通俗的な書き方をしてみると)下敷きとなる事実・現象が"強い"ものであれば、それほど書き手が策を弄さずとも、出力される文章は興味深く、面白いものへと収束していく。勿論書き手にはそれなりの語彙と文章力が要求されるが、ない袖を秒間5千往復させ続けるような私の出力方法に比すれば、それほど高いレベルの技術が必要だとも思えない。それは「下敷きになる物事の面白さ」という頑丈な基礎が最初にあるためで、それをきちんと文章に起こすだけの能力があれば、その上に建つものは半ば自ずから高く壮麗な建築となっていくのである。

 そして、そうした"強い体験"を自室から出ずに得ることは、残念ながらほぼ不可能だと言っていい。面白いものは常に外部に、世界に転がっているのであり、自室と自分の頭の中にあるのは「何を面白いと思うか」という枠組みだけである。いくら巧言を用いて説明したところで、枠組みでは読者の興味は惹けないだろう。ワールドカップの大会要項を読む人などいないように、枠組みそのものの構造に興味を抱く者は建築学者くらいのものである。

 そのため、我々は渋々、町へ出ることになるのである。渋々町に出て、渋々面白エピソードを探すことになるのである。しかしながら世界というのは殊の外残酷なもので、興味を持ってくれる者にしかその価値を知らしめてくれない。誰にでもニコニコしてくれる、ハンバーガーショップの接客とは訳が違うのだ。社会を害し社会に害される、まるで豆腐で出来た鈍器の如き私には、おいそれとその素晴らしさを覗かせてくれたりはしないのである。

 すなわち、私のような人間が日常の中でそのような頑丈な基礎となり得る体験をすることは、これまた絶望的であるのだ。我々の日常は無味であり、空っぽであり、乾燥していて、全く八方塞がりである。何かに腹を立てることだけが生活と言っても過言ではない。そのような生を享受しておきながら、感性を瑞々しく、アンテナを高く保ち、怒りを覚えずにいることは、半ば苦行である。

 こうして私は得がたいものを得たいと願いながら、何も得られずに秒間5千回でない袖を振ることになる。探しているのがほうき星であればBUMP OF CHICKENにもなれただろうが、実際のところ血眼で探しているのは面白エピソードでしかないので、なれるのはせいぜい高周波振動子である。否、秒間5千回の振動、すなわち5kHzでは高周波振動子にもなれない。高周波振動子の出力は低いものでも15kHz程度が下限なのだ。5kHzという周波数は、音波にすれば人間の可聴域すら外れていない。

 妙に数字に細かい冗談はさておき、もはや私の感性は枯れかけつつある。日常の中にあって書けるものはもう書いたのではないかとすら思う。季節柄独りで外出することも減っており、外出したとて古道具屋で珍しいギターを見たとか、酷い運転の車に出会って腹が立ったとか、そういった経験しか得られない。

 面白エピソード入手の壁は、厚く高い。これを産みの苦しみと言うのであれば無理矢理にでも溜飲を下げるしかないのだが、寺山修司が草葉の陰で私をあざ笑っている気がするのでそれも難しいのである。

2023年1月8日日曜日

運気消失マジック

 おみくじを引いたのである。

 年始である。騒乱の内に師走は過ぎ去り、みかんだの酒だのといった季節性の飲食物が次々と着弾し、『ゆく年くる年』が除夜の鐘を高らかに打ち鳴らして2022年は過去のものとなった。

 昨年は11月頃からなんだかんだと諸事情が重なりあって、12月が特に早く過ぎ去ったように思えてしまう。何ならまだ11月のような気すらしている。もしかしてこれが噂に聞く老化だろうか。私はまだまだ若輩であるが、年長者はこれ以上のスピードで1年が過ぎ去っていくのだろうか。恐ろしいことである。もとより君のいない世界のスピードにもついて行けない私のこと。きっと気が付く間もなく老いさらばえて野垂れ死ぬことになるのだろう。

 さて、お祭り騒ぎが大好きすぎるあまり、信心も節操も数千億土の彼方へ投げ出して年がら年中馬鹿踊りをする我々一般的な日本人が、年明けにやることと言えばそう初詣である。初詣ったら初詣である。気合の入った連中は年の明ける前から寺社に並ぶそうだが、それに付き合わされる神々も、真夜中から大挙して訪れてくる氏子を名乗る馬の骨の相手をさせられてかわいそうである。これがかわいそうでないとして何だというのだ。訳の分からん風習のせいでやる羽目になる深夜勤務というものは、筋が通っていないだけに往々にして苛立ちが募るものである。もし私が神であったならば、夜も明けぬうちから住処にやって来て身勝手なことを捲し立てる氏子など、舌打ちして片っ端から神罰の優先執行権をプレゼントするところだ。

 実際のところは私は無神論者かつ合理主義者であり、ありとあらゆる類いの信仰を否定的な目線で見ている。民俗学的な意味での信仰のあり方にはそれなりに興味があるが、それはあくまで学術的興味に過ぎず、自分がその中に組み込まれることは想像しがたい。つまるところ、1月になれば寺社へ赴くのも、護符を買うのもファッションの一環なのだ。私は普段持ち歩く鞄やギターなどに厄除守をぶら下げているが、それらに何かしらの御利益を期待することはない。それがファッションだからである。しかしながら、それゆえに私は信心のあるふりをせねばならないのだ。なぜなら、往々にしてファッションをファッションだと覚られてしまうことは一番恥ずかしいことだからである。伊達酔狂でファッションをやるのも楽ではない。

 そんなわけで、私は最寄りの神社にやって来た。無信心なので勿論日も高くなってからである。三が日ですらない。無信心なので賽銭箱には10円玉を放り込んだ。財布の中にあった最も少額の貨幣だからである。無信心なので祭神が何かも知らない。無信心なので本当は参拝をするつもりもなかったのだが、私ほどドライな無神論者ではない家族が参拝しない訳にはいかないと言うので、仕方なく付き合ったまでのことだ。

 私の目的はあくまで護符を買うことと、おみくじを引くことにあった。無信心の合理主義者がなぜおみくじを?と思う向きもあるかも知れないが、これは所謂ご祝儀である。来年から護符を買う場所がなくなられても困るのだ。無論宗教法人である寺社はそうそうなくなったりはしないが、その程度の義理を通すくらいの融通は私にだって利かせられる。それに、きょうびのおみくじは何かしらの付加価値がつけられていることが大半である。勾玉だとか、金メッキの縁起物だとか、そういうチープな付加価値を愛でる気持ちは私にも備わっている。俗に収集欲とか、射幸心とか言われるようなものだ。

 私は今回、小さなホーロー引きの鈴がついたおみくじを選択した。代金を支払い、箱の中からガサガサと 1枚を引く。長い紙を広げてみると、まず最初に「大吉」という文字が目に入った。

 それなりに生きてきて、年始に大吉を引いたのは初めてである。終わりだ。今年の運を既に使い果たした。内心「これじゃ初詣じゃなくて終詣だよトホホ~!」などと唸りながら、その下に書かれている文言を読む。それは要約すれば下記のような内容であった。

「まあどちらかと言えば絶好調だけど、調子に乗ると全てを失う」

 これが大吉の内訳と言えるのだろうか。人の運勢というのは私が思っていたように使い果たすものではなく、そんなリスキーなゼロサムゲームなのか。だとすれば私の運は既にこのおみくじを引いたことで発揮されており、後はその帳尻を合わせるばかりではないのか。大体「どちらかと言えば絶好調」とは何だ。調子とはそんなにまだらでモメンタリなものだろうか。桃鉄ですらオルタネイト式のバフであったぞ、絶好調。

 よい内容のおみくじは持ち帰るもの、と聞いているので、とりあえず私はおみくじと鈴とをポケットに突っ込み、隣町まで買い物に行くことにした。途中で昼食をとり、帰ってきたのが4時間後だったのだが、家に着いてポケットを改めるとおみくじは既に消えていた。

 いくら無神論者と言えど、これはちょっと不吉なものを覚えざるを得ない。大体、いつ落としたのかも記憶にないのだ。ポケットに穴が開いているでもない。おみくじだけが忽然と姿を消してしまった。

 本当に、まるきり終詣である。頼みの綱は護符と、残った鈴だ。私としてはファッションのつもりだったのだが。年始から大吉を引く、という幸運を打ち消す小出しの不運に襲われ続ける予感に震えつつ、この雑文も終わっていくのである。