2023年1月8日日曜日

運気消失マジック

 おみくじを引いたのである。

 年始である。騒乱の内に師走は過ぎ去り、みかんだの酒だのといった季節性の飲食物が次々と着弾し、『ゆく年くる年』が除夜の鐘を高らかに打ち鳴らして2022年は過去のものとなった。

 昨年は11月頃からなんだかんだと諸事情が重なりあって、12月が特に早く過ぎ去ったように思えてしまう。何ならまだ11月のような気すらしている。もしかしてこれが噂に聞く老化だろうか。私はまだまだ若輩であるが、年長者はこれ以上のスピードで1年が過ぎ去っていくのだろうか。恐ろしいことである。もとより君のいない世界のスピードにもついて行けない私のこと。きっと気が付く間もなく老いさらばえて野垂れ死ぬことになるのだろう。

 さて、お祭り騒ぎが大好きすぎるあまり、信心も節操も数千億土の彼方へ投げ出して年がら年中馬鹿踊りをする我々一般的な日本人が、年明けにやることと言えばそう初詣である。初詣ったら初詣である。気合の入った連中は年の明ける前から寺社に並ぶそうだが、それに付き合わされる神々も、真夜中から大挙して訪れてくる氏子を名乗る馬の骨の相手をさせられてかわいそうである。これがかわいそうでないとして何だというのだ。訳の分からん風習のせいでやる羽目になる深夜勤務というものは、筋が通っていないだけに往々にして苛立ちが募るものである。もし私が神であったならば、夜も明けぬうちから住処にやって来て身勝手なことを捲し立てる氏子など、舌打ちして片っ端から神罰の優先執行権をプレゼントするところだ。

 実際のところは私は無神論者かつ合理主義者であり、ありとあらゆる類いの信仰を否定的な目線で見ている。民俗学的な意味での信仰のあり方にはそれなりに興味があるが、それはあくまで学術的興味に過ぎず、自分がその中に組み込まれることは想像しがたい。つまるところ、1月になれば寺社へ赴くのも、護符を買うのもファッションの一環なのだ。私は普段持ち歩く鞄やギターなどに厄除守をぶら下げているが、それらに何かしらの御利益を期待することはない。それがファッションだからである。しかしながら、それゆえに私は信心のあるふりをせねばならないのだ。なぜなら、往々にしてファッションをファッションだと覚られてしまうことは一番恥ずかしいことだからである。伊達酔狂でファッションをやるのも楽ではない。

 そんなわけで、私は最寄りの神社にやって来た。無信心なので勿論日も高くなってからである。三が日ですらない。無信心なので賽銭箱には10円玉を放り込んだ。財布の中にあった最も少額の貨幣だからである。無信心なので祭神が何かも知らない。無信心なので本当は参拝をするつもりもなかったのだが、私ほどドライな無神論者ではない家族が参拝しない訳にはいかないと言うので、仕方なく付き合ったまでのことだ。

 私の目的はあくまで護符を買うことと、おみくじを引くことにあった。無信心の合理主義者がなぜおみくじを?と思う向きもあるかも知れないが、これは所謂ご祝儀である。来年から護符を買う場所がなくなられても困るのだ。無論宗教法人である寺社はそうそうなくなったりはしないが、その程度の義理を通すくらいの融通は私にだって利かせられる。それに、きょうびのおみくじは何かしらの付加価値がつけられていることが大半である。勾玉だとか、金メッキの縁起物だとか、そういうチープな付加価値を愛でる気持ちは私にも備わっている。俗に収集欲とか、射幸心とか言われるようなものだ。

 私は今回、小さなホーロー引きの鈴がついたおみくじを選択した。代金を支払い、箱の中からガサガサと 1枚を引く。長い紙を広げてみると、まず最初に「大吉」という文字が目に入った。

 それなりに生きてきて、年始に大吉を引いたのは初めてである。終わりだ。今年の運を既に使い果たした。内心「これじゃ初詣じゃなくて終詣だよトホホ~!」などと唸りながら、その下に書かれている文言を読む。それは要約すれば下記のような内容であった。

「まあどちらかと言えば絶好調だけど、調子に乗ると全てを失う」

 これが大吉の内訳と言えるのだろうか。人の運勢というのは私が思っていたように使い果たすものではなく、そんなリスキーなゼロサムゲームなのか。だとすれば私の運は既にこのおみくじを引いたことで発揮されており、後はその帳尻を合わせるばかりではないのか。大体「どちらかと言えば絶好調」とは何だ。調子とはそんなにまだらでモメンタリなものだろうか。桃鉄ですらオルタネイト式のバフであったぞ、絶好調。

 よい内容のおみくじは持ち帰るもの、と聞いているので、とりあえず私はおみくじと鈴とをポケットに突っ込み、隣町まで買い物に行くことにした。途中で昼食をとり、帰ってきたのが4時間後だったのだが、家に着いてポケットを改めるとおみくじは既に消えていた。

 いくら無神論者と言えど、これはちょっと不吉なものを覚えざるを得ない。大体、いつ落としたのかも記憶にないのだ。ポケットに穴が開いているでもない。おみくじだけが忽然と姿を消してしまった。

 本当に、まるきり終詣である。頼みの綱は護符と、残った鈴だ。私としてはファッションのつもりだったのだが。年始から大吉を引く、という幸運を打ち消す小出しの不運に襲われ続ける予感に震えつつ、この雑文も終わっていくのである。