端的に言って、行き詰まっているのである。
私の嫌いな作家の話になるので恐縮だが、かつて「書を捨てよ、町に出よう」と言った人がいた。嫌いなものの話をするのは厭なものだが、それを読まされる諸兄らも厭だろうからさっくりと話を進めたい。
実際に、こうして雑文を書いたり、たまに真面目な創作をしていると気付くのだが、自分の頭の中にしかないことがそのまま作品として結実してくることは滅多にない。大抵は、下敷きとなる事実・現象があり、そこに尾ひれや肉をつけ、あるいはすっかり換骨奪胎してしまったりして、物語というものは生まれてくるのである。つまるところ、その生産工程においては、現実が主であり、物語が従である。それが逆転することはあり得ない。諸兄らがどんなに自分が異世界でチヤホヤされる物語を書いたところで、現実の諸兄らが取るに足りない吹けば飛ぶよな将棋の駒以下の存在であることに変わりはないのと同じである。
しかしながら、生きているだけで社会というものから迫害され、また自身が社会に害をなしていると思い込んでいるが故に、まともにお天道様の下ァ歩けねえやくざ者というのはいるのである。私である。こう聞けばまるで座頭市のようだが、座頭市のように現実に即すのではなく思い込みに即してやくざ者を自称しているだけであるのでそれほどカッコのよろしいものではない。ナイフを持っただけで強くなったような気がするナイーヴな少年と同じ次元である。
そのようなネガティブとっつぁん坊やにとって、世界と触れあうことは多大な困難と高い障壁を伴う。その壁の高さをおそらく本当の意味では知らなかった寺山修司の――あっ、名前出してもーた!――の言は、一種の生存バイアス、ないしマチスモのようなものを感じるので好きになれない訳だが、折に触れこの言葉が正しいことを認識せざるを得ないので困るのである。
人に読んでもらえる文章を書くというのはやはり難しい。私は実際のところ、読者を想定せぬまま、ある程度まとまった文章を書くということをほぼしない。それは私がまとまった文章を発表するということに一種の美学を反影させているからだが、独善を恐れる心理が働いていることも否定出来ない。そのような自意識が私に道化を演じさせ、ある種のサービスとして、ユーモアないし読者の関心を惹くコンテンツを出力させているのだ。
そうなってくれば、より面白いものを出力しようとするのが書く者の当然の使命であり、それによって私は日々摩耗していく心に立った些かの漣を必死に膨らませ、あの手この手で形を整えた上で、針小棒大に騒ぎ立てることになるのである。
残念ながら、この手の行為のコストはかなり高い。冷静に考えてみて欲しいのだが、数時間をキーボードを叩くことに費やし、誰が読むとも知れない雑文を背筋と根性を直角にひん曲げて書き続けることは、これはちょっとまともな行いとは言えないのではないか。数時間という暇があれば、人間というのはもうちょっとまともなことが出来るはずである。意味もなくトイレットペーパーを全部引き出したり、食べきれる訳もない量のカップラーメンを戻し続けたり、隣家の犬を秘密裏に夜の闇へと解き放ったりなど出来るはずで、その手の行為にかけてもよいはずの時間と情熱を、ひたすら画面を埋める文字を増やすことに費やしているのだからこれはハッキリ言って異常である。
そして、そのような異常な愛情を注いで出力した文章でも、面白くなるかどうかは全く保証出来ないのだから悲しい話だ。まるで殊の外大量に注がれたパパとママの愛情が、それでもまだ足らなかった諸兄らの育ちのようであるな。やっていることは事実上博打であり、書いている文章がどう転がっていくのか分からないまま書いているのだから、私が文筆業を生業にすることは適わないのである。
その点、(あえて通俗的な書き方をしてみると)下敷きとなる事実・現象が"強い"ものであれば、それほど書き手が策を弄さずとも、出力される文章は興味深く、面白いものへと収束していく。勿論書き手にはそれなりの語彙と文章力が要求されるが、ない袖を秒間5千往復させ続けるような私の出力方法に比すれば、それほど高いレベルの技術が必要だとも思えない。それは「下敷きになる物事の面白さ」という頑丈な基礎が最初にあるためで、それをきちんと文章に起こすだけの能力があれば、その上に建つものは半ば自ずから高く壮麗な建築となっていくのである。
そして、そうした"強い体験"を自室から出ずに得ることは、残念ながらほぼ不可能だと言っていい。面白いものは常に外部に、世界に転がっているのであり、自室と自分の頭の中にあるのは「何を面白いと思うか」という枠組みだけである。いくら巧言を用いて説明したところで、枠組みでは読者の興味は惹けないだろう。ワールドカップの大会要項を読む人などいないように、枠組みそのものの構造に興味を抱く者は建築学者くらいのものである。
そのため、我々は渋々、町へ出ることになるのである。渋々町に出て、渋々面白エピソードを探すことになるのである。しかしながら世界というのは殊の外残酷なもので、興味を持ってくれる者にしかその価値を知らしめてくれない。誰にでもニコニコしてくれる、ハンバーガーショップの接客とは訳が違うのだ。社会を害し社会に害される、まるで豆腐で出来た鈍器の如き私には、おいそれとその素晴らしさを覗かせてくれたりはしないのである。
すなわち、私のような人間が日常の中でそのような頑丈な基礎となり得る体験をすることは、これまた絶望的であるのだ。我々の日常は無味であり、空っぽであり、乾燥していて、全く八方塞がりである。何かに腹を立てることだけが生活と言っても過言ではない。そのような生を享受しておきながら、感性を瑞々しく、アンテナを高く保ち、怒りを覚えずにいることは、半ば苦行である。
こうして私は得がたいものを得たいと願いながら、何も得られずに秒間5千回でない袖を振ることになる。探しているのがほうき星であればBUMP OF CHICKENにもなれただろうが、実際のところ血眼で探しているのは面白エピソードでしかないので、なれるのはせいぜい高周波振動子である。否、秒間5千回の振動、すなわち5kHzでは高周波振動子にもなれない。高周波振動子の出力は低いものでも15kHz程度が下限なのだ。5kHzという周波数は、音波にすれば人間の可聴域すら外れていない。
妙に数字に細かい冗談はさておき、もはや私の感性は枯れかけつつある。日常の中にあって書けるものはもう書いたのではないかとすら思う。季節柄独りで外出することも減っており、外出したとて古道具屋で珍しいギターを見たとか、酷い運転の車に出会って腹が立ったとか、そういった経験しか得られない。
面白エピソード入手の壁は、厚く高い。これを産みの苦しみと言うのであれば無理矢理にでも溜飲を下げるしかないのだが、寺山修司が草葉の陰で私をあざ笑っている気がするのでそれも難しいのである。