2025年5月23日金曜日

『チェンジリング』(1980年)映画評

 『チェンジリング』(1980年-パン・カナディアン)

得点…92/100

(画像の出典:『The Changeling (1980) - IMDb』

 前々から「面白い」という評判は聞いていたものの、ジャケットの『ローズマリーの赤ちゃん』(1969年-パラマウント映画)っぽさが鼻についてしまい、今日まで何となく敬遠してしまっていた作品である。この度気が向いて鑑賞してみたところ、なるほどこいつは面白い。それも大変面白い。とんだ掘り出し物である。

 あまりこういう文脈で語られているのを見たことはないが、本作の様々なシーンが種々のJホラー作品(特に中田秀夫監督作)にオマージュされている。鑑賞中「あっ、このシーン観たことある!」という発見が何度もあり、それらの映画の元ネタを知れたという意味でも印象深い鑑賞体験となった。

 ちなみにこの映画評を書くにあたって改めて『ローズマリーの赤ちゃん』のジャケットを調べてみたところ、実際にはそれほど似ていなかったというオチが付く。なんじゃそりゃ。

 毎回警告しているが、私はネタバレには一切配慮しないので、ここから先を読み進める場合にはそのおつもりで。でも本作くらいは私の映画評など読まずに観て欲しい気持ちもある。それくらいよく出来た作品なので。

 

 交通事故で妻子を失った作曲家ジョン・ラッセル(ジョージ・C・スコット)は、妻子と暮らしたニューヨークの家を引き払い、友人の伝手を頼ってシアトルの大学で教鞭を執ることになった。一日中ピアノを弾ける家が必要だと話すジョンに、友人は歴史保存協会の知り合いを紹介してくれる。協会が管理している歴史的建造物を貸してくれるというのだ。

 協会員のクレア・ノーマン(トリッシュ・ヴァン・ディヴァー)に連れられてジョンがやって来たのは、築100年は経とうかという屋敷だった。広いわ家具付きだわ、おまけに音楽室も完備しているこの「チェスマン・ハウス」が気に入ったジョンは、早々に契約して引っ越しを済ませる。

 数日後、大学の主催するチャリティコンサートから帰宅したジョンは、屋敷中に轟く何かを叩くような音で朝6時に起こされた。傍迷惑な話である。その翌日にも轟音は鳴り響き、ジョンは管理人を呼んで配管やボイラーなどを点検してもらうも、異常は見つからない。夜になると今度は屋敷のあちこちの水回りという水回りから水漏れが起こり、屋根裏の浴室ではついに浴槽に沈む顔を目撃してしまう。

 流石にただ事ではないと思い始めたジョンは歴史保存協会を訪れ、クレアに屋敷で何か事件が起こった来歴はないかと問うが、クレアは屋敷はずっと空き家だったと答え、暗にまだ傷心の癒えぬジョンが幻覚でも見たのだと主張した。

 憮然とするジョンだったが、協会の古株職員ミニーが気になることを告げる。曰く、今回の賃貸契約はクレアの独断によるもので、契約上の問題が存在している。チェスマン・ハウスはずっと空き家だったし、それは屋敷が人を拒むからだと。

 釈然としないまま帰宅したジョンが、翌日の朝散歩に出かけようとすると、急に屋根裏部屋の窓ガラスが割れ落ちた。 窓ガラスの破片を手に屋敷を見上げたジョンは、自分がまだ入ったことのない部屋が存在していることを知る。

 屋根裏に上がったジョンは、物置の奥の壁に板や棚を打ち付けて隠された扉を発見し、その扉に掛かった南京錠を破壊しようと試みる。その途端例の轟音が屋敷中に鳴り響き、ジョンが耳を押さえながらも同じリズムで南京錠を叩きつけると、南京錠が開くのと同時に音は止んだ。

 恐る恐る扉を開けたジョンが目にしたのは、急な階段の先の小さく暗い部屋だった。子供用のベッドや車椅子が転がる部屋の中で「C.S.B. 1909年1月」と署名された日記帳とオルゴールを見つけたジョンだったが、何とオルゴールの曲はジョンが屋敷に引っ越してきてから作曲していた交響曲と旋律やテンポ、調までもがぴったり一致していたのだ。

 クレアを呼んでオルゴールと部屋、日記帳を見せたジョンは、屋敷は人を拒んでなどおらず、むしろ何かを伝えたがっているのだと推測する。

 翌日、歴史保存協会でチェスマン・ハウスの登記簿を調べるジョンとクレアだったが、直前の住人が1967年まで住んでいたこと、その後無人となった屋敷を地元の上院議員で慈善家、歴史保存協会の理事も務めるジョセフ・カーマイケル(メルヴィン・ダグラス)が購入し協会へ寄贈していること程度しか分からなかった。

 1920年より以前の記録は協会にも存在せず、調査は暗礁に乗り上げたかと思われたが、ミニーが1909年当時の住人がバーナードという医師であることを覚えていたため、二人は図書館で当時の新聞を調べることにする。

 果たして1909年当時の新聞に「バーナード医師の娘コーラが、屋敷の庭で石炭運搬車に轢かれて亡くなった」という記事が掲載されているのを発見。日記帳の署名とも合致する名前が登場したことで、一旦は真相に辿り着いたかとその墓所を訪れた二人だったが、「何故コーラが自分に接触しようとするのかが分からない。娘を亡くしたからか?思い出すのも辛いのに」と吐き捨てるジョンに、クレアは屋敷を引き払うことを勧める。

 その夜、階段脇の書斎で妻や娘の写真を眺めていたジョンの許に、階上からゴムボールが転がり落ちて来た。娘の遺品で、書斎の箱にしまってあったはずのそれを拾い上げたジョンは、全ては自分の心の病が見せる幻覚だと思い込もうとし、娘への執着を断ち切るべく川へゴムボールを捨てに行く。そして屋敷へ戻ってきたジョンが見たものは、階上から転がり落ちて来る、さっき捨てたはずのゴムボールだった。

 このシーンは音響やカメラアングルも含めてあまりにも見せ方が上手いので、今日のホラー映画には割とありがちな展開にも関わらず、私はゾッとしてしまった。『仄暗い水の底から』(2002年-東宝)でもマンションの屋上に子供用のバッグが何度も現れたが、現れる物体に動きがついている分、なにがしかの意志を感じさせてこちらの方がよっぽど怖い。

 ついになりふり構っていられず、大学の心霊研究室教授から信用出来る霊媒師を紹介してもらったジョンは、クレアとその母を伴って降霊会を行う。霊媒師の自動筆記によって、屋敷に棲まう者がコーラではなくジョセフという少年であることが明かされるが、それ以上は「助けて」と繰り返すばかりで目ぼしい情報は得られなかった。

 降霊会の後、ジョンは独りその模様を録音したテープを聴き直していた。すると、参加者以外の声が録音されていることに気付く。 ジョセフ・カーマイケルを名乗る少年の声は、自身が足の障碍で歩けなかったことや、自室で湯灌中に父親に溺死させられたこと、自身の名が刻まれたメダルのペンダントを所持していたことなどを細切れに話した。ジョンが聞いたあの轟音の正体は、少年が抵抗して湯桶を叩く音だったのだ。

 慌ててクレアを呼び戻しテープを聞かせたジョンは、本物のジョセフ・カーマイケルが屋敷の屋根裏部屋で殺され、農場の井戸に埋められたことを確信する。今や上院議員となったジョセフ・カーマイケルは、どこかの養護施設から連れて来られた替え玉なのではないかというジョンの推理を半狂乱になりながら遮ったクレアだったが、ふと階上を見上げて絶句。そこには例の車椅子が、二人の様子を窺うかのように鎮座していたのだ。

 こちらも最早古典的とも言える演出だが、ここで敢えて車椅子という小道具をチョイスするセンスがニクい。JホラーやしょうもないBC級ホラーであればここで少年の霊を立たせてしまいそうなものだが、本作では軋む車椅子が主人公達を睥睨する。私はこのシーンに一番ゾッとした。

 翌日、ジョンとクレアはジョセフ・カーマイケル議員とチェスマン・ハウスについて調べ始めていた。そして、第一次大戦の混乱に乗じて入れ替えが行われた可能性が濃厚であること、カーマイケル家が所有していた農場に井戸が存在し、そこは現在宅地になっていること、父親であるリチャード・カーマイケルが息子を手に掛ける動機が、億万長者である妻の実家からジョセフが相続することになっていた遺産にあったらしいことが分かる。

 一方で歴史保存協会のミニーはカーマイケル議員に電話し、ジョン・ラッセルという男が議員の過去を探り始めていることを警告する。ミニーには議員の息が掛かっていたのだ。

 二人は井戸があった場所に現在建っている家の住人、グレイ夫人を訪ね話を聞くことにした。なんでもチェスマン・ハウスで降霊会が行われた日、グレイ夫人の娘が部屋の床から浮かび上がる少年の霊を見たというのだ。床を剥がしてもいいかと聞くジョンに対し、グレイ夫人は少し考えさせてほしいと答える。

 その夜のこと、夫人の娘が再び水に沈む少年の霊を見てしまう。急遽呼び出されたジョンは夫人の息子と共に床を剥がし、案の定出てきた古井戸を掘り返すと、当然のように人骨が出土するのだった。

 ジョセフの霊がしっかり実体を伴って画面上に現れるのは、全編を通じてほぼこのシーンのみである。しかも主人公でも何でもない、グレイ夫人の娘というぽっと出のキャラクターを目撃者に選ぶセンスには脱帽だ。怪異の正体があくまで主人公達には見えざる存在であるということを鑑賞者に強く印象付け、緊張の糸を張り詰めさせたままエンディングまで駆け抜けるための下地作りに成功している。

 駆け付けた警察の聴取を適当にあしらったジョンは、埋められていたのが本物のジョセフ・カーマイケルであることを証明するメダルのペンダントを探すため、人気のなくなったグレイ家に再び潜り込む。小さなメダルがそう簡単に見つかるはずもなく、諦めかけたジョンだったが、本物のジョセフの怨念がなせる業か、メダルが滲み出すように出土する。

 本物のジョセフのメダルを手に入れたジョンは警察には届け出ず、カーマイケル議員と直談判することを選んだ。空港でプライベートジェットへ乗り込もうとする議員に突撃し、メダルを見せて話をしようとしたが、警護に取り押さえられてしまう。カーマイケル議員は機上から腹心のデウィット警部に連絡し、ジョンの対処を依頼した。

 這う這うの体でチェスマン・ハウスに帰宅したジョンだったが、今度は扉という扉が強い不満を訴えかけるようにバッタンバッタン開閉する始末。ついに「やれることはやった!これ以上何をすればいいんだ!」と霊に逆ギレしてしまうジョン。

 疲れ果てて長椅子に寝転ぶジョンの許に、カーマイケルの差し金でデウィット警部が訪れた。警部はジョンを脅迫者と断定し、次会う時には令状を持って来る、と捨て台詞を残して帰っていく。

 警部と入れ違いになるようにして、立腹したクレアが玄関を突き破らん勢いで入ってきた。突然歴史保存協会を解雇され、チェスマン・ハウスの賃貸契約も破棄されたというのだ。これから理事長に掛け合ってくる、と鼻息荒く屋敷を後にしたクレアだったが、すぐに屋敷へ電話を掛けてくる。帰り道で自動車事故の現場に遭遇し、その事故でデウィット警部が死んだという。

 腹心であるデウィット警部に死なれ、焦ったカーマイケル議員は、ついにジョンと直接会うことを決める。カーマイケル邸に乗り込んで議員に直接推理をぶつけたジョンだったが、議員は泣きながら父親を侮辱するなと一喝、その姿を目の当たりにしたジョンは言い争う気も失せたのか、遺言状や降霊会の録音、メダルなど証拠の一切を議員に渡して去っていった。

 その頃チェスマン・ハウスを訪れていたクレアは、誘われるように屋根裏部屋までやって来たところで車椅子に追いかけられ、階段落ちを披露。ちょうど帰ってきたジョンに介抱され、代わりにジョンが屋根裏部屋へ向かったが、ジョンの態度にも議員の責任逃れにもプッツン来たジョセフの怨念たるや凄まじく、ジョンも二階の廊下から吹き飛ばされてしまう。

 一方、カーマイケル議員は何気なくジョンから渡されたメダルを父の肖像画へかけたが、その途端にジョセフの怨念が炸裂、肖像画の乗った机ごとメダルが大きく震え出し、議員に父の凶行を幻視させる。

 屋敷のエントランスで伸びているジョンの目の前にはカーマイケル議員の霊体が現れ、燃え盛る階段を屋根裏部屋へと登って行った。途端に階段は焼け落ち、屋敷の命運を悟ったジョンは命からがら脱出を果たす。屋根裏部屋が議員の霊体ごと爆発すると同時に、カーマイケル邸では議員が心臓発作で冷たくなっていた。

 ジョンとクレアが燃え盛るチェスマン・ハウスを後にしてカーマイケル邸に取って返すと、ちょうど議員の亡骸が運び出されていた。全てが終わったことを察知し、カーマイケル邸のポーチにへたり込んでしまう二人。

 翌朝、灰燼に帰したチェスマン・ハウスの跡地では、燃え残った件のオルゴールの蓋がひとりでに開き、高らかに勝利の凱歌を上げるのだった。


 本作が特に優れている点は、その構成の巧みさにある。借りた家の曰くを明らかにする展開はオーソドックスな「幽霊屋敷もの」、幽霊の正体やその埋葬場所、犯人などを解き明かそうとする展開は「推理劇」、本気を出した幽霊が仇に祟って大暴れするラストシーンは「オカルトもの」、といったように、作中でストーリーの味わいが変化していくのだ。

 この3部構成は、ほぼそのまま『リング』(1998年-東宝)に踏襲されている。『リング』においては「都市伝説もの」→「推理もの」→「オカルトもの」という構成になっているが、男女の主人公が古い資料を漁って真相に近付いていく構成などは本作にそっくりである。怪異の元凶となった人物が遺棄されたのがどちらも井戸で、それを覆い隠すように家または貸別荘が建てられているという展開の共通点も見逃せない。

 その他、暗い屋根裏で扉が開閉するシーンは『女優霊』(1996年-ビターズ・エンド)、先述のゴムボールのシーンは『仄暗い水の底から』、全体の構成と主人公達が首っ引きで資料を探すシーンは『リング』など、種々のJホラー作品、特に中田秀夫監督作品に多くのオマージュが見られる。

 つまり、本作は多かれ少なかれ、Jホラーに無視出来ない影響を与えている作品なのだ。Jホラーに親しんだ者ほどその驚きは大きくなるだろう。

 また本作は構成の卓抜さのみならず、ショック描写のほうも手堅く押さえている。ハッタリじみた音響やVFX頼みではなく、カメラワークや最低限のSFXによって、屋敷に巣食う怪異の存在感を圧倒的なまでに描き切っていることは単純に賞賛に値するだろう。

 これは度々書いている気がするが、ホラー映画というのは、幽霊だの悪魔だのをただ出せばいいというもんではない。如何に怪異を画面に映さないかが肝要なのである。その点、本作は非常に高いレベルでこれをクリアしている。ジョセフの霊が出現するのは衝撃的な演出としてのワンシーンのみであり、大立ち回りのラストシーンですら直接的な姿を見せることはない。

 脚本の細かな点に目をやれば少々瑕疵が目立つ部分(屋根裏部屋から出てきた日記帳の存在や、グレイ夫人が協力的に過ぎる点など)もあるが、110分程度の尺にこれだけ秀逸なストーリーを詰め込んだという事実の前には些末な問題だろう。演出の緩急もしっかりしており、次第に明らかになっていく真相に鑑賞者はグイグイと引き込まれ、あっという間にエンドロールを迎えてしまうこと請け合いである。

 本作は「本当に面白いホラー映画はこうあるべき」というお手本のような作品で、私は今日まで鑑賞を先延ばしにしてきたことを強く後悔した。読者諸賢も是非本作を鑑賞して、ホラー映画のダイナミズムというものを体感してみてほしい。

2025年5月17日土曜日

『アメリカン・サイコ2』映画評

『アメリカン・サイコ2』 (2002年-ライオンズゲート)

得点…31/100

(画像の出典:『American Psycho II: All American Girl (Video 2002) - IMDb』

 いやあ、これは酷い。久しぶりにこんな酷い続編を観て少し嬉しくなってしまっている自分がいることに驚くくらい酷い。本作を観た後であれば、あの世紀の大駄作『ハロウィン3』(1982年-ユニバーサル・ピクチャーズ)はまだ「TVチカチカで子供がデロデロするという奇想があったから面白かった」と躊躇いなく言えるレベルで酷い。ここまで酷いと、我々に許された行為はもうこりゃ参った!と脱帽すること以外にない。

 毎回警告しているが、私はネタバレには一切配慮しないので、ここから先を読み進める場合はそのおつもりで。 


 それでは本作が如何に酷いかを語る前に、前作(仔細は後述するが、これを前作と言っていいのだろうか?)『アメリカン・サイコ』(2000年-ライオンズゲート)のあらすじについて軽く触れておこう。

(画像の出典:『American Psycho (2000) - IMDb』

 主人公はウォール街の投資会社に勤めるパトリック・ベイトマン。裕福な家の出で社会的な地位があり、服やレストランや酒やエクササイズや音楽やボディソープにも造詣の深い筋肉ムキムキマッチョマンの二枚目、所謂ヤッピーであり、例えて言えば若かりし日のドナルド・トランプのような男、早い話が俗物である。

 彼はその社会的地位を保つため、極めて社交的な性格を装い同僚たちと俗物らしい空虚な会話と虚勢の張り合いを続ける、ある種のノブレス・オブリージュに憑りつかれている一方で、肥大化していくある欲求に抗えないでいた。殺人欲求である。

 ある日、内心見下していた同僚のポール・アレンがルックス・学歴・身だしなみの三拍子のみならず、卓抜した美的センスも持ち合わせていたことを知って嫉妬の炎を燃やし始めたベイトマンは、ついに殺人の衝動を抑えきれなくなり、路地裏で物乞いをしていたホームレスとその飼い犬を殺害する。

 その翌日、ベイトマンはアレンが自身をマーカスという人物と勘違いしているのをいいことに、首尾よく食事の約束を取り付けた。さて約束の当日、あまり流行ってなさそうなレストランに連れて来られたアレンは皮肉を言い、あろうことかマーカス(実際にはベイトマン)の目の前でベイトマンの陰口を叩き始めてしまう。如才なく酒を勧め、アレンをぐでんぐでんに酔い潰れさせたマーカス(ベイトマン)は自分のアパートにアレンを連れ込み、その頭を斧で叩き割った。死体を詰めたバッグをタクシーに運び込もうとして知り合いに目撃されたり、アレンの親族が雇った探偵が聞き込みに来たりするも、ベイトマンはしらを切り通す。

 さて理性のタガが緩み始めたベイトマンは、アレンの留守電に「ロンドンに行く」という嘘の旅程を吹き込んでおざなりな隠蔽工作を図ったりする一方で、自室に言葉巧みにモデルを連れ込んでバラし首を冷凍保存したり、アレンの名を騙って買った娼婦をアレンのアパートでバラしたりなど、凶行が無秩序化していく。

 ある日、猫を射殺しようとしたところを見咎められたベイトマンは、その代わりとばかりに目撃者を射殺。ついにマッポに追われる羽目となり、派手なドンパチで大勢死人を出した末に、顧問弁護士へ電話をかけて留守電に犯行の一切を自供する。

 翌朝、何もかもが吹っ切れてしまったベイトマンは憑き物が落ちたような顔で颯爽とアレンのアパートへ向かうが、そこには血溜まりも死体達の姿もなく、ただリフォーム途中の部屋があるだけだった。部屋のオーナーらしき女性にアレンの所在を尋ねるも、不審がられて追い出されてしまうベイトマン。

 理解が及ばないながらも、いつものように同僚達とテーブルを共にしたベイトマンは、昨日電話をかけた弁護士を見つけ、彼に近付いて再び犯行を自供したが、悪趣味なブラックジョークだと思われて取り合ってもらえない。あまつさえ弁護士はベイトマンをデイビスという人物と勘違いしている始末である。

 それでもアレンはロンドンになど行っていない、自分がアレンを殺したのだからと主張するベイトマンだったが、弁護士はそんなはずはないと頑なに反論する。その根拠をベイトマンが問うと、弁護士は「アレンとロンドンで食事した」と答えたのだった。

 つまり、この映画はアレンや弁護士のようなキャラクターで表現されるヤッピー達の「他者への無関心」というファクターの上に、「果たしてベイトマンはシリアルキラーなのか?はたまた全てが彼の妄想の出来事なのか?」というどちらにも転びうるストーリーを乗せたことで、一筋縄ではいかないサスペンスと重厚な余韻を齎すなかなか練られた作品なのである。


 一通り前作のあらすじを説明したところで、本作の話に戻ろう。

 本作イチの衝撃は、スタート直後にやって来る。なんと主人公が、パトリック・ベイトマンの殺戮をすんでのところで生き延びた生存者だと告白するのだ。

 私もこれには椅子の上でひっくり返った。先述のように、前作の魅力の一端は「パトリック・ベイトマン、クロかシロか?」という部分にも存在していたからだ。生存者がいるということは殺人事件が確かに起こったということであり、つまりベイトマンは確実にクロになってしまう。

 しかも、ベイトマンがベビーシッターを凌辱している間に縛を解いた少女時代の主人公が後ろからアイスピックで一突きすることで、何故かベビーシッターもベイトマンも仲良くあの世行き。少女時代の主人公はするりとベイトマンの部屋を抜け出して家に帰り、ベイトマンの死の真相は謎のまま……ってちょっと待て。いくら無防備な背中を狙ったとはいえ、12歳の少女がアイスピックのような尖状無刃器の一突きで大人を殺せるものかあ?

 実際のところ、前作との関わりらしい関わりといえばここでベイトマンの名前と姿(勿論、演じているのは前作のクリスチャン・ベールではない)が出てくる程度でしかないので、本作を『アメリカン・サイコ』の続編と呼んでいいのかは甚だ疑問である(これも後述するが、多分続編と呼んでいい代物ではない)。既にご都合主義が香るが、本作の破綻っぷりはまだまだこんなものではない。なんたってここまでで2分少々、まだ80分以上が残っている。さあお立合い。

 ベイトマンを屠ったことでそのテの快感に"目覚めて"しまった我らが主人公・レイチェルは、シリアルキラーを追い詰めることこそ自身の宿命と定め、犯罪プロファイリングを学ぶべく国内屈指の大学に進学する。ベイトマン事件を担当したFBIのプロファイラーで、現在は行動科学の教鞭を執るスタークマン教授の下で勉学に励む日々だ。高校時代の成績は勿論オールA、大学でも真面目に講義を受け、頭が悪くなるから煙草もやらない──ここまでの経緯が、全てレイチェル本人の独り語りによって説明される。

 本当に全てだよ、全て。主人公がやることなすこと全て自分で解説してくれるワンマンショーなので、ある意味非常に分かりやすい作りである。問題点を挙げるとすれば、この演出は死ぬほど安っぽく、ナルシシズムが鼻につく語りにはイライラさせられるということだけだ。

 実は前作も全編を通じてベイトマンの主観で話が進んでいたのだが、自身の動機や手段について解説するモノローグが入ることはほぼなかった。多くを語らないことで、鑑賞者は「ベイトマン自身にももう凶行を止めることが出来ないのだ」と理解する。そしてベイトマンというピントのズレたレンズを通して全てを追いかけて来たために、ラストシーンでのちゃぶ台返しが効いてくるのである。制作陣は前作ちゃんと観た?まあ、観てはいないのだろうな。本作は随所に見え隠れする志の低さを隠し切れていないのだから。

 さて我らが饒舌な主人公レイチェルによれば、スタークマン教授の教務助手になれれば確実にFBI捜査官養成校、クワンティコに入局出来るらしい。成績には自信があるが、無論成績だけが全てではない。

 レイチェルにはライバルがいた。大金持ちのドラ息子で、大学すらも金の力で入ったブライアン。教授と寝ているらしいカサンドラ。成績優秀で幾度となく討論してきた(が、レイチェルが全勝してきた)キース。レイチェルの頭の中では、自身の合格はもう殆ど既定路線だった。

 意気揚々と教務助手に応募するため事務局へ行ったレイチェルはしかし、1年生であるという理由で出願を拒絶されてしまう。助手に出願できるのは、原則として3年生からだというのだ。レイチェルは教授に特別に許可された(無論嘘八百である)と食い下がるが、取りつく島もなく袖にされてしまった。

 これはあくまで規則上そうなっているという話であり、別に意地悪をしているとか差別だとかでは全くない。全くないのだが、既に(後述の事情で)理性のタガが緩んでいるレイチェルは、出願を突っぱねた事務員のおばちゃんを自宅までつけて撲殺してしまう。

 この殺人が如何にも唐突で、取って付けた感がすごいので、本作はとりあえず観客に意外性を見せつけることには成功している。無死2、3塁の場面で1塁に牽制球を投じるような意外性だが……。

 レイチェル曰く、自分がFBIに入れば何人ものシリアルキラーを挙げられる。その社会正義を実行するためならば、数人の障壁を始末したところで何の問題があろうか?ということらしい。如何にもチープでありがちなサイコパスの屁理屈である。大体「出願を希望しているのに、その応募資格を確かめておかないなんてことがあるか?」とか「おばちゃんを始末しても規則が変わる訳じゃないだろ」とも思うが……突っ込んだら負けである。ここ、まだ序の口ですよ!

 助手になるという悲願のためブレーキが外れた暴走特急、レイチェルは次々と"障壁"達を排除しにかかっていく。

 まずレイチェルの毒牙にかけられたのはブライアン。レイチェルが出願を諦めれば7桁支払うと持ち掛けたのがまずかった。レイチェルに色仕掛けで部屋に連れ込まれ、引き伸ばしたコンドームで首を絞められてキュウ。

 うわあ、嫌な死に方だなあ。世の男性諸君の「こんな死に方はイヤだ!Best10」があるとすれば、堂々のランクインを果たしそうな情けない死に様である。本当に伸ばしたゴム程度で成人男性の首を絞めることが出来るかどうかはさておき……。

 凶行の合間に、レイチェルは何故かカウンセリングに通っている。何ら良心の呵責も感じていないのにも関わらずである。レイチェルが自発的にカウンセリングを受ける、というのも「レイチェルがどういう奴なのか明示しておきたい」という動機が透けて見える如何にも唐突で投げやりな展開だが、担当精神科医のダニエルズ先生はレイチェルが語るテンプレートなサイコパスっぷり(と、スタークマン教授に対する崇拝)にブルってしまい、旧知の仲であるスタークマン教授に電話を入れた。

「守秘義務があるから名前は言えないが、君の学生にヤバいのがいるぞ!」と親切にも警告してくれるダニエルズ先生だったが、何故かスタークマン教授は自分に首ったけになっているカサンドラのことと誤解してしまう。ああダニエルズ先生、どのみちスタークマン教授にお電話した時点で守秘義務違反なのだから、なぜイニシャル程度でも名前を出さなかったのか。このダニエルズ先生の不可解にも思える保身が、ちっとも笑えないすれ違いコントへと繋がっていく。

 ちなみに、これは最早お約束とも言える展開だが、ダニエルズ先生の電話はレイチェルに盗み聞きされており、 これでダニエルズ先生は無事(?)レイチェルの警戒リスト入りを果たしてしまうのだった。

 次にレイチェルの毒牙にかけられたのはカサンドラ。レイチェルが崇拝するスタークマン教授と寝ているのは、どう考えてもまずかった。加えて教授の助手に内定したことを親友のつもりのレイチェルに嬉々として語ってしまった彼女は、学部のパーティから連れ出され首吊りに見せかけられてキュウ。レイチェルは天井からぶら下がる彼女の胸に「彼の愛が足りなかった」と書いて偽造した遺書を貼り付けておくのも忘れない。

 ここで何故かレイチェルは再びダニエルズ先生の元を訪れ、最早お馴染みのイライラさせる独り語りを一方的にぶつけた後、勝手にカウンセリングを打ち切ってしまう。ああ、不憫なダニエルズ先生。このシーンはダニエルズ先生というキャラクターがどのような存在なのかをレイチェルの口を借りて語らせる(曰く「的確な分析よ」!)以上の意味を持たず、繋がりも唐突かつ不器用な印象を覚える。まあ、ぶっちゃけ本作はそういうシーンばかりなのだが……。

 最後に毒牙にかけられたのはキース、ここまでくると犯行は大胆そのもの。大学図書館で自習する彼を後ろからアイスピックで一突き。 そんな静かで衆目のあるところで殺ったら流石にバレるだろ、と突っ込みたくなるが、それは野暮ってえもんだ。

 一方、ここまで来てやっとカサンドラの欠席に気が付いたスタークマン教授は、寮の部屋を訪れて天井からぶら下がる彼女とご対面。焦りまくった教授は自分の学生と寝ていた証拠を隠滅し、ダニエルズ先生に怒りのお電話を掛ける。

 教授は勿論ダニエルズ先生が警告したのはカサンドラのことだと思い込んでいるので、まともな精神分析をしなかったとダニエルズ先生を一方的に叱責し、ダニエルズ先生が二の句を継ぐ暇もないまま精神安定剤の処方を頼んで電話を切ってしまう。

 その翌日は春休み前の最終日、つまりレイチェルが待ちに待った来年度の教務助手の発表日である。レイチェルは無論自分が選ばれるものと思い込んでいるが、傷心のスタークマン教授は長期休養を取ってしまい、当然教務助手は採用なし。鑑賞者はそらそうだろうと誰もが思うが、頭のネジが緩んでいるレイチェルには通用しない。教授の許へ押しかけて色仕掛けを試みるが、浅はかにもカサンドラの服やネックレスを身に着けていたために失敗してしまう。

 捨て鉢になったレイチェルは自身がベイトマン事件の生き残りであることを告げ、犠牲になったベビーシッターのクララが教授のかつての愛人だったことを問い詰める。精神安定剤とウィスキーでフラフラになった教授は更に衝撃を受け、そのまま窓から転落してしまうのだが……この「クララが教授の愛人だった」という事実は、特に前振りらしい前振りもなく、ここにきていきなり語られるため、鑑賞者のほうも面食らってしまう。これだけ全編を通じて、主人公が自身の動機や正当化の理屈に関してベラベラベラベラ腹立たしいお喋りを続けて来たのにも関わらず、である。

 曰く、FBI時代のスタークマンが愛人のクララにベイトマン事件の資料を見せてしまったことで、クララがベイトマンに一目惚れしてしまい、男を乗り換えるためにわざとベイトマンの毒牙にかかりに行ったというのだが……ぶっちゃけ、そんなものは自業自得としか思えない。

 天下のFBIが容疑者リストに載せているのだから、ベイトマンが危険な男である可能性の高いことくらい当然理解が及びそうなものである。ましてや彼女は12歳になる少女のレイチェルを連れてベイトマンと会っているのだ。いくら何でも常軌を逸している。常軌を逸した行動をさも意外な真実のように語られたところで、鑑賞者は憮然とするより他にない。

 百歩譲って、クララの死に責任を感じたスタークマンがFBIを辞して教員になることまではまだ理解が及ぶが、それを今更になって事件の生き残りを名乗る妄想狂の女学生にベラベラ捲し立てられたところで、そこまで衝撃を受けるものだろうか?

 ベイトマンが背中を刺されて死んでいる以上、現場には最低でももうひとり人物がいたことくらい分かるだろうし、その可能性をスタークマンが見逃していたとも思えない。それにレイチェルは部屋を抜け出てくるところを近隣の住民に目撃されている。普通の捜査機関はその辺りを真っ先に洗うだろうし、クララが当日ベビーシッターをしていたのならレイチェルにも捜査の手は及ぶはずだ。レイチェル本人は事件に関して「黙っていた」と言っているが、本人よりも状況証拠のほうがずっと雄弁である。

 つまり、ことの発端となるベイトマン事件があまりにもご都合主義的なのだ。捜査機関が信じられないまでの無能さを持っていない限りこういう展開にはならないはずで、いくらフィクションとは言え、全くあり得そうもない仮定の上で話を進められるとチープさばかりが際立ち、鑑賞者はうんざりしてしまう。

 それに、レイチェルの目的はスタークマン教授に気に入られて教務助手の座を手に入れることではなかったのか?ただFBIへ入局したいだけなら、他になんぼでも方法があろう。スタークマン教授の在籍する大学に入ったのは、教授へ何らかのこだわりがあったからだと見るのが普通だ。実際レイチェルはここまでスタークマン教授への愛情をくだくだしく語ってきていたのだし、教授が休職してしまったら用済みとばかりに始末してしまう展開では、プロットが腸捻転を起こしている。

 一部始終を目撃していた用務員もついでにバラしたレイチェルは、教授の亡骸を車に乗せて寮に帰ろうとするのだが、運転が荒いばかりに途中で警備員にも見咎められてしまう。当然この不幸な警備員もバラされるわけだが、もうここまで来ると無差別殺人である。レイチェル本人はことある毎に用意周到に計画(殺人)を実行して目的に近付いていくという姿勢を自慢するが、実態とは全く合致していない。用務員の亡骸に至っては、無造作にゴミ箱に捨てているだけである。凶行が露呈しない方がおかしいのだ。ご都合主義であるなあ。

 一方、スタークマン教授と連絡が取れないダニエルズ先生の下に、またもレイチェルから予約の電話がかかってくる。自分からカウンセリングを打ち切っておいて、何故今更……と思うが、これはすれ違いコントの前振りなのであまり深く考えてはいけない。スタークマン教授からの連絡でレイチェルが死んだものと思っていたダニエルズ先生は再び教授に電話を掛けるが、当然留守電に繋がるだけだった。 

 さて、一通り暴れまわって高飛びの準備を始めているレイチェルの許には田舎から両親がやって来る。母親の誕生日を祝うためだ。両親はレイチェルの部屋に入るなり臭いと言い出すが、レイチェルはトイレが詰まっただのなんだのと言い逃れる。ここまで来てしまえば鑑賞者にはもう臭いの正体は自明なのだが、本作はまだまだ展開をもたせる。こんなにご都合主義に塗れているのに、更に尺稼ぎまで行う姿勢にはもう脱帽だ。

 そのレイチェルが両親のために予約した店と、ダニエルズ先生が母親のために予約した店がたまたま同じだったのが運の尽き。二人は再び顔を合わせてしまった。ギクシャクするダニエルズ先生を尻目に、レイチェルはそれとなく彼の母親を盾にとって牽制するが、ダニエルズ先生もダニエルズ先生で、レイチェルを呼び出して「君は首を吊って死んだはずだ」などとぶち上げる。見るからに生きている相手に、死んだはずだもクソもへったくれもあるものか。しょうもないすれ違いコントの応酬に、鑑賞者は欠伸を嚙み殺す……。

 やっとスタークマン教授のオフィスを訪れたダニエルズ先生は、荒れた室内を見て事件の匂いを嗅ぎ取り、その足で保安官事務所へ駆け込む。教授の捜索願を出そうとしたダニエルズ先生だったが、保安官からこの1年で教授を含めて3人も失踪者が出ていることを聞かされる。ひとりは事務員のおばちゃん、もうひとりはレイチェル・ニューマンその人だった。

 つまり、こういうことなのだ(鑑賞者の大半はもう気が付いているだろうが……)。レイチェル・ニューマンは孤児であったために、我らが主人公に狙われた。入学早々に「キュウ」されて入れ替わられてしまったのである。

 当然友人達から捜索願が出されたが、無能な保安官は部屋を訪れた際に出てきた我らが主人公に「君がレイチェル・ニューマン?」と尋ねたために、ことを察した我らが主人公にまんまと騙されてしまったのだ。なるほど、この世界の捜査機関は無能であるなあ。それにしたって、顔写真くらい確かめたりしないのか。

 我らが主人公の部屋が臭うのも当然のことで、彼女は本物のレイチェル・ニューマンの亡骸とずっと同居していたのだ。ということは、おそらく我らが主人公は大学に合格すらしていない。在籍者の数が合わなくなるからだ。なんだよ、高校時代の成績オールAだったんじゃないのかよ。

 スタークマン教授の亡骸とレイチェルの亡骸、大量のガソリンとレンガ1片を車に積んだ我らが主人公は教授の別荘へと向かうが、その途中で保安官達とダニエルズ先生の乗ったパトカーに発見されて追跡される。

 もっ……さりとしたカーチェイスが展開された後、一旦追跡を振り切った我らが主人公は川縁のガードレールに教授の亡骸を放置し、それを見つけたダニエルズ先生もろとも轢き殺さんばかりの勢いで車ごと衝突。車はガードレールを突き破り、川へと転落して爆発炎上するのだった。

 2年後、クワンティコのFBIアカデミーでレイチェル事件について講演するダニエルズ先生だったが、聴衆の中に我らが主人公を見つけて色を失くす。彼女は再び正体を偽り、エリザベス(スタークマン教授の最後の教務助手)と名乗ってぬけぬけとクワンティコへやってきていたのだった……。

 レンガを車に積み込んだ時点で全て想像がついてしまう、あまりにも捻りのないオチだが、そういう面白さを本作に求めるのがそもそも間違いなのだろう。「死体の数が合わないし、よしんば本物のレイチェルの亡骸と間違えたとしても、本物のほうはグズグズに腐ってたんだから、健康体だった偽物が死んでないことはすぐ分かるだろ」などと言ってはいけない。大体、本作は一事が万事こんな調子で、よく考えてみなくとも全てが明示的に破綻しているのだ。前作で破綻していたのは主人公の精神だったが、本作で破綻しているのは脚本のほうだ。突っ込むだけ無駄である。

 もっと言ってしまうと、実は本作は元々『アメリカン・サイコ』とは何ら関係のない企画であったらしい。制作途中でいきなり『アメリカン・サイコ』の続編として発表することになり、脚本が大幅に書き換えられたのだ。なるほど、道理で底が破れているわけである。逐一触れると長くなるので書かなかったが、本作には「そこそこの存在感を醸し出しておきながら、ストーリーにはほぼ絡まない」というチェーホフの銃的観点で見れば完全に赤点の脇役なども複数存在している。その存在も制作上のゴタゴタが絡んでいたとすれば納得だ。溜飲は全く下がらないが。

 前作の原作者であるブレット・E・エリスもタイトルを貸しただけで、本作にはノータッチだったという。彼は後に本作を批判しているが、この出来を考えれば当然というものだろう。何なら主演を務めたミラ・クニス本人も、本作をキャリア上の汚点と考えているそうである。

 本作は典型的な「生まれてはいけなかった続編」である。そもそもミステリとして見れば少々アンフェアな仕上がりである前作に、続編を作ること自体が不可能だと言わざるを得ない。往々にして、アンフェアな作品はストーリーの仕掛けそのものが命である。続編を観るにあたって当然仕掛けが分かっている鑑賞者達を、それでも納得させる力に満ちたストーリーを作るというのは、並大抵のことではないのだ。

 その不可能に無謀にも斬り込んだ本作は、なんとというかやっぱりというか、無事に爆発炎上した。志の低い作り手達が、おざなりな仕事をしているのだから当然だ。英雄的とは到底呼べない蛮勇の末に生まれてきたのが本作だったわけで、本邦でビデオスルーになってしまったのもむべなるかな。残念でしたなあ。

2025年2月24日月曜日

ゲーム機の中のゾウ

 以前にも雑文で軽く触れたことがあるが、私はTVゲームが原則禁止のご家庭に育った。家中を引っ搔き回しても、ゲームらしいゲームはキーリング付きの小さなゲーム機で遊ぶテトリスくらいしかなかったのだ。

 ある日のこと、一体何の気まぐれだったのか今となっては定かではないが、酔って帰宅した父がニンテンドー64を私達に買い与えたことにより、TVゲームの禁は破られた。「ゲームは1日30分」を金科玉条として。

 ここで当時のゲームの造りをご記憶の諸兄は少し思い出してみて欲しいのだが、かつてのTVゲームは今ほど簡単にポンポン中座出来るものではなかった。

 そもそもファミコン時代初期にはセーブという概念が存在せず、スーファミ時代に花開いたバッテリーバックアップはセーブデータがびっくりするほど簡単に消えた。やがてソニーがゲーム機本体に差し込むメモリーカードを採用しても、任天堂(と、セガ)はコントローラーにアタッチメントとして差し込む外部記憶装置を採用し、その結果、基本的にゲーム機の扱いが粗い全国のガキ共は、またしてもセーブデータの消失に泣かされることになったのである。特にアトラスとコナミのゲームソフトのデータはよく消えた。幼心にコントローラパックが悪いのかと思い、少ない小遣いを叩いて買い替えた新古品のコントローラパックにセーブした『がんばれゴエモン ネオ桃山幕府のおどり』のセーブデータも2日後に消えた。

 加えて、当時のゲームはカセットやROMの記憶容量の制約もあったのか、セーブポイントが限られていた。 まさかこの雑文を読む諸兄らがセーブポイントという概念を知らないほどピチピチであるとは思えないが、一応説明しておくと、かつてのゲームは基本的に限られたマップや特定の進行状況でなければセーブが行えない仕組みだったのだ。だから昨今のまともなゲームではもう珍しくもない、クイックセーブ機能を初めて目にした時はかなり驚いた記憶がある。驚いたし、同時に信用出来なかった。私は未だにクイックセーブ機能にうっすら不信感がある。

 私の鮫のような猜疑心に塗れた性根はさておき、特定の条件下でないとセーブが出来ない、という造りでは、必然的にゲームの最少プレイ時間がある程度の長さになってしまう。

 かつて高橋名人(そういうプロゲーマーがいたのだ)は「ゲームは1日1時間」と発言し、所属していたハドソン(そういうゲーム会社があったのだ)で役員会議が開かれるほどの物議を醸したが、我が家ではその半分の「ゲームは1日30分」だったのだからこれはたまったものではない。

 思うに当時のゲームは、高橋名人の例の発言を基にしたのか、1時間程度のプレイ毎にセーブが出来るような造りになっていた節がある。我が家の30分という時間制限が一体何の根拠があって設定されたものか私は今でも知らないが、それはおそらくゲームというものを知らない人間が決めた身勝手な線引きだったということはここで断言しておきたい。

 私など根が臆病なので、例え両親が不在でも時計をチラチラと見ながらゲームをプレイし、20分を過ぎた頃からはもう尻が落ち着かず、思わずTVの前で正座してしまうほどだった。しかし私がどんなに正座で誠意を見せたところで、ゲームを中座出来るポイントまで到達出来ないのだから仕方ない。タイムリミットが迫ればストレスから凡ミスも増え、それでまたセーブポイントが遠ざかる。全く悪循環である。

 私が何に怯えていたのかというと、端的に言ってしまえば両親の癇癪であった。父は自らが買ってきたもののくせにニンテンドー64を雪の降る屋外に放り投げたし、母は電源が入ったままのニンテンドー64のコンセントプラグを引っこ抜き、勢いもそのままに本体は勿論全ての周辺機器をゴミ袋に詰めたことがある。私ことやっと物心がついたかどうかの年頃のガキと、兄こと幾分年長のガキが宥めたりすかしたりして丁寧に扱っていたゲーム機を、彼らはまるで路傍の石のように扱った。そのためにまたセーブデータは消えた。

 そのようなご家庭で育ったわけであるから、私はゲームというものが全般に下手だった。習熟の機会と十分な練習時間に恵まれないのだから当然だ。また、これは流石に話が脇道へ逸れ過ぎるために仔細を書くことは控えるが、実は我が家は友達を呼ぶことも全面禁止であり、友達の家へ遊びに行ったり、友達とどこかへ出かけたりすることも許可制(無論、許可は滅多に下りない)という、ちょっとした閉鎖病棟のような家だったのである。

 勿論全てが育ちのせいであるとまでは言わないが、私がそのために学校で孤立したのは動かしがたい事実だ。小学校6年間で、友達の家へ遊びに行ったという記憶は両手で足りる程度しかない。況や我が家へ友達を呼んだ記憶など、片手で数えても指が余るほどだ。また、通っていた学童保育に、同学年で同性の子供がひとりしかいなかったのも不運だった。その子も2年後には学童保育をやめてしまい、私はギャングエイジを迎えてもギャングになれなかったのである。

 ここまで根気強く読んできた諸兄らは、あまりに前時代的な話の応酬に私の年頃を訝しむかもしれない。別段隠すことでもないし、ゲーム機の話から分かる人には分かるだろうが、これでもデジタルネイティブと呼ばれる世代の古株の方である。私は別に若くもないが、それほど年老いてもいないのだ、実際。

 こうして孤独を募らせた私と違い、兄には広めの交友関係があった。同じ閉鎖病棟で育っておきながら何故こんなにも違うのかと思うが、彼にはギャングエイジの頃にしっかりギャングになれた幸運があったからだろう。兄も私と同じ学童保育へ通っていたが、兄の世代は特に頭数が多かったのである。必然的に交友関係は広くなる。

 今思えば不思議な話だが、私は友達と遊ぶことが厳しく制限されていたのに対して、兄へのそれは幾分か緩かった。年齢的な都合もあるのかもしれない。兄は窮屈な我が家にいることより友達の家で思う存分ゲームを遊ぶことを選び、私は家庭内においても、ゲームに親しむきっかけを落っことしてしまったのである。

 当然、兄は私よりもゲームというものに習熟し、私はと言えば、兄と対戦すれば勿論負け、自分ひとりでプレイしたところでうまくいかないので、必然的に兄がプレイしているのを眺めることが多くなった。兄に付き従って兄の友人達と共に遊ぶ機会に恵まれても、彼らのゲームプレイを眺めることを自ずから選んでいたのだから泣けてくる。

 

 私の人生にゲームに親しめる素地というものが存在しなかったことは、これで十分証明できたのではないかと思う。私とゲームの距離がある程度縮まったのは、私がひとり暮らしを始める年頃になってからだ。

 誰しも初めてのひとり暮らしには妙な高揚感があるもので、それは勿論私とて例外ではなく、気が付くと私はアパートから3駅行った町で中古のゲームソフトを買っていた。

 私はふわふわとした頭のままアパートに帰り、ゲームをインストールして、そして現実に引き戻された。ゲームがあまりにも難しいのである。

 ゲーム機は私がTVの前で正座していた頃から世代を重ね、現実と見紛うばかりのグラフィック、親切なチュートリアル、爽快なゲームプレイを保証してくれるものになっていた。少なくとも、私はそう思っていた。

 しかし、実際目の前で動作する超メジャータイトルは、私にはあまりにも難しすぎた。敵の攻撃が避けられない。自分の攻撃が入らない。親切なチュートリアルであるはずのミッションで2回ゲームオーバー画面を見ることになるとは、流石に私も予期していなかった。難易度設定は既にVERY EASYである。

 万人にとって難しいレベルのものなら、ここまでスマッシュヒットはしなかったはずである。ここから導かれる結論はひとつ。つまり、私のゲーム偏差値が低すぎるのだ。

 私は唖然とした。いつの頃からか、閉鎖病棟のような家で育った事実を言い訳にして、ゲームという娯楽にも、またそこから生まれる交友の輪を広げることにも見切りをつけていたことを今更のように思い知った。

 文明社会には、万事において「最低これくらいは出来なければならない」というラインが確実に横たわっている。 そのための義務教育であり、そのための労働の義務であるわけだが、そのボーダーは娯楽であるはずのゲームにも横たわっていた。

 ゲームが上手いか下手かなど、幸いにも生きていく上では大した差ではないし、見た目からは判断がつかない。私が人前でゲームを遊ばない限り、露見することはないのである。しかし一度「自分には欠けているものがある」と自覚してしまうと、世界から白眼視されているような気になるのもまた人間の性だ。

 私は焦りに似た感情を覚えた。本来であれば学業や就職活動に覚えるべき焦りがこんなところでやって来るあたりが私のダメ人間っぷりを端的に表している気もするが、実際焦ってしまったのだから仕方ない。

 私は少し生活に余裕が出来ると中古のゲームソフトを買う生活を始めた。いくつかのメジャー級タイトルをプレイしたが、あまり自分の技量が上達したという実感はなかった。そもそも昨今のメジャー級タイトルは「クリアしてストーリーラインを追ってもらう」ことが目的になっていて、ゲームとしての難易度はあまりシビアに作られていない気がする。それでもゲームオーバーになる私のような輩がいるので、そういう方面への進化は当然と言えば当然なのだが……。

 その後紆余曲折あって実家に出戻り、無職になった頃から、高校時代の友人達とゲームで遊ぶことが多くなった。私自身はそれなりに研鑽を積んだつもりだったし、その頃にはぼちぼち自信もあったのだが、それは再び打ち砕かれることになる。それほどプレイ時間の変わらないはずの友人達の方が、どう考えても私より立ち回りが上手いのだ。

 人には向き不向きがある。それはゲームのジャンルにおいても、そもそもゲームという娯楽自体に関してもそうだろう。 私はそう自分自身に必死に言い訳したが、それでは私に向いているゲームとは一体何なのだ。

 

 有難迷惑にも、インターネット上には軟派な性格診断から派生した「ゲームジャンルピッカー」とでも言うべきサービスが掃いて捨てるほど転がっている。この雑文を書くにあたっていくつかやってみたが、それらのサービス曰く、私にはRTSやアクションゲームの類が向いているらしい。

 RTSというと『Hearts of Iron 4』をプレイしたことがあるが、 これは散々だった。そもそもゲームシステムが複雑すぎて覚えきれず、RTSの華であるはずの戦争がひとたび始まると、前線が拡がり過ぎてあっという間に領土が溶けていくのである。ならば平和外交でうまく立ち回ってやろうと第三帝国を民主化しようとすると、ファシストの豚共と泥沼の内戦に突入してしまい参った。やっとのことでドイツ全土からナチズムというガンを駆逐し、ドイツ主導による平和的な東欧共栄圏を築き上げようとすると、トチ狂った英仏同盟がドイツ憎しのあまり平和憲法を持つ民主主義国に攻め入ってくるのである。とてもじゃないがやっていられない。

 アクションゲームに関しては、ここまで来ればもう改めて書くまでもなく、大の苦手である。どのくらい苦手かというと、颯爽とスタートしたマリオが1-1のクリボーにやられるレベルだ。なおこの時横にいた友人にぶつけられた「ファミコン初めて触るおばあちゃんでも、わざわざクリボーで死にに行ったりはしない」という言葉は、おそらく私の人生において最も切れ味の鋭い悪口であった。

 インターネット上に転がる軟派な性格診断というものがどれほど当てにならない代物なのかが白日の下に晒されてしまったわけだが、実際のところ、私が今遊んでいるゲームはほぼシミュレーションゲームばかりである。一方でシミュレーションゲームの超メジャータイトルである『Cities: Skylines』は買ったはいいが積みっぱなしであるし、これもまた超メジャー級の遊園地設計シム『Planet Coaster』などは、そもそも興味がない。

 私が今やっているのは、ひたすら自動車を整備するゲームだけである。国境警備をするゲームも大変面白く遊んだが、ある時アップデートでスコアを競うリーダーボードが実装されたために、心が離れてしまった。シミュレーションゲームを遊ぶのに、他人とスコアを競いたい者などいるのだろうか。もしいるとすれば、それこそシミュレーションゲームに向かない人なのではないか。

 他にメジャーどころのタイトルで言うと、パワプロ2024も発売初週に買って遊んでいる。これがまたバグ塗れの酷い代物で、発売から半年以上経った現在でもちょっとおかしな挙動が残っている。尤も私は基本的にマイライフしか遊ばないので(以前までは栄冠ナインも遊んでいたが、今作では仕様変更の犠牲になってゲームバランスが一際おかしくなり、アップデートを重ねた現在でも前作の完成度には遠く及ばないので遊ばなくなってしまった)、あまり気にならない。特に何の目的もなくバットを振ったり球を投げたりしているので、気が付けば球史に残る偉大な選手が爆誕してしまう。

 これらのゲームに共通するのは、「自分で考えなくてもよい」という点だ。ゲームの仕様やルールに従い、ただ上から下へチェックリストを辿っていく。AをBの箱に入れる。CにDという処理を行う。それだけでゲームが進んでいく。これがとても楽しい。

 しかしその一方で、これらのゲームを退屈だと思う気持ちも僅かながらある。シミュレーションゲームというのは多かれ少なかれこのような造りになっているので、目新しさがないというのもあるのかもしれない。少なくともスリルはない。尤もシミュレーションゲームにスリルなどあってはならないのだが。

 あまり一般的とは言えない育ちのせいで、私はゲームと親しめなかった。基礎、素地となる部分がないので、いくら練習してもなかなか上手くならない。他のユーザーと対戦すれば力量の差が露骨に表れ、私の卑屈な劣等感が刺戟される。この世にゲームは星の数ほどあり、一方で私の時間は有限だ。つらい反復練習を行うより、まだ見たことのないものを見たい触れたいと思うのは自然な欲求だろう。所詮ゲームは娯楽なのだから。

 そんな私に残されているのが、チェックリストを辿るだけのシミュレーションゲームである。新奇性こそないが、長く嚙み続けられる。娯楽としては大味だが、長く遊べるのは間違いなく長所だ。創作においても設定を詰めたがる私にとって、ルーチンワークに彩りを添えるバックボーンやディテールの妄想など朝飯前である。却ってゲームそのものが粗削りであるほうが、私の妄想が詰められる余白が広くなっていい。なんGでどんな蔑称をつけられるか妄想しながら遊ぶマイライフもオツなもんである。

 私がシミュレーションゲームを遊ぶのは、とどのつまり他に出来るゲームがないからだ。本音を言えば、シミュレーションゲーム以外のゲームも遊んでみたい。メジャータイトルはやはり面白そうに思えるし、インディー系のシミュレーションゲームは正直どれも同工異曲になりがちであり、そのフィーリングも似たり寄ったりだ。

 だがそれは結局のところ、私の身の丈に合わない願望である。クリボーで死んでしまうような、実は遊ぶより見ている方が楽しいプレイヤーを真に満足させられるゲームは、今後も出現することはないのだろう。全てのゲーム開発者はひとりの例外もなくゲームプレイヤーであり、当然ゲームは遊ぶ方が楽しいと思っているからだ。

  ゲームは遊ぶためにある。こう書いてしまえば当然に思えるが、それは即ち、私のような育ちの人間が取り残されるという事実の追認に過ぎない。

 

 "やらずにすむゲームはないか?"

 これは吉田戦車の4コマ漫画『はまり道』の、あまりにも有名な一節である。一度でもゲームを能動的に遊んだ経験のある人間ならいずれ到達する境地、遅かれ早かれゲームを遊ぶのが億劫になる瞬間というのはやって来る……と、プレイヤー自身の老いを嘆く文脈で引用されることが多い。

 しかし私のようなゲーム下手の人間から見ると、この言葉は少し違った意味を持つように思える。ゲームは遊びたい。しかし私自身の絶望的な技量のために、大抵のゲームは開発者が意図していなかったほどの難易度で私の前に立ちはだかることになる。

 私のように負け犬根性が染みついていると、壁は越えるものではなく迂回するものだという考えが支配的であり、所詮娯楽であるはずのゲームで敢えて刻苦する理由を見出せない。

 その一方で、私自身も創作者の端くれであるために、ある程度開発者の意図に沿って遊ばなければ不義理であるように感じるというか、開発者が越えるべき壁として用意したものをどうにか迂回しようとする行いは、丁寧に舗装された道を外れて花畑を踏み荒らすような露悪的な行為に思えてしまい、結果として絶望的な技量と創作者としての人倫との間で板挟みになってしまう。

 その点、やらずに済むゲームなら確かに安心だ。敢えて刻苦する必要も劣等感を刺戟されることも、自身の良心が悲鳴を上げることもない。真に快適なゲームプレイが約束される。尤もプレイはしないのだが。

 もしかすると、開発者もやらずに済むゲームを求めるようになって初めて、私と同じ視点に立つことが出来るのではないだろうか。文字通りやらずに済むゲームの形はまずあり得ない。しかし遊ぶ上で不快な思いをすることのないゲームはあり得るかもしれない。それこそが「やらずに済むゲーム」の実態であり、私が求め続けているものである。

 世のゲーム開発者達が存在すら知覚していない象限にも、ゲームが好きな者は蠢いている。彼らがその象限に住まう者達を今まで取り残して来た事実に自覚的である必要はない。その象限の存在を知覚してもらえれば済む話である。面白いゲームを面白く遊びたいとは言わない。私が面白く遊べるゲームが1本でも多くこの世にあってほしい、という願いがあるだけだ。