2025年5月17日土曜日

『アメリカン・サイコ2』映画評

『アメリカン・サイコ2』 (2002年-ライオンズゲート)

得点…31/100

(画像の出典:『American Psycho II: All American Girl (Video 2002) - IMDb』

 いやあ、これは酷い。久しぶりにこんな酷い続編を観て少し嬉しくなってしまっている自分がいることに驚くくらい酷い。本作を観た後であれば、あの世紀の大駄作『ハロウィン3』(1982年-ユニバーサル・ピクチャーズ)はまだ「TVチカチカで子供がデロデロするという奇想があったから面白かった」と躊躇いなく言えるレベルで酷い。ここまで酷いと、我々に許された行為はもうこりゃ参った!と脱帽すること以外にない。

 毎回警告しているが、私はネタバレには一切配慮しないので、ここから先を読み進める場合はそのおつもりで。 


 それでは本作が如何に酷いかを語る前に、前作(仔細は後述するが、これを前作と言っていいのだろうか?)『アメリカン・サイコ』(2000年-ライオンズゲート)のあらすじについて軽く触れておこう。

(画像の出典:『American Psycho (2000) - IMDb』

 主人公はウォール街の投資会社に勤めるパトリック・ベイトマン。裕福な家の出で社会的な地位があり、服やレストランや酒やエクササイズや音楽やボディソープにも造詣の深い筋肉ムキムキマッチョマンの二枚目、所謂ヤッピーであり、例えて言えば若かりし日のドナルド・トランプのような男、早い話が俗物である。

 彼はその社会的地位を保つため、極めて社交的な性格を装い同僚たちと俗物らしい空虚な会話と虚勢の張り合いを続ける、ある種のノブレス・オブリージュに憑りつかれている一方で、肥大化していくある欲求に抗えないでいた。殺人欲求である。

 ある日、内心見下していた同僚のポール・アレンがルックス・学歴・身だしなみの三拍子のみならず、卓抜した美的センスも持ち合わせていたことを知って嫉妬の炎を燃やし始めたベイトマンは、ついに殺人の衝動を抑えきれなくなり、路地裏で物乞いをしていたホームレスとその飼い犬を殺害する。

 その翌日、ベイトマンはアレンが自身をマーカスという人物と勘違いしているのをいいことに、首尾よく食事の約束を取り付けた。さて約束の当日、あまり流行ってなさそうなレストランに連れて来られたアレンは皮肉を言い、あろうことかマーカス(実際にはベイトマン)の目の前でベイトマンの陰口を叩き始めてしまう。如才なく酒を勧め、アレンをぐでんぐでんに酔い潰れさせたマーカス(ベイトマン)は自分のアパートにアレンを連れ込み、その頭を斧で叩き割った。死体を詰めたバッグをタクシーに運び込もうとして知り合いに目撃されたり、アレンの親族が雇った探偵が聞き込みに来たりするも、ベイトマンはしらを切り通す。

 さて理性のタガが緩み始めたベイトマンは、アレンの留守電に「ロンドンに行く」という嘘の旅程を吹き込んでおざなりな隠蔽工作を図ったりする一方で、自室に言葉巧みにモデルを連れ込んでバラし首を冷凍保存したり、アレンの名を騙って買った娼婦をアレンのアパートでバラしたりなど、凶行が無秩序化していく。

 ある日、猫を射殺しようとしたところを見咎められたベイトマンは、その代わりとばかりに目撃者を射殺。ついにマッポに追われる羽目となり、派手なドンパチで大勢死人を出した末に、顧問弁護士へ電話をかけて留守電に犯行の一切を自供する。

 翌朝、何もかもが吹っ切れてしまったベイトマンは憑き物が落ちたような顔で颯爽とアレンのアパートへ向かうが、そこには血溜まりも死体達の姿もなく、ただリフォーム途中の部屋があるだけだった。部屋のオーナーらしき女性にアレンの所在を尋ねるも、不審がられて追い出されてしまうベイトマン。

 理解が及ばないながらも、いつものように同僚達とテーブルを共にしたベイトマンは、昨日電話をかけた弁護士を見つけ、彼に近付いて再び犯行を自供したが、悪趣味なブラックジョークだと思われて取り合ってもらえない。あまつさえ弁護士はベイトマンをデイビスという人物と勘違いしている始末である。

 それでもアレンはロンドンになど行っていない、自分がアレンを殺したのだからと主張するベイトマンだったが、弁護士はそんなはずはないと頑なに反論する。その根拠をベイトマンが問うと、弁護士は「アレンとロンドンで食事した」と答えたのだった。

 つまり、この映画はアレンや弁護士のようなキャラクターで表現されるヤッピー達の「他者への無関心」というファクターの上に、「果たしてベイトマンはシリアルキラーなのか?はたまた全てが彼の妄想の出来事なのか?」というどちらにも転びうるストーリーを乗せたことで、一筋縄ではいかないサスペンスと重厚な余韻を齎すなかなか練られた作品なのである。


 一通り前作のあらすじを説明したところで、本作の話に戻ろう。

 本作イチの衝撃は、スタート直後にやって来る。なんと主人公が、パトリック・ベイトマンの殺戮をすんでのところで生き延びた生存者だと告白するのだ。

 私もこれには椅子の上でひっくり返った。先述のように、前作の魅力の一端は「パトリック・ベイトマン、クロかシロか?」という部分にも存在していたからだ。生存者がいるということは殺人事件が確かに起こったということであり、つまりベイトマンは確実にクロになってしまう。

 しかも、ベイトマンがベビーシッターを凌辱している間に縛を解いた少女時代の主人公が後ろからアイスピックで一突きすることで、何故かベビーシッターもベイトマンも仲良くあの世行き。少女時代の主人公はするりとベイトマンの部屋を抜け出して家に帰り、ベイトマンの死の真相は謎のまま……ってちょっと待て。いくら無防備な背中を狙ったとはいえ、12歳の少女がアイスピックのような尖状無刃器の一突きで大人を殺せるものかあ?

 実際のところ、前作との関わりらしい関わりといえばここでベイトマンの名前と姿(勿論、演じているのは前作のクリスチャン・ベールではない)が出てくる程度でしかないので、本作を『アメリカン・サイコ』の続編と呼んでいいのかは甚だ疑問である(これも後述するが、多分続編と呼んでいい代物ではない)。既にご都合主義が香るが、本作の破綻っぷりはまだまだこんなものではない。なんたってここまでで2分少々、まだ80分以上が残っている。さあお立合い。

 ベイトマンを屠ったことでそのテの快感に"目覚めて"しまった我らが主人公・レイチェルは、シリアルキラーを追い詰めることこそ自身の宿命と定め、犯罪プロファイリングを学ぶべく国内屈指の大学に進学する。ベイトマン事件を担当したFBIのプロファイラーで、現在は行動科学の教鞭を執るスタークマン教授の下で勉学に励む日々だ。高校時代の成績は勿論オールA、大学でも真面目に講義を受け、頭が悪くなるから煙草もやらない──ここまでの経緯が、全てレイチェル本人の独り語りによって説明される。

 本当に全てだよ、全て。主人公がやることなすこと全て自分で解説してくれるワンマンショーなので、ある意味非常に分かりやすい作りである。問題点を挙げるとすれば、この演出は死ぬほど安っぽく、ナルシシズムが鼻につく語りにはイライラさせられるということだけだ。

 実は前作も全編を通じてベイトマンの主観で話が進んでいたのだが、自身の動機や手段について解説するモノローグが入ることはほぼなかった。多くを語らないことで、鑑賞者は「ベイトマン自身にももう凶行を止めることが出来ないのだ」と理解する。そしてベイトマンというピントのズレたレンズを通して全てを追いかけて来たために、ラストシーンでのちゃぶ台返しが効いてくるのである。制作陣は前作ちゃんと観た?まあ、観てはいないのだろうな。本作は随所に見え隠れする志の低さを隠し切れていないのだから。

 さて我らが饒舌な主人公レイチェルによれば、スタークマン教授の教務助手になれれば確実にFBI捜査官養成校、クワンティコに入局出来るらしい。成績には自信があるが、無論成績だけが全てではない。

 レイチェルにはライバルがいた。大金持ちのドラ息子で、大学すらも金の力で入ったブライアン。教授と寝ているらしいカサンドラ。成績優秀で幾度となく討論してきた(が、レイチェルが全勝してきた)キース。レイチェルの頭の中では、自身の合格はもう殆ど既定路線だった。

 意気揚々と教務助手に応募するため事務局へ行ったレイチェルはしかし、1年生であるという理由で出願を拒絶されてしまう。助手に出願できるのは、原則として3年生からだというのだ。レイチェルは教授に特別に許可された(無論嘘八百である)と食い下がるが、取りつく島もなく袖にされてしまった。

 これはあくまで規則上そうなっているという話であり、別に意地悪をしているとか差別だとかでは全くない。全くないのだが、既に(後述の事情で)理性のタガが緩んでいるレイチェルは、出願を突っぱねた事務員のおばちゃんを自宅までつけて撲殺してしまう。

 この殺人が如何にも唐突で、取って付けた感がすごいので、本作はとりあえず観客に意外性を見せつけることには成功している。無死2、3塁の場面で1塁に牽制球を投じるような意外性だが……。

 レイチェル曰く、自分がFBIに入れば何人ものシリアルキラーを挙げられる。その社会正義を実行するためならば、数人の障壁を始末したところで何の問題があろうか?ということらしい。如何にもチープでありがちなサイコパスの屁理屈である。大体「出願を希望しているのに、その応募資格を確かめておかないなんてことがあるか?」とか「おばちゃんを始末しても規則が変わる訳じゃないだろ」とも思うが……突っ込んだら負けである。ここ、まだ序の口ですよ!

 助手になるという悲願のためブレーキが外れた暴走特急、レイチェルは次々と"障壁"達を排除しにかかっていく。

 まずレイチェルの毒牙にかけられたのはブライアン。レイチェルが出願を諦めれば7桁支払うと持ち掛けたのがまずかった。レイチェルに色仕掛けで部屋に連れ込まれ、引き伸ばしたコンドームで首を絞められてキュウ。

 うわあ、嫌な死に方だなあ。世の男性諸君の「こんな死に方はイヤだ!Best10」があるとすれば、堂々のランクインを果たしそうな情けない死に様である。本当に伸ばしたゴム程度で成人男性の首を絞めることが出来るかどうかはさておき……。

 凶行の合間に、レイチェルは何故かカウンセリングに通っている。何ら良心の呵責も感じていないのにも関わらずである。レイチェルが自発的にカウンセリングを受ける、というのも「レイチェルがどういう奴なのか明示しておきたい」という動機が透けて見える如何にも唐突で投げやりな展開だが、担当精神科医のダニエルズ先生はレイチェルが語るテンプレートなサイコパスっぷり(と、スタークマン教授に対する崇拝)にブルってしまい、旧知の仲であるスタークマン教授に電話を入れた。

「守秘義務があるから名前は言えないが、君の学生にヤバいのがいるぞ!」と親切にも警告してくれるダニエルズ先生だったが、何故かスタークマン教授は自分に首ったけになっているカサンドラのことと誤解してしまう。ああダニエルズ先生、どのみちスタークマン教授にお電話した時点で守秘義務違反なのだから、なぜイニシャル程度でも名前を出さなかったのか。このダニエルズ先生の不可解にも思える保身が、ちっとも笑えないすれ違いコントへと繋がっていく。

 ちなみに、これは最早お約束とも言える展開だが、ダニエルズ先生の電話はレイチェルに盗み聞きされており、 これでダニエルズ先生は無事(?)レイチェルの警戒リスト入りを果たしてしまうのだった。

 次にレイチェルの毒牙にかけられたのはカサンドラ。レイチェルが崇拝するスタークマン教授と寝ているのは、どう考えてもまずかった。加えて教授の助手に内定したことを親友のつもりのレイチェルに嬉々として語ってしまった彼女は、学部のパーティから連れ出され首吊りに見せかけられてキュウ。レイチェルは天井からぶら下がる彼女の胸に「彼の愛が足りなかった」と書いて偽造した遺書を貼り付けておくのも忘れない。

 ここで何故かレイチェルは再びダニエルズ先生の元を訪れ、最早お馴染みのイライラさせる独り語りを一方的にぶつけた後、勝手にカウンセリングを打ち切ってしまう。ああ、不憫なダニエルズ先生。このシーンはダニエルズ先生というキャラクターがどのような存在なのかをレイチェルの口を借りて語らせる(曰く「的確な分析よ」!)以上の意味を持たず、繋がりも唐突かつ不器用な印象を覚える。まあ、ぶっちゃけ本作はそういうシーンばかりなのだが……。

 最後に毒牙にかけられたのはキース、ここまでくると犯行は大胆そのもの。大学図書館で自習する彼を後ろからアイスピックで一突き。 そんな静かで衆目のあるところで殺ったら流石にバレるだろ、と突っ込みたくなるが、それは野暮ってえもんだ。

 一方、ここまで来てやっとカサンドラの欠席に気が付いたスタークマン教授は、寮の部屋を訪れて天井からぶら下がる彼女とご対面。焦りまくった教授は自分の学生と寝ていた証拠を隠滅し、ダニエルズ先生に怒りのお電話を掛ける。

 教授は勿論ダニエルズ先生が警告したのはカサンドラのことだと思い込んでいるので、まともな精神分析をしなかったとダニエルズ先生を一方的に叱責し、ダニエルズ先生が二の句を継ぐ暇もないまま精神安定剤の処方を頼んで電話を切ってしまう。

 その翌日は春休み前の最終日、つまりレイチェルが待ちに待った来年度の教務助手の発表日である。レイチェルは無論自分が選ばれるものと思い込んでいるが、傷心のスタークマン教授は長期休養を取ってしまい、当然教務助手は採用なし。鑑賞者はそらそうだろうと誰もが思うが、頭のネジが緩んでいるレイチェルには通用しない。教授の許へ押しかけて色仕掛けを試みるが、浅はかにもカサンドラの服やネックレスを身に着けていたために失敗してしまう。

 捨て鉢になったレイチェルは自身がベイトマン事件の生き残りであることを告げ、犠牲になったベビーシッターのクララが教授のかつての愛人だったことを問い詰める。精神安定剤とウィスキーでフラフラになった教授は更に衝撃を受け、そのまま窓から転落してしまうのだが……この「クララが教授の愛人だった」という事実は、特に前振りらしい前振りもなく、ここにきていきなり語られるため、鑑賞者のほうも面食らってしまう。これだけ全編を通じて、主人公が自身の動機や正当化の理屈に関してベラベラベラベラ腹立たしいお喋りを続けて来たのにも関わらず、である。

 曰く、FBI時代のスタークマンが愛人のクララにベイトマン事件の資料を見せてしまったことで、クララがベイトマンに一目惚れしてしまい、男を乗り換えるためにわざとベイトマンの毒牙にかかりに行ったというのだが……ぶっちゃけ、そんなものは自業自得としか思えない。

 天下のFBIが容疑者リストに載せているのだから、ベイトマンが危険な男である可能性の高いことくらい当然理解が及びそうなものである。ましてや彼女は12歳になる少女のレイチェルを連れてベイトマンと会っているのだ。いくら何でも常軌を逸している。常軌を逸した行動をさも意外な真実のように語られたところで、鑑賞者は憮然とするより他にない。

 百歩譲って、クララの死に責任を感じたスタークマンがFBIを辞して教員になることまではまだ理解が及ぶが、それを今更になって事件の生き残りを名乗る妄想狂の女学生にベラベラ捲し立てられたところで、そこまで衝撃を受けるものだろうか?

 ベイトマンが背中を刺されて死んでいる以上、現場には最低でももうひとり人物がいたことくらい分かるだろうし、その可能性をスタークマンが見逃していたとも思えない。それにレイチェルは部屋を抜け出てくるところを近隣の住民に目撃されている。普通の捜査機関はその辺りを真っ先に洗うだろうし、クララが当日ベビーシッターをしていたのならレイチェルにも捜査の手は及ぶはずだ。レイチェル本人は事件に関して「黙っていた」と言っているが、本人よりも状況証拠のほうがずっと雄弁である。

 つまり、ことの発端となるベイトマン事件があまりにもご都合主義的なのだ。捜査機関が信じられないまでの無能さを持っていない限りこういう展開にはならないはずで、いくらフィクションとは言え、全くあり得そうもない仮定の上で話を進められるとチープさばかりが際立ち、鑑賞者はうんざりしてしまう。

 それに、レイチェルの目的はスタークマン教授に気に入られて教務助手の座を手に入れることではなかったのか?ただFBIへ入局したいだけなら、他になんぼでも方法があろう。スタークマン教授の在籍する大学に入ったのは、教授へ何らかのこだわりがあったからだと見るのが普通だ。実際レイチェルはここまでスタークマン教授への愛情をくだくだしく語ってきていたのだし、教授が休職してしまったら用済みとばかりに始末してしまう展開では、プロットが腸捻転を起こしている。

 一部始終を目撃していた用務員もついでにバラしたレイチェルは、教授の亡骸を車に乗せて寮に帰ろうとするのだが、運転が荒いばかりに途中で警備員にも見咎められてしまう。当然この不幸な警備員もバラされるわけだが、もうここまで来ると無差別殺人である。レイチェル本人はことある毎に用意周到に計画(殺人)を実行して目的に近付いていくという姿勢を自慢するが、実態とは全く合致していない。用務員の亡骸に至っては、無造作にゴミ箱に捨てているだけである。凶行が露呈しない方がおかしいのだ。ご都合主義であるなあ。

 一方、スタークマン教授と連絡が取れないダニエルズ先生の下に、またもレイチェルから予約の電話がかかってくる。自分からカウンセリングを打ち切っておいて、何故今更……と思うが、これはすれ違いコントの前振りなのであまり深く考えてはいけない。スタークマン教授からの連絡でレイチェルが死んだものと思っていたダニエルズ先生は再び教授に電話を掛けるが、当然留守電に繋がるだけだった。 

 さて、一通り暴れまわって高飛びの準備を始めているレイチェルの許には田舎から両親がやって来る。母親の誕生日を祝うためだ。両親はレイチェルの部屋に入るなり臭いと言い出すが、レイチェルはトイレが詰まっただのなんだのと言い逃れる。ここまで来てしまえば鑑賞者にはもう臭いの正体は自明なのだが、本作はまだまだ展開をもたせる。こんなにご都合主義に塗れているのに、更に尺稼ぎまで行う姿勢にはもう脱帽だ。

 そのレイチェルが両親のために予約した店と、ダニエルズ先生が母親のために予約した店がたまたま同じだったのが運の尽き。二人は再び顔を合わせてしまった。ギクシャクするダニエルズ先生を尻目に、レイチェルはそれとなく彼の母親を盾にとって牽制するが、ダニエルズ先生もダニエルズ先生で、レイチェルを呼び出して「君は首を吊って死んだはずだ」などとぶち上げる。見るからに生きている相手に、死んだはずだもクソもへったくれもあるものか。しょうもないすれ違いコントの応酬に、鑑賞者は欠伸を嚙み殺す……。

 やっとスタークマン教授のオフィスを訪れたダニエルズ先生は、荒れた室内を見て事件の匂いを嗅ぎ取り、その足で保安官事務所へ駆け込む。教授の捜索願を出そうとしたダニエルズ先生だったが、保安官からこの1年で教授を含めて3人も失踪者が出ていることを聞かされる。ひとりは事務員のおばちゃん、もうひとりはレイチェル・ニューマンその人だった。

 つまり、こういうことなのだ(鑑賞者の大半はもう気が付いているだろうが……)。レイチェル・ニューマンは孤児であったために、我らが主人公に狙われた。入学早々に「キュウ」されて入れ替わられてしまったのである。

 当然友人達から捜索願が出されたが、無能な保安官は部屋を訪れた際に出てきた我らが主人公に「君がレイチェル・ニューマン?」と尋ねたために、ことを察した我らが主人公にまんまと騙されてしまったのだ。なるほど、この世界の捜査機関は無能であるなあ。それにしたって、顔写真くらい確かめたりしないのか。

 我らが主人公の部屋が臭うのも当然のことで、彼女は本物のレイチェル・ニューマンの亡骸とずっと同居していたのだ。ということは、おそらく我らが主人公は大学に合格すらしていない。在籍者の数が合わなくなるからだ。なんだよ、高校時代の成績オールAだったんじゃないのかよ。

 スタークマン教授の亡骸とレイチェルの亡骸、大量のガソリンとレンガ1片を車に積んだ我らが主人公は教授の別荘へと向かうが、その途中で保安官達とダニエルズ先生の乗ったパトカーに発見されて追跡される。

 もっ……さりとしたカーチェイスが展開された後、一旦追跡を振り切った我らが主人公は川縁のガードレールに教授の亡骸を放置し、それを見つけたダニエルズ先生もろとも轢き殺さんばかりの勢いで車ごと衝突。車はガードレールを突き破り、川へと転落して爆発炎上するのだった。

 2年後、クワンティコのFBIアカデミーでレイチェル事件について講演するダニエルズ先生だったが、聴衆の中に我らが主人公を見つけて色を失くす。彼女は再び正体を偽り、エリザベス(スタークマン教授の最後の教務助手)と名乗ってぬけぬけとクワンティコへやってきていたのだった……。

 レンガを車に積み込んだ時点で全て想像がついてしまう、あまりにも捻りのないオチだが、そういう面白さを本作に求めるのがそもそも間違いなのだろう。「死体の数が合わないし、よしんば本物のレイチェルの亡骸と間違えたとしても、本物のほうはグズグズに腐ってたんだから、健康体だった偽物が死んでないことはすぐ分かるだろ」などと言ってはいけない。大体、本作は一事が万事こんな調子で、よく考えてみなくとも全てが明示的に破綻しているのだ。前作で破綻していたのは主人公の精神だったが、本作で破綻しているのは脚本のほうだ。突っ込むだけ無駄である。

 もっと言ってしまうと、実は本作は元々『アメリカン・サイコ』とは何ら関係のない企画であったらしい。制作途中でいきなり『アメリカン・サイコ』の続編として発表することになり、脚本が大幅に書き換えられたのだ。なるほど、道理で底が破れているわけである。逐一触れると長くなるので書かなかったが、本作には「そこそこの存在感を醸し出しておきながら、ストーリーにはほぼ絡まない」というチェーホフの銃的観点で見れば完全に赤点の脇役なども複数存在している。その存在も制作上のゴタゴタが絡んでいたとすれば納得だ。溜飲は全く下がらないが。

 前作の原作者であるブレット・E・エリスもタイトルを貸しただけで、本作にはノータッチだったという。彼は後に本作を批判しているが、この出来を考えれば当然というものだろう。何なら主演を務めたミラ・クニス本人も、本作をキャリア上の汚点と考えているそうである。

 本作は典型的な「生まれてはいけなかった続編」である。そもそもミステリとして見れば少々アンフェアな仕上がりである前作に、続編を作ること自体が不可能だと言わざるを得ない。往々にして、アンフェアな作品はストーリーの仕掛けそのものが命である。続編を観るにあたって当然仕掛けが分かっている鑑賞者達を、それでも納得させる力に満ちたストーリーを作るというのは、並大抵のことではないのだ。

 その不可能に無謀にも斬り込んだ本作は、なんとというかやっぱりというか、無事に爆発炎上した。志の低い作り手達が、おざなりな仕事をしているのだから当然だ。英雄的とは到底呼べない蛮勇の末に生まれてきたのが本作だったわけで、本邦でビデオスルーになってしまったのもむべなるかな。残念でしたなあ。